NEW2021.9.9
◆小津映画との違いの一つ=「妻と家事の描き方」
◆成瀬映画のメッセージとは・・・
◆成瀬映画は「アクション映画」である。
◆私と成瀬映画との出会

◆成瀬映画の主な特徴

◆成瀬映画の魅力

◆低迷期について
◆日本の監督をクラシック音楽に喩えると

NEW 2021.9.9

◆小津映画との違いの一つ=「妻と家事の描き方」

 管理者は、成瀬映画ファンの前は大の小津映画ファンであったので、個人的に成瀬映画と小津映画の違いへの関心が大きい。
小津映画『早春』(1956)を再見して「ここは成瀬映画とだいぶ違うな」と感じた点があった。

 『早春』は、小津映画の中で、成瀬映画の「夫婦もの」(『めし』『妻』『夫婦』『驟雨』など)と最も近い雰囲気の作品だ。
子供のいない(『早春』では幼い子供が亡くなったという設定)倦怠期の夫婦、夫は会社員・妻は主婦、お金に苦労している日常生活など
の要素が共通している。
そして成瀬映画には欠かせない中北千枝子が淡島千景の友人役として出演している。小津映画はこれ1本。
小津映画『お茶漬けの味』(1952)も一種の夫婦ものと言えるが、佐分利信は管理職で、木暮実千代は有閑マダム。
家には若いお手伝いさんがいる裕福な家庭が舞台となるので『早春』や成瀬映画の「夫婦もの」とは似ていない。

 以下の『早春』の冒頭の展開が成瀬映画とはかなり異なる。
『早春』の展開は以下。
◆会社員の夫・杉山正二(池部良)と妻・昌子(淡島千景)の起床と短い会話
・隣の家・田村夫婦(宮口精二、杉村春子)の会話
・会社員の出勤風景=舞台となる「蒲田駅」
・蒲田駅のホームでの会話=池部、岸恵子など
・池部の勤める会社
(シナリオには「東和耐火煉瓦 丸ビル七階とある)の社内風景=東京駅・丸ビル
・お濠端の石垣の上での池部、岸他同僚社員との会話。日曜日の江の島ハイキングの話
・会社での小野寺(笠智衆=本社へ出張してきた大津営業所長)と池部との会話
 
「元社員でバーを経営している河合(山村聰)の店へ夕方一緒に行こう都の話」
・山村のバー「Blue-Mountain」で会話している笠と池部。
 山村の妻(三宅邦子)の手料理が用意されている奥の部屋でウイスキーを飲みながら会話。
◆池部の家の二階。泊る笠の蒲団を用意した淡島。一階での池部、笠、淡島の会話

時間にして約15分くらい、管理者の保有しているシナリオ本=「小津安二郎全集 下 井上和男編、新書館」
によれば、シーンナンバー5〜37(途中複数の欠番と記述)である。
上記◆〜◆の間、池部の会社での描写が連続する。その間妻の淡島の描写は無い。

成瀬映画ではどうか。
例えば『早春」と同じように朝の出勤風景から始まる『妻』(1953)。
会社員の夫(上原謙)と妻(高峰三枝子)のそれぞれのナレーション。
お互いに「何故こんなに不仲になっているのか」と嘆く内容だ。
上原が駅に向う出勤風景(世田谷あたりか?)のショットが続くが、
その後は高峰の家庭での姿、そこに妹の新珠三千代が訪ねて来る。
高峰と新珠の会話。内職をしている高峰に「姉さん、それいくらくらいになるの」
と訊く新珠=成瀬映画の特徴の一つ金銭の話。

さらに『めし』(1951)。
典型的なのは夫の上原謙が東京から家出してきた姪っ子の島崎雪子と
大阪見物の場面。
観光バスの中での二人の会話→玄関の戸を雑巾で拭いている妻の原節子の姿
など、見物案内中の上原と、忙しく家事(掃除、洗濯など)をしている原の姿が交互に描かれる。

もし『早春』を成瀬監督が演出すれば、池部の会社での描写の中に
いくつか家庭での淡島の家事の描写を入れるだろう。

映画の設計図であるシナリオ。
この時期の小津映画は野田高梧、小津安二郎のシナリオであり、
成瀬映画は、水木洋子、田中澄江、井手俊郎などの脚本家が書いている。
その違いも大きい。
成瀬監督と小津監督の演出の違いは、脚本家の違いと言うこともできる。
ただし水木、田中、井手といった脚本家は成瀬演出を頭に描いて
書いていたと推定できる。
説明的な台詞やシーンは削除してしまう成瀬演出のことである。
これはあくまで推定だが、小津監督、野田高梧は「小料理屋」や「バー」に比べて
家庭での妻や娘の家事の描写にはあまり興味が無かったのかもしれない・・・
少なくとも作品を観ればそのように感じる。

ともかく夫の描写があれば、その途中に妻の描写=主に家事を挿入するのが成瀬映画の特徴の一つだ。

さて、さらに想起したことがある。
それは
「小津映画には妻や娘が商店街で買い物するシーンが無いのでは」
ということ。
戦後の小津映画に限っては、商店街、そしてそこで買い物する妻や娘を見た記憶がない。
これは屋外での移動撮影などを嫌った小津監督の演出にもあるのだろう。

