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  旧形国電の思い出(10)−大川支線のクモハ12−

○昭和56年10月撮影/☆昭和58年8月撮影
   

   昭和58年に飯田線の旧国が全滅したあと、私は約2年ほど「鉄道趣味虚脱状態」となってしまった。以前にも触れたが、SLファンがその全廃時に目的を失った気持ちが何となく理解できたものである。

   この時点で旧国が残存していたのは富山港・可部・長門本山(支)・大川(支)の4線区で、いずれも小規模の線区であった。そのうち富山港線と可部線では程なく旧国が淘汰されたものの残る2線区は国鉄〜JRと生き長らえ、オールドタイマーとしてファンの注目を集めていた。今回はそのうちの鶴見線大川支線のクモハ12を取り上げてみよう。   

 タイトルの「旧形国電の思い出」を綴ろうとして、ふと考える。距離にして1km/2分弱の行程で思い出と言うには何があったろう?  少なくとも車内でゴトンゴトン揺られていた時のことはよく覚えていない。

武蔵白石にて(誰でも撮るアングル)  ☆

     すると写真撮影であるが、これには少々思い出がある。なにせ工業地帯の中でたったの1kmの路線、誰が撮っても同じような(雑誌にあるような)お決まりの写真になってしまうのである。そこで少しでもオリジナルのアングルを見つけられないかと躍起になったのが思い出される。(その割りにたいした写真は撮れなかった。)

   この頃はまだ土・休日の日中でも列車の設定があり、武蔵白石〜大川を往復するファンの姿がよく見かけられた。

   そんな地味な運用のクモハ12であったが、晩年の一時期にその運用を広げたことがあった。鶴見や海芝浦へも姿を見せるようになったのである。これは適正輸送(1両でも足りる区間・時間帯)を考慮した一種の減量施策であったが、ファンにとっては思わぬ朗報となった。

 

走行写真が撮れる数少ない地点で  ☆

   自分は学生時代(昭和62年ごろ)、ある平日の日中に鶴見〜海芝浦をこのクモハ12で往復したことがある。さすがに17m車1両では沿線の利用もある鶴見小野〜鶴見あたりでラッシュ並みの混雑となってしまったことを覚えている。そんな施策が不評だったのか、廃止直前はもとの武蔵白石〜大川の運用に戻ってしまっている。

   鶴見乗入れ時の写真を撮っておくんだったな…。

 

      

土・日は専らファンが乗っていた   ○

  

 

武蔵白石へ入線(200mmレンズにて)  ○

運転室扉を後方から   ☆