(update 2006/10/01)

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飯田線で行く“長篠古戦場”

 

 

   今夏は九州旅行を「青春18きっぷ」4日分を使い実行、そこで余った1日分でどこへ行こうか…そうだ、久々に史跡めぐりをやってみよう。とまぁ簡単な動機で(ムナカラも取れたので)実行したのがこの“長篠古戦場”めぐりである。

   「長篠の合戦」は戦国時代(1575年)、織田・徳川の連合軍が当時の新兵器とされた3,000もの火縄銃(鉄砲)により、武田の騎馬隊を壊滅させた戦いである。専門的に見れば鉄砲の数やその使用法には諸説あるようだが、いずれにせよ鉄砲を初めて本格的に使うことにより勝利を収めた画期的な合戦として、今なお歴史研究家から大学サークルに至るまで広く語り継がれている。 

 

豊橋から50分、三河東郷で降りる

   さて某夜行列車を豊橋で降り、飯田線に乗り換える。史跡名からして降車駅は本長篠or長篠城かと思うところ、少し手前の三河東郷で降りる。実はここが決戦場となった設楽原(したらがはら)の最寄り駅で、無人駅ながら観光客用にA3サイズの地図が何枚か置かれているので1枚頂く。15分ほど歩くと「新城市設楽原歴史資料館」が見えてきたので入館する。近年展示が整備された印象で、なかなかオススメである。

   資料館を1時間近く見学してから近在の「馬防柵」へと足を伸ばす。これは織田・徳川の連合軍が武田騎馬隊の足止め用に造った柵で、その様子が復元されている。写真からは見えないが、当時の連吾川が柵の手前を当時と同じように流れているので、歴史好きには当時の合戦図屏風などを思い出して見るのも良いだろう。

馬防柵/ここから火縄銃(鉄砲)を撃った

   さて三河東郷駅へ戻り再び飯田線に乗って長篠城駅で下車。単線の簡素な駅だが、反対側の草生すホーム跡がかつて列車交換ができた名残りとして残っている。駅から徒歩10分で長篠城址に着く。ここは先述の設楽原決戦の前哨戦とも言うべき戦いの地で、武田の大軍に長篠城を包囲された奥平氏(徳川方)が必死に落城を防いだことで知られる。ここにも「長篠城址史跡保存館」があるのでぜひ見ておきたい。先の「新城市設楽原歴史資料館」とは共通観覧券(割引)があるので便利な配慮と言える。

   薄日差すかと思えばにわか雨と、天気が少々せわしなくなってきたので傘が無い身には少々落ち着かない。もっともここを訪れている他の観光客は殆どがクルマでの来訪、あぁ少数派の悲哀を感じる。

長篠城址は駅から徒歩10分ほどである

   豊橋方面へ戻り、最後に鳥居駅で下車してみた。駅名の由来は奥平氏の家臣、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)から付けられたものである。彼は落城寸前の長篠城に援軍を呼ぶべく武田の包囲する城を夜陰に紛れ脱出、岡崎城へ辿りつき織田・徳川連合軍が援軍に向かう段取りを知るやこれを知らせるべく再び長篠城へ。しかし入城直前に武田軍に捕らえられてしまい、その武田方は援軍が来ることを知り大いに驚く。そこで強右衛門を長篠城前に引き出し、城に向かって援軍は来ないと虚言を申せば助命すると彼に言う。

  ところが強右衛門は「確かに援軍は来るからあと少しだ頑張れ!」と城に向かって叫んだため城内の士気は大いに上がった。が、そのため彼は武田軍によって磔の刑に処せられてしまったのであった。

人は死んで駅名を残す(鳥居駅)

  その命を賭しての武勇は後世まで大いに賞賛され、鳥居駅近くの新昌寺には彼の墓がある。

 

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   右の地図にもあるように、この付近にはまだまだ関連する史跡がある。効率良く見学するにはやはりクルマが便利そうだが、飯田線の車窓を楽しむことと併せて訪れてみるのも一興であろう。

 

三河東郷駅前にある設楽原決戦場案内図
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