一方成瀬映画には、屋外シーンに頻繁に商店街で買い物する妻や娘が登場する。
『驟雨」で隣に引っ越して来た根岸明美に商店街を案内する原節子が典型例だ。
女性だけでなく、『山の音』(1954)の冒頭では会社からの帰宅途中に鎌倉の「魚屋」
で買い物する山村聰の姿も描かれる。他の作品にもあるだろう。
買い物というより、商店そのものが舞台となる作品の多いのも成瀬映画の特徴の一つ。
(『稲妻』『妻の心』『あらくれ』『秋立ちぬ』『女の座』『乱れる』

小津映画には妻や娘の家事の描写が少なく、成瀬映画には多いのは
小津映画、成瀬映画を1本1本観ていくと気付かれると思われる。

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NEW 2020.4.4

◆成瀬映画のメッセージとは・・・

 映画(監督、脚本家など)のメッセージは、映画のラストシーン(エンディング)に最も大きく表れると考える。
映画のエンディングを大きく以下の3つに分類してみる。
(1)現実の厳しさそのままを残して終わる
(2)現実の厳しさを描きつつ、少し希望の光を感じさせて終わる
(3)現実の厳しさを解決して、幸福感に満ちて終わる(=ハッピーエンド)

 現実の厳しさとは、成瀬映画でいえば「夫婦や親子の葛藤」「貧しい生活」「裏切り』「事故死/病死」など。
成瀬映画の雰囲気を伝える言葉としてよく使用されるのが「ヤルセナキオ」という渾名。
管理者は成瀬組のスタッフやキャストの方たちと何度もお会いし、成瀬監督の撮影現場の話を聞く機会があったが、
「ヤルセナキオ」という渾名は聞いたことが無い。よく聞いたのは「
いじわるじいさん」という渾名で、
これは実際にスタッフやキャストの間で使用されていたようだ。
成瀬監督は明治生まれの江戸っ子であり、天邪鬼(あまのじゃく)の性格があったらしい。
これは多くのスタッフやキャストがインタビューなどでも述べている。

 渾名はともかく、成瀬映画に「やるせない雰囲気」が漂う作品が多いのはその通りだろう。
日常生活における上記の「現実の厳しさ」がストーリー展開の中心になることが多く、
黒澤映画のように白黒はっきりさせたような解決(すべての黒澤映画とは言わないが)は少ない。
皆無といってもいいかもしれない。
 
 上記のエンディングのパターンで言うと、成瀬映画の大半を占めるのは(2)である。
つまり、厳しい現実を描き、登場する女たち、男たちは苦しい目にあうことが多いが
ラストに薄日が差す=ほのかな救いが示されるのが成瀬映画なのだ。
管理者が成瀬映画を愛する理由の一つが、希望を示すラストの雰囲気にある。

 いくつか印象的な作品例を示す。
・『女の歴史』(1963 東宝)
 信子(高峰秀子)の一代記ものだが、信子の夫=幸一(宝田明)は戦死、一人息子の功平(山崎努)は
 自動車事故と不幸の連続を体験する。
 義母=君子(賀原夏子)は、同じく息子と孫の死に加えて、夫=正次郎(清水元)も愛人の女と
 旅行に行ってその旅館で心中してしまう。
 夫、息子、孫を失うという、成瀬映画の中でこれほど不幸な目にあう人物も珍しい。
 ラストは、ひ孫の功(亡くなった功平とみどり=星由里子の息子)を散歩に連れて行った公園に信子が来るシーン。
 功をほおってベンチに腰かけて見知らぬじいさんと談笑している君子。
 功を抱いて君子に「目を離しちゃだめじゃないの」と叱る信子に対し、
 「あのおじいちゃんにヘルスセンターに誘われた。変なじいちゃんだ」と話す君子。
 「あなたも相当変なおばあちゃんですよ」と呆れたように笑いながら話す信子。
 明るい曲想の音楽の中、家路につく三人の後姿で終わる。
 本作は、一人息子を懸命に育てる高峰秀子の強さも凄いが、義母の賀原夏子の生き延びる力はそれを上回る。
・『朝(あした)の並木路』(1936 P・C・L)
 地方から東京に出てきた千代(千葉早智子)は、カフェの女給として働く。
 客の小川(大川平八郎→1960年代に東宝の怪獣映画に多数出演しているヘンリー大川)
 と親しくなるが、小川は転勤で仙台に行ってしまう。
 ラスト、別れを告げにやって来た小川。仙台の住所の紙を千代に渡して去っていく。
 千代は目を伏せて哀しみに耐えるが、突然その紙を破いて橋から小川(!)に投げ捨てる。
 その後、振っ切ったように微笑み、空を見上げる。空のショットで終わる。
 これはもちろん成瀬監督の演出だ。哀しみの表情から笑顔への変化。

