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旧形国電の思い出(最終回)−さらば省電、飯田線の旧国− 

  

   昭和58年6月、最後の旧国天国・飯田線もついに“その時”を迎えることとなった。その直前の5月29日、私は友人のY氏と初めての「大垣夜行」に乗り豊橋に降り立った。まさに「飯田線ラストチャンス」、惜別乗車のスタートであった。

   この日の乗車列車は1221M(豊橋 5:51−13:00辰野)、当然ながら戦前製旧国の運用である。この時期、戦前製旧国と運用を分け合っていた80系は一足先に119系化されていた。そのため旧国の運用は半分程度になっており、予め鉄道誌でその運用を調べたうえでの来訪となった。

   今回がラストチャンスとあって写真のショット数もいつになく多く、現存するネガで数えると乗車しながらの撮影でも64コマも撮っていた。

 

早朝の豊橋にて(先頭はクハ68418) 

      ←辰野    クハ68418+クモハ54125+クモハ61004+クハユニ56004  (静ママ)

   この時期の週末とあって、さすがにファンの姿も少なからず見受けられる。地元客と思しきオッサンが「きょうは朝から何か行事でもあるのか?」といぶかしげに連れと話している。そりゃ朝の6時前からカメラ持ったファンがホームを盛んに行き来しているのだからね…。天気は小雨模様で撮影には少々うらめしい。同行のY氏は早速旧国のツリカケ音を録音し始めた。

   豊橋機関区が右に去り、複線区間のため対向列車を注視すると舟町で早速旧国の2連がやってくる。おっ、クモハ53007だ。流電なきあとの飯田線の白眉、張上げ屋根と広窓が優美な車両である。だが天候が悪いのと、列車の窓越しの撮影とあって写りはイマイチだったかな?   (右の写真)

舟町でクモハ53007と出会う

   豊橋発車時はホームにファンの姿が目立つも、日曜の早朝とあって車内は4連を持て余すほどすいている。私は当初クモハ54にいたが、隣のクモハ61が無人なのを見て移動する。ロングシート車は人気がないのかな、と思いながらも貸切状態の車内である。本来なら天竜川沿いの渓谷美を車窓から眺める区間なのだが、今回ばかりは車両の撮影に力が入り過ぎたか印象がほとんど残っていない。

   悪かった天気も雨はやんで中部天竜あたりから時折日がさすようになる。交換列車を注視するが119系や165系が多い。かと思ったら伊那小沢ではクモユニ81と出会うが、また曇天。ああじれったいな…。 

   天竜峡〜飯田は地元客で少々混み合い、立客も出る。この人達にとっては新車に置き換わってくれたほうが良いのだろうなどと考えていたら飯田でほとんど降りてしまい、列車はまたもすいてしまった。

無人となったクモハ61004の車内

   天気が回復し暑い。「大垣行」乗車時から着ていたセーターを脱ぐ。飯田以北は時間帯が良いのか、沿線で撮影するファンの姿も窓越しに見られるようになる。なかには8ミリで動画撮影に興じるファンの姿も…。(20年前は8ミリだったのだ!)

   さて、もう天気の心配は全くなくなった。伊那大島での停車時間を利用して形式写真を反対ホームから丹念に撮影する。このあたりまでは停車時間を利用して自由に撮影できたのだが、駒ヶ根から再び地元客で混み出して席を立てなくなってしまった。沿線での撮影を終えたと思しきファンも結構乗りこんでくる。

   定刻13時ジャストに辰野着。しかしこのまま帰宅では惜しい。実は手前の伊那松島機関区がファンのために撮影の便宜をはかっており、Y氏共々これは行くべきと早速折返し電車で訪れてみる。

単線のため、待ち時間に撮影できる(伊那大島)

   伊那松島駅に併設されている伊那松島機関区(実際は電車区)には先客の鉄道ファンが既に撮影にいそしんでいる。青い空と白い雲、これらと「スカ塗り旧国」が実にマッチする、これこそ旧国の楽園だ。あぁ、20年前のこの日…。Canon AE-1を手に夢中で撮影したのが昨日のことのようである。

   当時19才の私にとって、印象に残る初夏の1日となった。

 

 

 

(下)クモハ51029ほか3連    (右下)クハ47069

クモハ51029とクハユニ56011

   伊那松島での撮影を終え、上諏訪行きの247Mに乗る。これも旧国編成である。車番は、←上諏訪   クハ68414+クモハ43015+クハ68420+クモハ54129 であった。私は初めてクモハ43に乗車したが、狭窓と肘掛のないクロスシートが連なる車内を見て、往時の幹線での活躍をイメージしたものである。

   この車内は撮影したもののフィルムの最終枚数を超過した部分であったため、DPE屋でネガを途中でちょん切られてしまい、プリントもできない状態であった。あれから20年後、パソコン普及でフィルムスキャナを使いクモハ43の車内は甦った。右にその内装を掲載しておこう。(車内右側が欠落している)

   ニスを塗った木製のイスが何とも懐かしい。仮にもう10年遅く、JR化後に廃車であったならば、必ずや保存の話が持ち上がっただろう。しかし財政も苦しかった国鉄末期とあってはそれを望むべくもなく、何とも残念であった。

   さて、以前にも書いたが、当時の私は鉄道ファンとして旧国に強く惹かれていた。そのため「最後の旧国天国」飯田線が落城したときは一種の虚脱状態になり、鉄道趣味自体にも力が入らなくなったものである。そんなわけで後年は乗りつぶしにその対象をシフトして今日に至っている。

   最後に当時を振り返って思うことを記しておこう。浪人・学生時代は概して費用の面から旅行の機会が限定されてしまう。しかしその限られたチャンスでは、持ちうる五感をフルに活かして旅先の全てを吸収するエネルギーに満ち溢れていたと言える。そしてこんな旅行こそが後々までも印象に残る旅行となり、20年の月日を経てなお鮮やかに甦るのである!

   さらば旧国、さらばツリカケの唸り、掴み棒、ニス塗りの車内…。

 

辰野での247M上諏訪行き