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  旧形国電の思い出(7)−鶴見線の72・73系−

   

   チョコレート色の72・73系は首都圏に比較的多く残っていたが、昭和50年代前半には次々と淘汰されていった。昭和54年に横浜線が全車103系化されると、残るはここ鶴見線だけとなってしまった。鶴見線は他に17m車として大川支線のクモハ12が平成8年まで頑張ったが、こちらは別稿として取り上げる。

   鶴見線と言えばオールドファンにとっては17m車の活躍で知られるが、昭和47年に72・73系に置き換えられた。この系列が淘汰する側に回ったのはおそらくこれが最後だろう。

  

弁天橋〜鶴見小野にて(昭和54年11月)

   今、鶴見線を時刻表で見ると、実に輸送実態に見合ったダイヤとなっていることがわかる。つまり工場への出退勤の時だけ運転頻度が増すが、平日の日中と土休日は実に閑散としたダイヤとなっている。

   しかし72・73系が現役の国鉄時代、首都圏の国電区間が閑散ダイヤでは気がひけたのか、乗客が見込めない時間帯でもカラの編成を頻繁に行き来させていたものである。

   需要や採算という言葉に無頓着な国鉄時代のダイヤであったが、乗ったり撮影するファンにとっては実に有難く、高校時代の日曜日にカメラを肩から下げて何度か訪れたのが懐かしい。   

平日の夕方でも下りはガラ空き(昭和54年7月)

   ちょうどその頃「鉄道ジャーナル」誌で鶴見線の小特集があり、「〜工業地帯をのし歩く」という形容で72・73系の姿を取り上げている。そう、「走る」という表現はこの線区には全く当たらない。駅間が短く、工業施設に囲まれた鶴見線には釣掛のウナりはあまり期待できなかったが、「のし歩く」ような情緒は確かにあったと思う。

   右は海芝浦折返し時の撮影で、このホームの右側は海である。今も工業地帯の「のんびりした駅」として鉄道誌等に取り上げられるが、それはこの頃も同じであった。

海芝浦で折返し(昭和54年11月)

    晩年の鶴見線72・73系は先に置き換えとなった他線区(特に南武線)から多くの転属車が流入した。そのため車体更新車/全金車が多く、車両趣味的には今ひとつだったが、左のクハ79392のように古い内装を残したものも若干あった。

   置き換え直前(昭和55年1月撮影)のため、この時は他にもファンが少なからず乗りこんでいた。吊広告の「新雪1号」が懐かしい。

   後の鉄道誌によると、この鶴見線の「さよなら運転」はかなりのファンでごった返したようである。私はさよならイベントの喧騒は好きではない。しかしスシ詰めの車内は通勤用として生まれた初の4扉車72・73系本来の姿を演出していたのかも知れない。

過渡期の弁天橋電車区/左に101系が見える