トップページへ     夢は鉄路を駆けめぐるへ    最近の話題へ

 

  旧形国電の思い出(9)−「旧国天国」飯田線−

   

   旧国ファンにとって飯田線はまさに「旧国天国」であった。流電クモハ52、合いの子クモハ53から後年は全金80系に至るまで、まさに何でもありの旧国の見本市的な路線としてファンを引きつけたのであった。特に昭和56年に大糸・身延線から旧国が淘汰されてからはファンの注目を一層引きつけ、鉄道誌でも取り上げられる機会が増えたと記憶している。

   自分と飯田線との接点で唯一残念なのは、昭和53年秋に廃車となったクモハ52の乗車に間に合わなかったことである。後に佐久間レールパークで保存車に「乗車」したが、やはり釣掛の唸りと共に乗りたかったものである。

水窪にて(昭和56年8月20日撮影・以下同じ)

   それでは初乗車の昭和56年8月にタイムスリップ、今回も例により現存する「乗車ルポ」を紐解こう。

   切符は「信州ワイド(学割)」を使い、上野0:22発「信州9号」で長野へ。当時は新幹線も未開業のため、上野は寝台・座席夜行とも百花繚乱の時代、当列車は日付が変わってからの出発で、当時の上野発夜行列車の「しんがり」であった。

   長野からは小諸へ戻り、小海線(キハ52+キハ57)に初乗車。当時は中央東線に乗り入れる上諏訪行きがあり、この列車もその例だった。名高い高原列車も国鉄時代は冷房が無く、暑かったのを記憶している。

 

信州9号の車内、昭和56年当時の筆者

   上諏訪〜辰野を急行でつなぎ、辰野から飯田線旧国と「ご対面」のスケジュールであったが、途中ダイヤが乱れたため辰野で予定の列車を捉えられなくなり、飯田線内の市田でやっと先行の普通列車(旧国編成)に追いついた。ちなみに乗っていた急行は「こまがね3号」上諏訪13:31〜15:24市田であった。165系現役バリバリの時代、ボックス席は満席であった。

   市田で右の列車(1228M)に追いつく。ここから豊橋までの137kmを5時間かけて走る飯田線らしいダイヤとつきあうことになる。列車は飯田付近から天竜峡・千代・金野あたりまで地元の高校生で賑わった他はがら空き状態だった。

クハユニ56002+クモハ51200+クハ47009+クモハ53008

   さて、肝心の車両である。スカ塗りの省電とくれば身延線の印象が強かったが、飯田線独自の形式(クハユニ56やクモハ53)が目を引く。また身延線の低屋根M車を見慣れていたので、普通屋根(?)のM車も却って新鮮に写ったものである。

   当時、飯田線のスターは張上屋根のクモハ53007であった。わがクモハ53008は同形式ながらその点はやや地味な印象であるが、広窓の2扉仕様は後期流電の系譜を継ぐスタイルで、風格を十分に漂わせる内容であった。外観のノーシルノーヘッダーも懐かしい。

   天竜川の渓谷を車窓にうつし、列車は豊橋へ…。

広窓のクモハ53008(伊那上郷付近にて)

   豊橋からいったん名古屋へ。夜行「きそ7号」のスハネ16で翌日再び信州へ戻る。(飛出し区間は別払い)
   松本4:05、眠い。朝食代を節約するためUCCコーヒーを飲んで代用とした旨の記述がルポにある。(ハハハ…)

   さて辰野へ戻り232M豊橋行きに乗る。列車は80系4連で、クハ86347+モハ80325+モハ80311+クハ86308の編成である。この80系は戦前製省電の一部置換用に投入された全金車で、車内の造作は一段上昇窓を除けば153系のそれに近いと言える。この時期、80系はこの飯田線全金車のみとなっていた。それゆえ止むを得ないのだが、やはり旧国本来のイメージにはやや合わない気もした。

   新宿からの普通列車(長野夜行/懐かしや)との接続を取り、7:11辰野を出発する。

水窪にて(昭和56年8月21日撮影・以下同じ)

   8月中であるが、昨日同様部活の高校生で車内は一時的に賑わう。しかし駒ヶ根・小町屋・伊那福岡と連続して大量の下車、車内は右の写真のようになってしまった。80系は最短でも4両編成(TcMMTc)のため、本来なら2両程度で済む区間では少々不経済な運用を余儀なくされるわけだ。

   この日の天候ははじめ曇天であったが、水窪の手前あたりから晴天となる。写真が撮れると喜んだのは言うまでもないが、結局80系の撮影乗車はこれが最初で最後となってしまったわけである。

こんな具合にすいていた。4両編成を持て余す。

平岡で小休止    ローカルな相月のホーム 天竜川の峡谷から平野部へ駆け下りる