ベン


  ベンは、ぼくの家の犬だ。
 白くてむくむくで、体重は60キロを超えている。元野良だから正確にはわからないけれど、人間で言ったらオッサンぐらいの年齢だと獣医さんは言った。
 ベンは動きが鈍くて、いつもうちの前庭で寝ている。からかわれても、突つきまわされても、おとなしく伏せているだけだ。図体は大きいくせに、と近所の子供全員になめられている。
 ぼくはベンがあんまり好きじゃない。自慢できるかっこいい犬じゃないし、雑種だし、かわいくもない。ところかまわず寝そべるから、お腹の毛なんか、泥で薄汚れてがびがびになっている。いくら細めに洗っても、すぐ同じように汚す。
 ベンもぼくがあんまり好きじゃないみたいだ。ぼくが「ベン」と黒マジックで書かれた容器に、ドッグフードを盛ってやっても、尻尾一つ振らない。のそーっと大儀そうに起き上がって、容器に鼻先を突っ込んで、そのくせ異様に速いスピードでたいらげるだけ。
 散歩に連れていっても、楽しげに走り回るとか、ボールを投げて「取っておいで、ベン!」とか、そういうのとは無縁だ。のそのそーっとぼくの後ろをついてくるだけ。ベンが喋れるとしたら、「あー、ごろ寝が一番。はよ帰ろうやぁ」とばっかり言っている感じ。
 つくづくオッサン犬だ。飼い主として、ぼくは悲しい。

  お母さんにベンの悪口を言ったら、「違うわよ」と諭された。
「違うわよ、ベンはケン太(ぼくの名前)が大好きよ。おっとりしているから表現が下手なだけで」
「おっとり、っていうか。ベンはぼくを馬鹿にしてるよ」
「何を言っているの! ……お父さんだもの、馬鹿にするなんて、そんなことあるわけないわ」
  お父さん云々のところで、お母さんはエプロンのすそを持ち上げ目元を拭いた。お父さんが出てくると、ぼくは何も言えなくなる。ぼくのお父さんは、三年前に事故で死んでいる。
  お母さんはお父さんが死んだ後、ちいさな宗教に入った。「ベースは仏教で、ヘンな教祖とかいるわけじゃないのよ」だそうだけど、ぼくは未だに信用できない。
 そこの考えによると、家族を残して亡くなった人は、未練が残ってアノヨに行けないそうだ。なんらかの形でゲンセに居続け、家族と一緒にアノヨに行ける日を待つそうだ。うちのお父さんの場合は、ベンに乗り移っているそうだ。
 (確かにオッサンくさいけど、ベンはただの犬じゃないか!)
 思うけど、言えない。言ったらお母さんはきっと泣くし、隣のおばちゃんも出てきて一緒に泣くだろう。(お母さんと同じ宗教のおばちゃんは、息子がカナリヤのピー助になったと信じこんでいる)そうなっても、もちろんベンは助けてくれないだろうし。
 やっぱりぼくは、ベンが好きじゃない。こんなに好きじゃない、好きじゃない、っていうのはかわいそうかもしれないけど。多分、お母さんや隣のおばちゃんがベンの味方なのも、面白くない理由なのだ。毎月お父さんの命日に、ステーキを食べさせてもらっているベン。ヘンだと思うぼくの感性が、間違っているのだろうか?