 同様のエンディング(ラストまたはラスト前)はこれ以外にも挙げていけば切りがない。
 もちろん作品ごとに内容は異なる。詳細は省略して主な作品名(新しい順)と俳優名を挙げる。
・『女の中にいる他人』 新珠三千代
・『放浪記』 高峰秀子、田中絹代
・『女の座』 高峰秀子、杉村春子、笠智衆 →ラストは店の前で駆けまわる女の子(小林桂樹の娘役)
・『妻として女として』 星由里子、大沢健三郎
・『秋立ちぬ』 大沢健三郎
・『娘・妻・母』 三益愛子、笠智衆
・『女が階段を上る時』 高峰秀子(階段を登ってバーに出勤し、客に笑顔で挨拶する表情が印象的)
・『コタンの口笛』 久保賢、幸田良子
・『杏っ子』 香川京子
・『鰯雲』 淡島千景
・『あらくれ』 高峰秀子、(仲代達矢)
・『流れる』 山田五十鈴、杉村春子、田中絹代、高峰秀子
・『妻の心』 高峰秀子、小林桂樹、
・『驟雨』 原節子、佐野周二、(小林桂樹)、(根岸明美)
・『くちづけ 第三話・女同士』 高峰秀子、上原謙、特別出演女優Y(タイトルクレジット無し)
・『晩菊』 杉村春子、(加東大介)  細川ちか子、望月優子
・『山の音』 原節子、山村聰
・『あにいもうと』 京マチ子、久我美子
・『妻』 高峰三枝子、上原謙
・『夫婦』杉葉子、上原謙
・『稲妻』 高峰秀子、浦辺粂子
・『おかあさん』 香川京子、田中絹代
『お国と五平』 木暮実千代、大谷友右衛門
・『めし』 原節子、上原謙
これくらいにしたいが、これより古い作品(1930年代〜50年代)のほとんども同様だ。

 上記に入っていないのが『浮雲』。
屋久島で病死したゆき子(高峰秀子)の顔を見て泣き崩れる富岡(森雅之)。
そして一人夕暮れの湖畔に佇む司葉子の『乱れ雲』、
高峰秀子の顔の表情で終わる『乱れる』。
 この3本は成瀬映画の恋愛ものの傑作だが、どれも悲劇的なトーンが強い。
 特に『浮雲』は、17本の成瀬作品に出演した高峰秀子が唯一亡くなる役である。
管理者は本HPを立ち上げた22年前から主張しているように、
この悲劇的なエンディングからいっても、『浮雲』は成瀬映画の中では明らかに超異色作なのだ。
作風で言えばこれも22年前から主張しているように、
最も成瀬調の映画を一本だけ挙げれば『驟雨』ということになる。
『驟雨』はユーモラスなシチュエーション、くすくすと笑ってしまう台詞のやり取りなど
「ヤルセナキオ」とは対極にある成瀬映画だ。
あざとくない、自然な可笑しみの間は、志ん生や文楽といった江戸落語の名人の域にある。

 以上から、成瀬映画のメッセージ(成瀬監督はメッセージというのを好まなかったとは思うが)
をあえてまとめてみれば
「現実は厳しいけれど、何とか生きていこう」という前向きの姿勢だと思われる。
特に、成瀬映画の大半のヒロインはそれを体現している。
「生き延びる精神力」は男よりも女の方が優っているだろう。女性の脚本家を多く起用したことも影響している。
「女性の生命力への賛歌」こそが成瀬映画の根幹であると言いたい。


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NEW 2019.12.14

◆成瀬映画は「アクション映画」である。

 下記「出会い」の記述にもあるように、
管理者が成瀬映画を観始めてから現在(2019年12月)でおよそ30年になる。
生誕100年の2005年には、当時の京橋のフィルムセンター(現在国立アーカイブ)で
未見の成瀬映画を数本観て、現存する69作品と原作等の関連4作品をすべて観ることができた。
 また同年の2005年には、著書「成瀬巳喜男を観る」(ワイズ出版)と
編集協力した写真集「成瀬巳喜男と映画の中の女優たち」(ぴあ出版)の出版にも関わった。
 さらに数年後には成瀬組の俳優、スタッフ、ご遺族の方たちの年1回の集まり「成瀬監督を偲ぶ会」
のメンバーにも加えていただいた。(現在も年1回実施されていて参加)

 上記の著書の中に、「成瀬映画はアクション映画である」という章を書いた。
ジャンルとしてのアクション映画ではなく、「動作」「動き」の意味でのアクションを意図したフレーズだ。
 成瀬映画の魅力の要素はたくさんあるが、一つ挙げろと言われれば「アクション映画としての魅力」と主張したい。
これは著書出版からおよそ15年近く経った現在でも変わらない。

 本HPにも多く記述しているが、成瀬映画は「屋外シーン」「室内シーン」ともに登場人物がよく動く。

 室内シーンでは、坐っているかと思うと、立ち上って窓の方に行ったり、
和室なのに一切坐らずに、立ったまま会話を続けているなど。
 屋外シーンでは、二人が並んで歩いて、一人が少し前に出て相手を振り返る。

しばらく会話があってまた二人が並んで歩き出す。という成瀬リズムと言われる演出。
 
 そして、その登場人物の動き、空間移動をよりスリリングに見せるのが、
成瀬演出の最大の特徴である「視線の交錯」=「目線送り」である。
 成瀬組助監督の故・石田勝心監督は、後者の「目線送り」という言葉をよく使っていた。

