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      私のライオンズ応援史 (太平洋〜クラウン〜西武)

       
                                          

デストラーデのサインボール

       プロ野球球団を熱心に応援するファン、彼(彼女)はどんなきっかけで  

      そのチームを応援するようになったのだろうか?その理由は各人さまざま

      であろうが、熱心なファンには必ず何らかの共通点があると考える。

      この「応援史」からそれを見つけて頂ければ誠に幸いである。

       では、時計の針を戻してGo!

 

年 月 日

で  き  ご  と

昭和51年ごろ

(太平洋時代)

 

  中学生になり、主体的に新聞やテレビ(ニュース)と接するようになる。当時の野球中継はいま以上に「巨人」一辺倒、ましてパ・リーグなんて普段どこで野球しているのだろう?というのが偽らざる印象であった。そのころ「カルビースナック・プロ野球」という袋菓子があり、一袋にプロ野球カード(おまけ)が一枚付いてきた。その内容は巨人選手ばかりで、パ・リーグは5枚に1枚程度の割合であった。そのなかで「太平洋クラブライオンズ」のカードに3回だけ出会い、現在も所有している(下記参照)。東尾と大田はクラウン〜西武と移り、後に大活躍する。吉岡はこの年のパ・リーグ首位打者であった。

 

太平洋クラブ

ライオンズの

カード

(東尾・大田・吉岡)

昭和52〜53年

(クラウン時代)

 

 まるで地球の裏側で野球をしているのでは、と思うほど「クラウンライターライオンズ」はテレビに出てこない。せいぜい「プロ野球ニュース」でお目にかかる程度で、何ともミステリアスな球団というイメージであった。TV中継でお目にかかるのもオールスター戦ぐらいだったが、昭和53年のオールスター第2戦、全パは完封勝ちする。この投手リレーが阪急・山田、近鉄・鈴木啓、クラウン・東尾という、当時の最多勝争いを演じる実力派(のちに3人とも名球界入りする)による超豪華リレーであった。巨人・王が東尾のピッチングをほめたコメントを翌日の新聞で読んだ記憶がある。

 しかしチームとしては万年Bクラスの最下位有力候補、昭和52年のドラフト会議で江川を指名してもソデにされる始末。まあ、少し前の横○ベイ○○〇ズのような球団であった。でも、弱い球団というのは何とも気になるんだなぁ。また当時の自分は周囲とは少し違っていたいという気持ちもあったので、あえてパ・リーグチームを応援するのも良いのかなと思っていた。と言うのも巨人以外のセ・リーグチームのファンは、いつも学校で圧倒的多数の巨人ファンから袋叩き(特に巨人に負けた翌日)に遭っており、その点クラウンライターライオンズは一種の「安全地帯」だったのである。(笑)

 

昭和53年10月12日  

  「西武ライオンズ」誕生の日である。この日、中学の友人と大船「西友」にて買物をした際に野球帽のコーナーでクラウンの帽子を買おうとしたが、余分な金がなく買い控えた。帰宅後テレビで「西武ライオンズ誕生」のニュースを知って、買わなくて良かったと子供心に思ったものである。(今から思えば逆に記念に買っておけば良かった…。)ただ当時鎌倉に住んでいた中学生にとっては福岡も所沢も遠い場所には変わらず、「地球の裏側での野球」という感覚には大差なかった。

 西武ライオンズは経営母体がしっかりしており、それまでの貧乏球団のイメージは払拭されたものの相変わらずの弱さ。たまに打線が爆発しても計算できる投手は東尾ひとり、守備のエラーも多くて要するに大雑把なチームであった。

 

昭和57年  

 高校時代は学業が全く不振で大学入試も失敗・・・浪人してしまう。私生活上は「ドン底状態」で、荒れた毎日であった。ところがこの時期に信じられないことが起こった。“万年Bクラスの最下位有力候補”だったライオンズが広岡監督のもと、昭和57年前期(当時は前後期制)に阪急と優勝争いの末制覇、後期は死んだふりをしたがプレーオフで日ハム江夏を砕いて制覇、日本シリーズでも中日を圧倒して日本一となり、ファンとしてのヴォルテージは最高潮に達した。このシーズンは昨日のことのように今なお記憶に鮮やかである。ライオンズがその後優勝回数を重ねることは周知のとおりだが、この前期優勝のときは「今回優勝を逃したらいつ優勝できるかわからない」という気持ちだった。なにしろその前の優勝は昭和38年!の西鉄時代なのであり、そのためこの年から始まった文化放送「ライオンズナイター」(当時は20〜21時の1時間限定放送)にかじりつき、ラジオを風呂場にまで持っていく熱中ぶりであった。

 プレーオフと日本シリーズはテレビ中継があった(ありがたかった)ので、これにもかじりつく。なお平日の試合は午後の授業中であったが、ラジオのイヤホンを耳の後ろから回して(当時は長髪だったのでイヤホンが完全に隠れてくれた。)授業そっちのけで聴き入っていた。積年の悲願は刻々と成就の道をたどりつつあった。

 

昭和57年10月30日16:59、中日大島のバットが空を切る――― 

 

 

  

ライオンズのV1を報じる「スポーツニッポン」と昭和57/58年の熱戦を収録した「Number Video」

 昭和58年  

 最高の昭和57年、日本一になって不満などあろうはずがない。しかし僅かに心の底に残った不満は「日本シリーズの相手が巨人でない」ことであった。このことは当時の広岡監督以下、田淵や大田といった主力選手の口からも聞かれた言葉である。昭和57年のセ・リーグは巨人と中日の激しい優勝争いの末、中日が最終戦で優勝を手中に収めたのだが翌58年は巨人が余裕のV。パ・リーグもライオンズが勝率.683のぶっちぎりVであった。

