トップページへ     夢は鉄路を駆けめぐるへ    最近の話題へ

 

  旧形国電の思い出(2)−中学生の見た横浜線73系−

 

   中学生になり「鉄道ジャーナル」も購読するようになった私は、昭和52年8月号の「旧形国電は生きている」という特集に目をひかれた。小学生のように親の用事に引き連れられてではなく、自分の意思で乗りたい列車に乗ろうと思ったのはこの頃からである。

   ただ、行動半径は中学生の時間的/資金的な面から大きな制約があり、とりあえず自宅の最寄駅(当時は大船)から乗れる最も身近な線区を「鉄道ジャーナル」で探すと、横浜線73系が候補にあがった。既に103系と運用を折半していたが、さらに調べると磯子乗り入れの運用もあることがわかった。中3の秋、肩からキャノネットを下げてさあ磯子へ……。

 

磯子を出発(昭和53年11月2日撮影)

   このショートトリップで画期的なのは「乗車ルポ」を自作し、それが現存していることである。15才の中学生の文章は何とも拙いが、運用や車番メモは正確で、三段窓の観察記事等も含め資料性はなかなかのものである。(自画自賛だな…)

   これは明らかに「鉄道ジャーナル/ドキュメント列車追跡」の影響を受けており、同誌を読んで「乗車ルポ」にトライしたファンも少なくないと思われる。

三段窓のサハ78(東神奈川にて)

   さて、この日乗った「1447デ」中山行きは14:01に磯子を出発、編成は先頭からクモハ73505+サハ78212+サハ78177+クモハ73604の4両編成である。サハ78177だけがオリジナルの三段窓を残しており、乗車早々開閉にトライしてみた。 

   上段の操作は103系あたりとほぼ同じだが、中段は独自のロック機構がなく、下段を上昇させる時に一緒に引っかかって上へという仕組み、初めて知った驚きがルポに記載されている。なお、窓枠が錆びていて操作に苦労した様子もうかがえ面白い。

   横浜に着くとタッタ4両の旧国は満員となり、そのまま東神奈川から横浜線にはいる。

中山駅も当時はのんびりとした雰囲気だった。

   今でこそ沿線開発が進んだ横浜線であるが、この昭和53年当時は全般的にのどかであった。駅ホーム屋根も短い駅がほとんどで、右の中山も現在とはかなり雰囲気が異なった。また当時はこの中山行きや小机行きなど途中駅折返しの運用も多く、要は北へ行くほど沿線が未開発だったことを物語っている。釣掛の唸りは沿線はるか遠くからでも聞こえたかもしれない。

  磯子から40分、中山に着いた。すぐに東神奈川行きとして折り返す。ルポは「〜73系にとっては重労働の様にも感じたが、引退の時まで精一杯頑張ってほしいと思った。」と結んでいる。ちなみに横浜線の73系は翌年の秋に全廃され、103系への置換えが完了した。

モハ72から改造のため、のっぺりしたツラ構え