 「目線送り」は下記に記述しているので省略するが、
「目線送り」の画面は、短い時間(数ショット)ではあるが相手が画面から一瞬消えるのだ。
夫婦や家族の家庭劇の多い成瀬映画の中で、この「人物が一瞬消える」演出が、
ヒッチコック映画のようなサスペンスを感じさせるといったら大げさだろうか。
 ともかく成瀬監督が多用するこの演出方法が、観客にスリリングな感覚をもたらすことは
間違いないだろう。

 本HPのどこかにすでに記述しているかもしれないが、
人物の動きと目線送りを融合させた素晴らしいシーンを少し紹介する。

 『山の音』
: ラストの新宿御苑の場面。
先に来てベンチに座っている菊子(原節子)のもとへ義父・信吾(山村聰)がゆっくり近づく。
菊子は立ち上り、二人は並んで会話をしながらゆっくりと歩く。

・しばらく歩いた後、信吾はベンチに座り立っている菊子に「菊子もかけないか」と声をかける。
・菊子は、かすかに相槌を打つがそのままの場所に立ったまま下を向いている。
・(数秒後)はっとして前を見る(この原節子の少し驚いた表情は正にサスペンスだ)と、そこに信吾が立っている。
・二人は会話を続けながら後ろになったり、斜め前になったりと立ち位置を移動させる。
 カメラアングルは実に自然にスムーズにその二人の動く立ち位置をとらえる。
・再び、ベンチに坐る信吾。泣き崩れた菊子がやっとベンチにもたれかかる。

 小津映画であれば、二人は間違いなくベンチに坐りあの小津ポジションで二人の会話のショット
展開があるだろう。成瀬映画とは人物の動かし方がまったく違うのだ。

 『山の音』には前半、会社で信吾と秘書の谷崎(杉葉子)との会話にも、動作+目線送りの場面がある。
・デスクで鉛筆を走らせている谷崎と、少し離れた席にいる信吾が会話をしている。
・谷崎が下を向いて仕事をしている。数秒後同じくはっとした表情で目線を上に向けると
 すぐそばに信吾がいる。離れた席から谷崎の近くへの信吾の移動を省略している。
 この時の少し驚いたような杉葉子の表情も、同じくサスペンスを感じさせる。
 

  
本稿 続く


NEW2020.1.8 続き

 成瀬映画の「室内シーン」。登場人物が室内で立ったり、坐ったり、部屋の中を移動したりと動くのが特徴だ。
作品を挙げればきりがない。作品ごとに室内シーンでの登場人物のアクションを注意して観てもらうしかない。

 その中で、いかにも成瀬調の「目線送り」と人物のアクションの組み合わせを挙げる。

『女の座』(東宝 1962)。
・映画の冒頭、父親の石川金次郎(笠智衆)が倒れたとの知らせを受けて、
 家族が荒物屋を営む実家に集まる。
 庭の石を持ち上げて腰をいためただけとのことに子供たちはほっとする。
 ちゃぶ台を囲んでの会話。
・高速道路ができるので立ち退きする可能性があったとの話題で、
 〇柿をほおばりながら坐っていた次男・次郎(小林桂樹)が「うちを削られたんじゃ、商売できないよ」
   といって立ち上りかける。
 <ショットの切り替わり>
 〇対面に座っている長女・松代(三益愛子)と次女・梅子(草笛光子)の右斜め上に向けられた視線。
  二人の会話。
 <ショットの切り替わり>
 〇庭に面した廊下の窓に立っている次郎が、柿を食べながら二人の会話に入っていく。

 これは映画で観ると一瞬であり、不自然な感じは受けないので観客には違和感のないショットの流れとなっている。
しかし、普通は立ち上りかけた小林桂樹のショット→立ち上った小林桂樹の姿をロングショットで見せるのが普通だ。
これがオーソドックスな「アクションつなぎ」である。成瀬映画にも随所に出てくるし、小津映画でも多用されている。
 立ち上った小林桂樹を見せずに、三益愛子と草笛光子の視線の先に立ち上った小林桂樹の姿を想像させるのが
成瀬調ということになる。
 管理者も数多くの旧作の日本映画を観ているが、このようなショット展開は成瀬映画以外であまり記憶が無い。

 もう一つ、これは最近発見(というと大げさだが)した例。
『女の中にいる他人』(東宝 1966)
・映画の前半、田代(小林桂樹)が勤務先の出版社へ出勤する。
 社長室で、社長(十朱久雄)と会話した後、部下のいる執務室に行くと
 部下たちが赤坂で女(さゆり・若林映子=田代の親友の杉本(三橋達也)の妻)が絞殺された
 新聞記事の話をしている。
 〇部下の会話を聞きながら、窓側の自分のデスクへ坐ろうとする田代。
 
<ショットの切り替わり>
 〇田代の隣の女子社員が田代の方を向きながら、坐りかけた姿から自分のデスクに座る。

 これも、普通の「アクションつなぎ」であれば、田代がデスクに坐った姿を執務室全体のロングショット
で見せるはずだ。坐りかけた人物Aの次のショットに隣の人物Bが坐るショットでつなぐなど、他の映画で観たことが無い。

