1章(1)



 新緑の香りが、初夏の訪れを告げる。
 俺は妹を連れて学校に向かう。
 俺の名は、館蔵 良平。
 私立大学に通う2期生だ。
 そして、妹は館蔵 綾。俺の通う大学の付属高校の1年生。
 今年入学したばかりだ。
 昔は妹がわずらわしく、うっとうしいと思っていたが今はそうでもない。
 あの頃とは違い、俺は大人へと成長したからだ。

 俺の妹は、生まれつき言葉がしゃべれない。
 母さんが妊娠中わずらった病気が原因だと聞いている。
 小学生の頃はそんな妹がうっとうしくて仕方がなかった。
 母さんや父さんを独占し、何かあるとすぐに泣き出す。
 それだけでもムカつくのに、なぜか俺の後ばかりついてくる。
 遊びに行こうにも妹がついてくるので遊びにいけない。
 無理して行こうものなら泣き出してしまう。
 すると母さんは綾のそばにいてやってと言って遊びに行けなくなる。
 おかげで友達づきあいができなかったため、友達の数は少なかった。
 最も親しいやつと言えば、隣に住む幼馴染みの貴嶋 奈緒だけと言っていい。
 母さんと奈緒の母が親友同士のため、生まれたときから付き合っている。
 そのため、兄妹ともいえなくない。
 奈緒は気が強く意地っ張りで、何かあるとすぐ対立する。
 たいていは奈緒の方から謝ってくるのだが時々、俺から謝らなければ収拾がつかないときがある。
 そんなことはまれだが……。
 そんなわけで、たいていは3人で遊んでいたわけだ。
 俺が言うのもなんだが綾は美人だ。なんて言うか幼さが残りつつ、大人の魅力を同居させている。
 だからクラスの男子から人気があるらしい。
 ちなみに奈緒も美人のクラスに入る。
 俺は毎日顔を付き合せているので、よくわからないが他の男どもが言うにはそうらしい。
 そんな美人2人に囲まれてるわけだから、ねたましいと思うヤツがいるかもしれない。
 だがあの頃の俺には、そんなヤツがいたら代わって欲しいと思っていた。

『お兄ちゃん』
 綾が肩を叩きながら手話で話し掛けてくる。
 今はほとんど理解できるようになったが、始めの頃は理解することができなかった。
 なぜ俺が手話を習わなければならないのか……あの頃はそう思っていたため、まじめに覚えようとはしなかった。
 だが、あの事件をきっかけに覚えるようになった。
『ねえ、お兄ちゃん。私の話を聞いてる?』
「ああ、聞いてるよ」
『今日は午後の講習はないんでしょ』
「ああ、午前中で終わりだ」
『それなら、帰りに買い物に付き合ってくれないかな』
 綾はそう言って上目遣いで俺を見てくる。
「これといって用事があるわけじゃないから、かまわないけど」
『ありがとう、お兄ちゃん』
 綾がニコニコしながらお礼を言う。
「じゃ、放課後迎えに行くからな」
 俺は綾の頭をポンと叩くとそう言った。
『うん』
 綾はうれしそうに返事をする。
「相変わらず仲がいいのね」
 急に声をかけられ、振り向く俺達。
 そこには手を上げながらやってくる奈緒がいた。
『奈緒お姉ちゃん、おはよう』
「おはよう、綾ちゃん」
 綾と奈緒がいつもの挨拶を交わす。
「あんたも、おはよう」
「おはよ」
 俺も奈緒といつもの挨拶。
「シスコンのお兄様は、今日は彼女と待ち合わせてないのかしら?」
 奈緒が嫌みったらしく聞いてくる。
「あとで会えるんだから、わざわざ待ち合わせて一緒に行く必要もないだろう」
「ま、彼女はお嬢様だから車で通学だものね。良平と一緒にはいけないか」
 奈緒はそう言ってにやりと笑う。俺をからかって楽しんでいるらしい。
「人のことより、自分はどうなんだ奈緒。おっとごめん、奈緒には彼氏がいなかったな」
 俺は仕返しとばかりにそう言ってやる。
「ムカツク〜。自分に彼女がいるからって」
「お前の性格じゃ一生できないからな」
 俺はそう言ってはっはっはと笑う。奈緒はそれを見て悔しそうにしている。
『大丈夫だよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんならきっといい人が見つかるよ』
 綾が奈緒にそう言ってやる。奈緒を気遣ってのことだろう。
「綾ちゃんは本当にいい子ね。どっかの誰かさんとは大違い」
 綾の心遣いを知った奈緒がそう言って、綾の頭を撫でてやる。
「奈緒の彼氏になれるヤツは、よっぽどのバカだろうけどな」
『お兄ちゃん!』
 俺がそう言うと、綾が怒り出した。
『お兄ちゃん、言い過ぎだよ』
 綾が本気で怒っている。
「そうか……ごめん」
「綾ちゃんには、逆らえないのね」
 奈緒がフフフと笑いながらそう言った。
 俺はテレを隠すために横を向く。
『それよりお兄ちゃん、約束忘れないでよ』
「約束? どこかに行く約束でもしたの?」
 奈緒が、身を乗り出して聞いてくる。
『今日は午前中だけの授業だから、お兄ちゃんに買い物に付き合ってくれるようにお願いしたの』
 それを聞いた奈緒が目をキラキラと光らせる。
「いいなあ……私も一緒に行っちゃだめかな」
 それって俺に荷物持ちをさせようってことか?
『私は別に構わないけど、お兄ちゃんが……』
「もちろん、断るわけないわよね」
 凄みを利かせて、奈緒が俺に言う。
 だめだといってもこいつのことだ、なんだかんだと言ってついてくるに決まっている。
「仕方ねえな、構わないぞ。感謝しろよ」
 俺は恩着せがましく言ってやる。
「あんたには感謝しないわよ。綾ちゃんには感謝するけどね」
「ひでぇやつだな。悪の元締めって感じだな」
「何か言った?」
「いえ、何も」
 俺達のやり取りを聞いて綾はくすくすと笑う。
『あ、そろそろ行かないと』
「そうだな」
『ちゃんと迎えに来てね』
「ああ、わかった」
「じゃあね、綾ちゃん」
 綾は手を小さく振ると校舎へ向かって歩き出した。
「私達も行きましょう」
「手つないで行くか?」
「馬鹿なこと言ってないの」
「ハッハッハ」
 そんな会話をしながら、大学校舎へと向かう。
 俺達の通う大学は、綾の通う高校のさらに奥まったところにある。
 敷地は一緒だが、校舎は結構離れている。
 高校の校舎と大学の校舎の中間くらいに学生食堂があるからだ。
 ここはプレハブのようになっていて、中学生から大学生まで幅広く活用している。
 あ、言っていなかったが俺の通うところは、同じ敷地内に付属中学もある。
 ほかに付属の小学校や幼稚園まであるのだが、この敷地内にはない。
 少し離れたところにその二つはある。
 幼稚園、小学校は普通に入れるが、中学からは成績がよくないと上に上がれない。
 高校なんかは上位30名が無条件で上がれるがそれ以外は試験を受けなければならない。
 ほかの中学からも受けに来るので、結構厳しい。
 大学にいたっては、もっと厳しい状況になっている。
 それでも、ここに残りたいというものは多い。
 就職率が良いとかそう言うことではなく、校風がとても自由で自主性が尊重されるからだ。
 自分が何をしたくて、何をすれば良いのか考える時間があり、それを教師達がそれとなくサポートしてくれる。
 普通の学校と違い受験だなんだと言うことはなく、あくまで各自がここに残りたいが為に必死になって勉強している。
 俺もここに残りたいためにそれなりの成績を残し、上位に残ってエスカレータ式に大学までやってきたのだ。
 隣を歩いている奈緒も同じようにエスカレータ式に大学まで来ている。
「なによ、ジロジロ人の顔を見て」
 俺の視線が気になったのだろう。そんなことを言ってくる。
「いや、俺達って意外と頭良いんだなって思ってさ」
「いきなり何言い出すやら……」
「いや、中学からエスカレータ式に上がってきただろ。それって凄いことなんだなって」
「綾ちゃんのこと考えてるのね」
「え?」
「綾ちゃんも大学に行けるのかって……違う?」
 別にそんなことは考えてなかったけど……まあ、普通に綾が通えるのはここしかないしな。
「綾ちゃんなら大丈夫よ。彼女成績良いし、それに私達がついているじゃない」
 俺の考えていることを見透かしたように、奈緒が言ってくる。
 奈緒も綾が普通に通えるようにと願っているのだろう。
 障害者としてではなく、ほかの人と同じ一般の生徒として。
「そうだな、俺達がついてるんだよな」
「そう言うこと」
 奈緒はそう言ってやさしく微笑む。その表情は、妹を大事にしている姉の表情だった。

