
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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根が俗にできているためか、純文学を愛する私だが、高校生のころ一番よく読んでいたのは歴史物で、特に忍者の類は大好きだった。
ひさしぶりに歴史物を読んだ。隆慶一郎『吉原御免状』である。ジャンプ世代にとっては原哲夫『花の慶次』の原作者として馴染みのある作家だ。前から気になってはいた。つい最近になっていよいよ読む気になったのは網野善彦『歴史と出会う』の中で隆氏が取り上げられていたからだ。
例えば、学校で習う歴史とは、つまりは「政治」の歴史であると思うが(「文化史」というのが別項にあることからも)、その時々の為政者の移り変わり、体制の変化を追うものだ。もちろん、それはそれでおもしろいのだが、学校教育の歴史だけしか知らないのは、やはりつまらない。
余談というか思い出話だが、私が中学3年生のころ通っていた塾で、社会科の教師が、入試に頻出するテーマ、あるいは教科書全体を貫いているテーマはずばり「民衆から見た歴史」だ、と言っていたのが、いまだに印象深い。そのときは、「ふーん、そうか」と受験対策になればいいぐらいに思っていたが、心の隅では「なぜ民衆の視点なんだろう」と思いもした。
いま考えると、その意味もわからないではない。さらに、ただの「民衆」ではなく「虐げられてきた民衆」と言えばよりその意図が見えてくる。
学校教育による歴史観に別の視点を与え、あるいはまったく違った世界観を提出してくれる意味でも、歴史小説や様々な歴史を学ぶことは刺激的だ。
これも最近読んだ、マンガ『カムイ伝』。これは、民衆(農民)だけではなく、当時の差別政策の最下層にいた人々にスポットを当てている。徳川家康が賤民の出である、とする点など、似ている。
ただ、『カムイ伝』は、民衆=農民を中心に考えた学校歴史に対するアンチ(?)ではあるが、どこかその根底の発想は同じ、あるいは相似をなしている気がする。それに対して、隆氏の『吉原御免状』は、オルタナティヴ。もっと大胆で自由奔放な感じがする。自由奔放とは奇想のことだけでなく、その主人公や登場人物、世界設定に通底するアナーキーなにおいのことだ。ジプシーとか、そういう感じ。
歴史は細部がおもしろい。例えば花魁の接客術・媚術に関する説明などには感嘆させられるし、そういった微細で無数にある技術の集成が歴史を作っているように思える。
あっという間にワールドカップになっちまった。人並みに日本には勝って欲しいと思う。
ヒマなので、日本の政治のあり方や、世界共和国構想などについて脳を無駄に使う。ネオリベをずっと左の思想と思い込んでいたのだから、気楽なものだ。
NHKスペシャルで小泉改革を問い直す、みたいなのやってて、北海道などの地方自治体への交付金?を打ち切る政策によって、それまで公共事業とかに頼ってきた地元の産業やその産業の周辺で商売をしていた人たちの生活が苦しくなる、というを見て、だったらどーすりゃいんだろうと5分間だけ悩む。
企業努力、自助努力だけでは限界がある、構造的不況だ、政策が間違っている、と地元の企業は言う。
結局、資本主義とかネオリベ的なやり方では、どこかにシワ寄せが行くのだろうか。かといって旧自民党的再分配政治でも世界競争の中でどうにもならんのだろうか。ようわからんけど。
例えばそういったネオリベ的競争社会の中で、親の金で暮らしているニートは、糾弾されて然るべき存在、なのだろうか。資本主義社会の徒花?
現代人の考え方・コンセプト・物事への基本的な態度は、だいたい3つに分けられると思う。例えば、「国家」というものに対する態度とかがわかりやすい。
1、国家は在る。と思っている人。
2、国家はない。国家は幻想だ。と思っている人。
3、国家は幻想だ。けど、在るように振る舞う。人。
北田暁大の「嗤う日本のナショ」を読んでいて、どうにもアイロニーとシニシズムの区別がつかなかったときに、とある人に、それの違いを聞いたところ、完結に「アイロニーは信じていて、シニシズムは信じていない」と答えてくれた。これ以降、アイロニーとシニシズムがだいぶわかりやすくなった。感謝。
で、まあ、サブカルとかに浸っている人にはシニカルな人が多い?。愛とはつまり幻想。
すべてが幻想ならば、すべての存在や出来事は快楽となりうる。かなぁ? 日本とか国とかサッカーとか、本当はどうでもいいんだけど、日本とか国とかサッカーを愛しているように振る舞った方が、熱狂できる。快楽に浸ることができる。
貧乏でも金持ちでも、人生における本当の豊かさの基準にはならない。勝ち組なのに負け犬?みたいな。であるならば、資本主義の勝者も資本主義の徒花ニートも、それだけでは幸福は計れない。
というか、以上を含めてシニシズムに堕するべし。