 成瀬映画の楽しみ方はもちろん人それぞれだ。
このようなショットからショットへのつなぎ、アクションつなぎといった映画技法は
「そんなのは映画監督や映画の研究家の興味の対象であり別に関心が無い」という成瀬映画ファンもいるだろう。
 しかしながらあえて言えば、成瀬映画が何度観ても飽きない、テンポやリズムがいいといった要素は、
このような<斬新な>映画技法(他にも場面転換など)を目立たないように多用していることにも関係があるのは間違いない。
成瀬映画は、人物のアクションや目線を少し気にして観賞するとより楽しめると思うのだが・・・。

 成瀬映画をこれまでマニアックに繰り返し観てきた管理者でも、1本の成瀬映画を観ると
「こんな表現をしていたのか」と驚かされる発見がある。
 映画監督の中には、これ見よがしに映画技法=テクニックを観客に見せつける監督もいるが、
成瀬監督、小津監督そして川島雄三監督などは、目立たないように、さらっと繊細に
渋い映画技法を見せてくれる代表的な映画監督だ。
 
 成瀬映画の室内シーンの中で、二人の人物が坐ったまま「目線のやり取り」だけでスリリングな
素晴らしい効果を挙げている代表的な作品として以下を挙げたい。
・『妻の心』(東宝 1956)
 映画の後半、雨宿りをしている公園の休憩所のテーブルで向かい合った高峰秀子と三船敏郎
・『女の中にいる他人』(東宝 1966)
 映画の前半、葬儀場の待合室のシーン。
 テーブルの手前に座っている草笛光子と、テーブルの奥=窓側に坐っている新珠三千代。
・『乱れ雲』(東宝 1967)
 映画の後半、タクシーに乗って旅館に向かう途中の踏切で列車が通り過ぎるのを待つ
 司葉子と加山雄三。


◆私と成瀬映画との出会い

私(管理者TH)が成瀬巳喜男監督の映画に興味を持ったきっかけは、
1990年頃、深夜テレビで放送されていた『めし』を観たのが最初だったと記憶している。
高校生くらいから映画が好きで、日本の古典的な名作映画を本格的に見始めたのは大学生になってからである。
当時(1970年代後半〜1980年代前半)は、ほとんどの邦画マニアと同様、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、木下恵介など
今は無き池袋の旧「文芸座」地下や銀座「並木座」などで見たものである。
当時はまだビデオは普及しておらず、古い名作を見るとすれば、こういった名画座に通うより手がなかったのだ。
本などでの知識で、成瀬巳喜男は庶民の生活を淡々と描く地味な、実に日本的な監督であるとの印象を持っていた。

◆成瀬映画の主な特徴
  

女性が主役の映画が圧倒的に多い

■ストーリーは起伏が少なく、家庭内の日常生活のエピソードを淡々と描くものが多い

洋画、邦画をとわず最近の映画に多い暴力シーンはほとんどなく、ゆったりとくつろいで安心して観られる映画である

■代表作である『浮雲』(1955)の印象からか、暗く救いのない映画の印象が強いが、
 (多くの人は代表作だけを観て、その映画監督の作風を決め付ける傾向がある)

  成瀬映画の大半はユーモラスなシーンに満ちていて、また希望を感じさせるラストシーンが多く、そこが魅力でもある
 『浮雲』は成瀬映画の中で、作風からいうと「異色作」にあたる(現存する成瀬映画全69本を観ている私が断言します!)


■原作のある文芸映画が多い
 林芙美子(『めし』『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』)
 室生犀星(『あにいもうと』『杏っ子』)
 川端康成(『乙女ごころ三人姉妹』=浅草の姉妹『舞姫』『山の音』)
 谷崎潤一郎(『お国と五平』
 泉鏡花 (『歌行燈』)
 徳田秋声(『あらくれ』)
 川口松太郎(『鶴八鶴次郎』)
 大仏次郎(『雪崩』
 徳永直 (「はたらく一家』)
 井伏鱒二(『秀子の車掌さん』=おこまさん)
 真山青果(『桃中軒雲右衛門』)
 菊池寛 (『禍福 前篇・後篇』) など

■戦前〜戦後まもなくの作品では成瀬監督自身もシナリオを書かれているが、多くは一流脚本家を起用している。
 水木洋子を代表として、田中澄江、井手俊郎、橋本忍、菊島隆三、松山善三、八住利雄、新藤兼人など

■これは成瀬映画に限ったことではないが、昔の日本映画の撮影、美術、照明、その他の技術は本当に凄い。
 成瀬映画では、代表スタッフとして玉井正夫(撮影)、中古智(美術)、石井長四郎(照明)の3人がいる)。
 撮影監督は1960年代に玉井正夫から安本淳に代わる。

■戦後の作品には、タイトルに自然や季節をうたったものが多い(『浮雲』『鰯雲』『乱れ雲』『稲妻』『驟雨』『秋立ちぬ』など)