 校舎に着いたところで予鈴の鐘が鳴る。
 1時限目の授業は奈緒と同じ科目をとっているので、一緒に教室へと向かう。
 途中知り合いの何人かと挨拶を交わす。
「奈緒!」
 名前を呼ばれ奈緒が振り向く。
 奈緒の知り合いが、駆け寄ってくる。
「俺は先に行ってるから」
 そう言って先に教室に入ろうとする俺を呼び止め、奈緒が荷物を渡す。
「席に置いておいてね」
 そう言うと駆け寄ってきた女の子と話し始める。
 俺は仕方なく、奈緒の荷物を持って教室に入っていった。

 席に着いてしばらくすると、雅が教室に入ってきた。
「良平君、おはよう」
「おはよう」
 雅は俺を見つけると、そばに寄ってきて隣の席に着いた。
 雅はここの理事長の孫娘で神楽財閥の令嬢。容姿端麗で成績優秀。
 性格は悪くはないが、お嬢様として教育されているため感情を表に出すことはめったにない。
 そのため、冷たい印象を与えている。
 俺も彼女と付き合うまでは近づきにくく感じていた。
 実際はそんなことがなかったが……。
「どうしたの? 私の顔じっと見つめて」
「いや、何でもない」
 俺はそう言って優しく微笑んでやる。
 雅は少し不思議そうな顔をしていたが、すぐに授業の準備にとりかかった。
 雅と俺が付き合っているのは、周知のことだ。
 付き合うことになったときには、『あのお嬢様をものにしたと』しばらく噂になったものだ。
 しかもそれが、彼女の父親である学長に知れ結構大変だった。
 もっと良い男を見つけてやるとか、良い縁談があるとか、神楽家の名を汚すとか、いろいろと言われた。

 大財閥だけあって、家柄とか気にしたのだろう。
「好きになったのは自分であって、何度もお願いして付き合ってもらっているのです」
 雅のこの一言で事無きを得ることができた。

「ね、私の話しを聞いてる?」
「え?」
「聞いてなかったのね」
「いや、ちゃんと聞いていたよ。今日の放課後、用事がないかでしょ」
「そう、で、どうなの?」
「ごめん。今日は妹の買い物に付き合わなければならいんだ」
「そう……それじゃ、しょうがないわね」
「ごめん、今度の休みは付き合うから」
「きっとよ」
「ああ」
 俺が返事をしたちょうどそのとき、講師が教室に入ってきた。
 いつのまにか本鈴が鳴ったらしい。
 俺は授業に集中するために、黒板に意識を集中させた。





目次   続く