 この年の日本シリーズは開戦前からマスコミも大きく取り上げた。曰く「球界の盟主争い」であると。かくして熱戦の火蓋は切って落とされた。試合はスリリングな熱戦の連続・逆転に次ぐ逆転、結果はわがライオンズの4勝3敗であった。2年連続の日本一、しかし昨年の中日戦とは異なり、選手にとってもファンにとっても実にしんどくつらいシリーズであった。日本一になったのに何で??と感じられる方もあると思う。この日本シリーズはぜひ稿を改めて取り上げたい。

 

 昭和60〜63年  

 この時期は全てリーグ制覇、昭和60年のみ○神○イガースの神がかり的な長打攻勢に屈したが、翌年からは3年連続日本一、ライオンズファンはわが世の春を謳歌する。監督も広岡から森へと、抜け目のないリレーぶり。AK砲の誕生、ベテラン東尾を軸に渡辺・工藤・郭と安定した先発陣、石毛・辻を中心とした攻守走の完成度の高さ。今やライオンズは揺るぎなき常勝軍団の座を勝ち得た。なお、大学進学を境にサークル仲間と西武ライオンズ球場へ観戦する機会も何度か持つようになる。ただ、負けると所沢から鎌倉までの家路がホント長く感じるんだなぁ。(ハハハ…)

 昭和63年10月、就職も決まって連日左官工のアルバイト(私、左官補修得意なんですヨ、知ってた?)に明け暮れる。この時期は翌年「横浜博」の会場となる「みなとみらい地区」で働いていた。パ・リーグはと言えばライオンズが首位だったが、ひたひたと追い上げてくるチームがあった…。10月19日、私はバイト先から川崎球場へ駆けつけた。そして劇的な幕切れ、これは稿を改めて取り上げたい。⇒当日の模様へジャンプ

 

 平成元〜4年

 

 若き社会人の日々を近鉄系の会社で送るが、平成元年は近鉄バファローズの優勝で巨人との日本シリーズである。当時は本社勤務で、役員さんが部屋の隅で日本シリーズをテレビ観戦していたのが思い出される。ああ近鉄惜しいかな、3連勝のあと4連敗…。(カトテツの放言ナツカシや)

 わがライオンズは「森政権」のもとで平成2年からは再び毎年のように日本一の栄誉を獲得する。新たにデストラーデ・潮崎・石井丈・鈴木健らの新戦力が加わり、「王者西武」を揺るぎないものとした。当時の勤務先が東京ドームに近かったため、平日に日本ハムとの試合を何度も観戦するようになる。また、当時のキャッチフレーズ「テレビじゃ見れない川崎劇場」こと川崎球場のロッテ戦も帰宅途中に観戦する。

 このころ、セ・リーグのある弱小球団が生まれ変わりつつあった。野村ヤクルトの登場である。平成3年には巨人を抜いて3位となり、平成4年には阪神との競り合いの末にセ・リーグを制覇する。まさに昭和53年以来の優勝であった。この年の日本シリーズ、巨人戦でないせいか比較的チケットが取りやすく、第1・6戦を観戦する。ところがこの両試合は杉浦と秦のいずれもサヨナラホームランでぐったり。第7戦も苦しい戦いだったが、石井丈の踏ん張りで僅かにヤクルトをかわし、このシリーズを制した。

 

平成5年

 

 4月下旬、住みなれた鎌倉を去り都心へ転居する。転居先は勤務地になるべく近いところを3〜4ヶ所候補としたが、その中で西武線を使い西武球場へも行ける現在地に決まった。結局このことが居住地決定の重要なファクターとなったようである。(笑)

 本拠地での観戦ありがたや、この年から後援会(現在のファンクラブ)へ入会し現在も継続中である。平成5年は西武ライオンズ球場(公式戦)へ11回足を運び、これは平成13年に更新するまでの最多観戦回数であった。

 さて、日本シリーズである。ライオンズは前年の雪辱に燃えるヤクルトを相手にホームゲームの第1・2戦を落とし大ピンチ。当方は2勝3敗で迎えた第6戦を観戦する。外野自由席を4枚ゲット、うち2枚は鉄道サイトにも登場の「ひまわりレールファンクラブ」の幹事氏(YSファン)に売却。残り2枚をこれも鉄道サイトに登場の旧型国電ファン(何と彼もYSファン)と一緒に観戦する。この試合は我ら秋山の満塁ホームランが高々と舞って勝ったが、次の第7戦に敗れがっくり。後日の書物によれば、ヤクルトは前年惜敗したときから今年倒すべきは巨人や広島ではなく西武だ、と全員で誓っていたそうな。「王者西武」緩やかな凋落の始まりであった。

 

 平成6〜12年

 

 この時期をひと括りにして良いものかと考えたが、リーグ優勝はしても日本シリーズでは王手もかけられず敗退といいところなし。本拠地での応援もセ・リーグ球団に押され気味で情けなや、の状態であった。再び盟主の座を取り戻すまで辛抱の日は続く! (平成13年以降は当HPにリアルタイムで記載します。)

 

 

  【巻末小特集】 プレイバック「西武×巨人」名場面集   (状況が全部わかれば貴方はライオンズ免許皆伝デス!)

 

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2

↑中畑の土壇場逆転打で巨人の日本一は目前、崖っぷちの西武はどうする!?

 

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↑2死1塁(走者・辻)で秋山は中前打、そのとき辻は!!

 

西武

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3

巨人

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑日テレアナ「大きぃ〜〜文句、なし…(内心は落胆)」、いきなり3ランの主は?

 

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2

↑“彼”の神懸り的走塁、なんとノーヒットで同点に追いついた!!