■人物の目線の動きを多用し、心理描写や相手のアクションを表現する独特な手法=「目線送りまたは目線の芸」

■ストーリー展開、場面転換では、なんといっても「省略」の仕方が渋い!
 特に、劇的なことが起こりそうになるとさっと省略してしまう演出は正に成瀬調だ

 
いつまでもくどくどと説明していく最近の映画やテレビドラマの演出とは対極にある

■カット割りが細かく、長回しは少ない

■ロケーション嫌いと定説があったが、実際に成瀬映画を観れば、東京(世田谷、銀座、上野、浅草、佃島、本郷、新宿、柳橋など)、
 東京近郊(横浜、鎌倉、厚木、箱根など)、地方(山梨県甲府市、静岡県静岡市清水区、長野県松本市、山形・銀山温泉、
 群馬・伊香保温泉、伊豆・長岡温泉、群馬県桐生市、鹿児島、京都、青森県・十和田湖、蔦温泉、北海道千歳市、札幌市など)
 実に多くの場所で屋外ロケーションをしているのがわかる=本HPロケ地写真参照

■小道具の一種として、「チンドン屋」「猫」「雨」が多く登場する

■登場人物が亡くなる原因としては「自動車事故」が圧倒的に多い。これは戦前の映画からすでにその傾向が見られ、
 遺作の『乱れ雲』まで一貫している


そして成瀬映画の最大の特徴は「1本の映画を何度も観ても面白く、新たな発見がある」ことである


◆成瀬映画の魅力


@映像美

成瀬監督はなんといっても「映像作家」である。
特に屋外シーンの光線の美しさは何と言ったらいいか。人物の服にかかる木漏れ日の影などはため息が出る。
成瀬映画には、日本家屋での屋内シーンが多い。
多くの登場人物は貧乏で、愚痴めいた会話が続き、観る方は少し息苦しくなってくる。
そんな時の場面転換(翌朝といったシーンが多い)に使われている屋外シーンは、空気が澄んでいて透明感に満ちている。
これは、成瀬映画を支えた技術スタッフによるところが大きい。
玉井正夫(撮影)、中古智(美術)、石井長四郎(照明)の黄金トリオ
私は成瀬映画の屋外シーンを見ると、おもわず外に散歩に行きたくなるような衝動にかられる。
成瀬映画では是非屋外シーンにはまっていただきたい


A豪華な女優たち

成瀬映画には、日本映画黄金期の素晴らしい女優が数多く登場する。
代表格の高峰秀子(『浮雲』『放浪記』『稲妻』『流れる』『あらくれ』『乱れる』など)をはじめ、
山田五十鈴(『流れる』『鶴八鶴次郎』『歌行燈』など)
原節子(『めし』『驟雨』『山の音』『娘・妻・母』など)
杉村春子『晩菊』『流れる』『女の座』など)
田中絹代(『おかあさん』『放浪記』『流れる』など)
香川京子(『おかあさん』『杏っ子』『驟雨』『銀座化粧』など)
岡田茉莉子(『舞姫』『流れる』『浮雲』など)
司葉子(『乱れ雲』『ひき逃げ』『鰯雲』など)
千葉早智子(『妻よ薔薇のやうに』『女優と詩人』『朝の並木路』など)
入江たか子(『女人哀愁』『まごころ』など)
杉葉子(『石中先生行状記』『めし』『夫婦』など)
など、あげていけばきりがない。
演技が素晴らしいのはもちろんだが、ともかく昔の女優さんは清楚で、綺麗である。
これは実際に観ていただいて実感してもらう他ない。
代表作『浮雲』を私はあまり好まないが、高峰秀子の美しさは凄い。それだけでも必見。
高峰秀子は『女が階段を上る時』のバーのママ役での和服姿にもしびれてしまう。
それから小津映画とはかなり違う、普段着のような原節子も素晴らしい。
原節子に関しては私は絶対に小津映画より成瀬映画の原節子を支持する
ともかく美男美女を観るのは、成瀬映画に限らず昔の日本映画を観る大きな楽しみの一つである。


B目線送り、目線の芸

成瀬演出の最大の特徴は、いわゆる「目線送り」「目線の芸」と言われるものである。
これは、世界の数多くの映画監督の中でも成瀬監督独特のものであり、小津監督や黒澤監督も認めていたらしい

「目線の芸」とはなんであろうか。
たとえば室内に夫婦がいたとする。
以下のようなキャメラワークが成瀬監督独特のもの。

◇夫が妻に話しかける(夫の目線)
◇妻が夫に話しかける(妻の目線)
◇妻の目線が上に向く(=夫が立ちあがったことを示す)
◇立ち上がった夫は
振り向きながら、目線を下に向け妻に話しかける。
◇妻の視線が下に向く
◇夫は再びすわっている。


文章にするとたったこれだけのことだが、成瀬映画を1本、2本と見ていくとだんだんこの技法にはまっていくのは
私だけであろうか。
「目線の芸」の解説は、「日本映画の時代」(廣澤榮著 岩波書店 同時代ライブラリー)に詳しい。
もちろん人物の位置関係を示すこういったキャメラワークは、昔から映画によく見られる平凡な技法である。
しかし、これほど効果的に多用する映画監督は成瀬監督が随一だろう。
私流に解釈すると、人物に動きをもたらす効果と映画的なリズムを狙ったのではないかと思う。