  中学生にもなって、いじめられているなんて言えない。だいたい、これはいじめじゃない。そうさ、いじめじゃない。相手は同い年のタツ彦とカッちゃんとゴン田だし、特にカッちゃんは幼稚園からの友達だ。
 みんな、家が同じ方向だから、学校の帰り道はどうしたって一緒になる。だからジャンケンゲームをするだけだ。負けたやつが全員のカバンを持つルールで。
 問題は、必ずぼくが負けるように出来ていることだ。
 みんなでぐるになって、ちょっと細工をすればすぐできる。みんなふざけているだけだ。ぼくは友達が多い方じゃないし、こんなのでムキになって怒ったりして、雰囲気を悪くしたくない。今日で連続三日目になるけど、みんなもうそろそろ飽きるだろうし。人付き合いには我慢も必要。そう自分に言い聞かせた。
 ぼくは息を荒くしながら、四つのカバンを背負いなおしてみんなの後をついていった。商店街を抜けて、三叉路を右にまっすぐ。その後、信号ひとつ渡って、ぼくの家の前まできた。門柱の脇に、あいかわらずのベンが寝ていた。
「ケン太ここまでだよな。次のジャンケンするから」
 カッちゃんが寄ってきて、カバンを受け取りながら言った。ぼくはほっとした。少し前を歩いていたタツ彦とゴン田が、立ち止まった。……タツ彦がいやな感じの笑いを浮かべて振り向いた。
「なぁ、それなんだけどな」
 タツ彦はゴン田と顔を見合わせて、にやにや笑いをした。
「昨日もおとといもここまでだったろ。ケン太、負けたのにさ。同じじゃ面白くないだろ、カッちゃん」
 ぼくじゃなくてカッちゃんに同意を求める。カッちゃんは意味がわからないのか、タツ彦達を見返した。
「だからさぁ」
 ゴン田が説明を始めた。
「もっぺんジャンケンしてさ。今度もケン太が負けたら、俺等全員の家まで荷物運びしてもらう、っての」
 ぼくが負けることも含めて、もう決定事項らしかった。
「ほらジャンケン」
 タツ彦が手を出すよう促す。ゴン田が真っ先に従い、ぼくも諦めて手を出した。カッちゃんは少しためらって遅れた。
「ポン」
 タツ彦とゴン田がチョキ。ぼくはパー。カッちゃんは……パーだ。タツ彦がカッちゃんを睨む。ぼくもカッちゃんを見る。カッちゃんの顔は強張っていた。
「しゃぁねーな。ケン太とカッちゃんでジャンケンだ。負けた方がこの後の荷物持ちだぜ」
 ゴン田が言い放った。「ほら、ジャンケン」と促され、カッちゃんはうつむいて手を出した。
「ポン」
  仕方ないからぼくが言った。……グーとパーで、ぼくが負けた。
「ケン太、ごめん」
 カッちゃんが小さな声で謝った。ぼくは、カッちゃんにひどいことをさせてしまった気がした。逆にこっちが謝りたくなった。
 タツ彦がカッちゃんからカバンを取り上げると、ぼくによこした。
「ほら、行くぞ」
 その時だった。ベンが起き上がって、吠えた。

  タツ彦もカッちゃんもゴン田も、とにかくそこにいたみんなが驚いて固まった。でも一番驚いたのは、飼い主のぼくだと思う。ぼくは本当にびっくりして、ベンを見た。
  大きな体を震わせて、ベンは吠えていた。タツ彦達に向かって、はっきりと牙を剥き出して吠え続けていた。
「なんだよこいつ!」
  タツ彦が裏返った声で叫んだ。ベンが唸って、一層激しく吠えたてた。首に繋がれた鎖がなかったら、相手に飛びかかっていく勢いだ。タツ彦は黙った。
  ベンは怒っていた。本気でむちゃくちゃ怒っていた。いつもは眠そうに半分閉じている目が、見開かれて白目が出て、すごい形相だ。
「……しらけちまうよな!」
 タツ彦は面白くなさそうに言って、ぼくから自分のカバンを取った。すたすたとその場を離れていく。あわてたのはゴン田で、「おい、待てよ」なんて言いながらカバンをひったくると、タツ彦を追いかけていった。そして、カッちゃんが残った。ベンが吠えるのをやめる。カッちゃんはぼくからカバンを受け取って、立ちつくしていた。
  しばらく静かな間が空いた。
 カッちゃんはうつむいていた顔を上げて、「ごめんな」と言った。
「なんか、悪かったよ。……悪かったよ。もうしない」
 ぼくは、申し訳ないのが半分と、嬉しいのが半分とで胸がいっぱいだった。ただ頷いて、心の中でありがとうを言った。

 カッちゃんが帰った後、ぼくはベンを捕まえた。顔と顔を向き合わせて、話しかける。ベンの長い鼻先から、小麦粉みたいな匂いがした。
「ありがと、ベン」
 お前、お父さん役やってくれたんだろ?
 オッサンくさいぼくの犬は、グゥンと喉を鳴らした。だいたいお前もしっかりしろよ。心配で見ちゃいられないよ。そんなことを言ったのかもしれない。そんなのぼくの感傷で、メシはまだかい、って言ったのかもしれない。
 ぼくはくつくつ笑って、ベンの首を抱いた。白くてむくむくで温かい。太い首だった。その時、ぼくは少しベンが好きになったのだった。

                                                  【終】


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