成瀬映画はいわゆるアクションシーンといったものはほとんどなく、キャメラも派手な動きをするわけでもない。
一見もの静かな映画である。登場人物(これも庶民が圧倒的に多い)が日本家屋の中で会話をするシーンが多いのも、
成瀬映画の特徴である。
動きの少ない場面にいかに動きをいれるかの結果が、人物の目線の動きによって相手の動きを予感させるこの技法の多用
に行き着いたのではないか。
成瀬監督はサイレント映画からその映画監督人生をスタートさせている。
その結果、映像で伝えることにこだわり、また自信を持っていたと想像できる。
この技法の代表的な例をあげれば、
・『驟雨』冒頭での佐野周二(関口宏の父)と原節子の夫婦の会話シーン
・『流れる』での山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子の会話シーン
・『乱れる』での高峰秀子と加山雄三の会話シーン
などに典型的な例が見られる。

もう一つ、これも成瀬演出の大きな特徴(すでに多くの本で指摘されている)だが、
成瀬映画には登場人物が「振り向く」シーンが実に多い。これも少し注意して観ていただきたい。


C省略

成瀬映画の魅力の一つに「省略の巧みさ」があげられる。
成瀬映画は、繰り返しになるが、ストーリーは起伏に富んでなく、登場人物の日常生活の何気ない描写が続くものが多い。
一見すると地味な映画だという印象を持つが、実はストーリーの展開方法には観客の想像力を刺激する職人技を用いている。
それが「省略」方法である。
登場人物2名が街中で会って会話が続くかと思うと、次のカットでは喫茶店にいたり(『妻』)、
「まごころ」のラストなど、これもあげていくときりがない。
ともかく、場所や時間の省略の仕方はわかっていることをだらだらと説明されるより、見ていて心地よい。
これも成瀬映画独特のリズムである。
また、成瀬監督はドラマチックな部分の演出を極力排除したがっているようにしか思えない。
というのは、劇的なシーンを予感すると、観客の想像を見事に裏切って、さっさと「省略」してしまうのである。
この演出は、劇的なシーンをこれでもかとあざとく演出しがちな最近の映画・TVドラマの監督と比べて新鮮である。
これは、成瀬監督だけでなく、山中貞雄(特に「百萬両の壷」で効果的に多用している)や
小津安二郎、黒澤明、清水宏など多くの名監督に共通する古典的な演出手法であるが、
最近の映画やドラマが一番失っているものは、ストーリーを追うばかりで、映画の独特のリズムである「省略」
が少ないことではないかなどと感じてしまう。
成瀬映画を多く観ていくと、くどくてあざとい説明的な演出がいかに「ダサい」かを理解できる。


Dユーモア

成瀬映画は一般的に<暗い>と言われる。これはおそらく代表作である『浮雲』の印象が強いのだと思う。
『浮雲』はこれまで映画館、放送、ビデオ・DVD、現在ではブルーレイで何度も観たが笑えるシーンがほとんどない。
しかし、成瀬映画には、意外なほどユーモアあふれる台詞やシチュエーションが多い。
爆笑するというようなものではなく、思わず微笑んでしまうような自然な笑いである。
台詞などには、現代とあまりに違う感覚が理由で笑ってしまうものもあるが、
多くはやはり成瀬監督が意識的に演出していたのであろう。
あざとくなく自然なユーモアは、観る方を何ともいえない幸せな気分にしてくれる。
「並木座」などでの上映では、場内が和んだ雰囲気になっているように感じたものだ。
『晩菊』の望月優子、『おかあさん』の岡田英次、『驟雨』の小林桂樹、『稲妻』の浦辺粂子など、
全体のトーンとしては暗い『乱れ雲』でも、森光子と加東大介、加山雄三と会社の先輩の中丸忠雄の
バーでのブラックユーモアに近い会話など、笑いのシーンが出てくる。
成瀬映画のユーモアは上品さ、自然さを兼ね備えていて、江戸落語の匂いを感じるのだ。


以下は追加したもの

■導入部分の語り口の上手さ

『夫婦』のファーストシーンは、菊子(杉葉子)が銀座の松坂屋の屋上で、
女学校の同級生(おなじみの中北千枝子ともう一人)と会っているシーンから始まる。
ここでの会話で
@菊子が夫の転勤で地方から東京に戻ってきたこと
A子供がいないこと
B現在家を探していて困っていること
などが自然と観客に示される。
『女が階段を上る時』でも、冒頭、銀座の昼間のバーの中でのホステス達
(ここにも中北千枝子が。その他に団令子、塩沢登代路(とき)など)
の笑い声に続き、仲間の一人が結婚の相手と一緒に祝福されているシーンになる。
ここでの会話でも不在の雇われママ 高峰秀子からの電話で、
売り上げについて経営者から文句を言われていることがわかる。
『驟雨』の冒頭の日曜朝の夫婦(佐野周二、原節子)の会話も
子供のいない倦怠期の夫婦のリアルな感じをよくとらえている。
これはほんの一例だが、成監督瀬は導入部分のさりげないシーンから
自然とストーリーへ観客を引き込んでいくのが上手い。
シナリオ自体もよく出来ているとは思うが、やはり成瀬演出の名人芸の仕業であろう。
これも魅力の一つである。

■小道具の使い方

『夫婦』での小道具の上手い使い方の例。
風邪で会社を休んでいる竹村(三国連太郎)へ同僚の女子社員がお見舞いの花を買ってくる
@竹村に花瓶があるか聞くと「バケツならあるけど」と真剣に言う
A女子社員は菊子(杉葉子)に花瓶がないか聞く
B今探してきますと答える菊子
C押し入れから花瓶を取り出す菊子
D女子社員が花瓶をいれてある箱をみて「それ結婚祝いの時のですね」と言う。
「花瓶」という小道具で竹村の性格、菊子の生活(花を飾るような精神的な余裕もない結婚
生活)などをさりげなく説明しているように思える。
『夫婦』にはこれ以外にも竹村が、菊子が普段いろいろと面倒みてくれることに感謝して
クリスマスプレゼントに贈る「ショール」(夫である中原(上原謙)とのいざこざの原因)も
効果的に使われている。
他の作品では『秋立ちぬ』での「かぶと虫」、
『驟雨』での「料理記事を切り抜いた新聞」などが印象的だ。
小道具の使用によって、人物の性格、現在の境遇を表現したり、ストーリーを展開
させたりとこれも上手いなと感心してしまう。
成瀬映画を観る時は、小道具に注意するのも楽しい。


◆「低迷期」について

成瀬監督のことが紹介された文章を見るとよく出てくる表現がある。
「成瀬は戦中、戦後の低迷期を経て、『めし』(1951)で復活し、最高傑作『浮雲』(1955)で頂点を極めた」
といったもの。

するとここで当然の質問項目が出てくる。
「一体成瀬の低迷期っていつからいつまでなの?」である。
もう一つは「誰が決めたの?」である。

まず芸道物の『鶴八鶴次郎』(1938)は誰もが認める傑作であろう。
ではその後1938年〜1945年の終戦の年までの「低迷推定第1期」に、13本の作品がある。

この中では
『はたらく一家』『まごころ』(1939)
『旅役者』(1940)
『秀子の車掌さん』(1941)、
「歌行燈」(1943)
「芝居道」(1944)
と傑作揃いである。
特に、『まごころ』と『旅役者』は、それぞれ70分くらいの小品だが2本とも素晴らしい出来だ。
これはご覧になった方なら共感していただけると思う。

これ以外では、
『なつかしの顔』(1941)、成瀬監督の初時代劇『三十三間堂 通し矢物語』(1945)の2本も佳作だ。
三分の一くらいの断片しか残っていない『上海の月』(1941)や、
同じく一部しかフィルムが残っていない『勝利の日まで』(1945)は評価が困難である。

『母は死なず』(1942)、「愉しき哉人生」(1944)の2本は確かにあまりいい出来ではない。
低迷推定第一期を代表する(!)映画かもしれない。

次に1946年〜1951年『舞姫』までの「低迷推定第2期」である。
「めし」で復活となると理論的にはそのようになる。
この時期には11本の作品がある。

この中では、製作会社にもフィルムセンターにも現存しない作品は『不良少女』(1949)(東横映画)
のみでありもちろん私も未見である。
この時期では、
『春の目ざめ』(1947)
『石中先生行状記』(1950)
『銀座化粧』(1951)
の3本は佳作と言えよう。

『俺もお前も』(1946)
『四つの恋の物語(4話オムニバスのうち第2話「別れも愉し」)』(1947)
『怒りの街』(1950)
『白い野獣』(1950)
『薔薇合戦』(1950)
この5本は駄作と言ってよいだろう。
特に、『四つの恋の物語 2話』、『怒りの街』、『白い野獣』の3本は
名匠・成瀬巳喜男の作品とは思えない酷さである。
『俺もお前も』と『薔薇合戦』の2本は酷いというレベルではない。

評価が難しいのは、成瀬映画の中での最高度に異色作といってよい『浦島太郎の後裔』(1946)と
岡田茉莉子のデビュー作であり山村聰と高峰三枝子も出ている『舞姫』(1951)の2本である。

『浦島〜』も最初にスカパー日本映画専門チャンネルの放送で観たときは、冒頭の藤田進の「叫び声」から
度肝を抜かれたが、観なおしてみると、高峰秀子や杉村春子も出ていてなかなか魅力的な映画にも思えるのだ。
『舞姫』は、観念的な台詞が多く、新藤兼人のシナリオの出来は悪いと思えるが、
随所に切れ味のいい省略の場面転換もあり、成瀬演出としてはこれも魅力がある。

上記の映画も、私がすべて観ることができたのは生誕100年の2005年であり、
それまでは松竹時代のサイレント映画も含めて、なかなか観ることが困難だった。

結論として、確かに、戦中、戦後のいくつかの成瀬映画は「駄作」であるが、傑作もある時代全体を
低迷期というのは明らかに間違っていると主張する。

〜長い低迷期を経て『めし』から復活〜というのは、映画評論家の誰かが書いたものを
そのまま長い間引用してきた「コピペ」にすぎないのが本当のところではないか。

スカパーの日本映画専門チャンネルで以前やっていた「成瀬巳喜男劇場」の前は
成瀬映画を観るのはなかなか困難であったのであり、低迷期などと書いている評論家が
低迷期といわれる戦中から『めし』までの成瀬映画を実際に観ていた確率は非常に小さい。


◆日本の監督をクラシック音楽に喩えると

クラシック音楽ファンとして、日本の映画監督をクラシック音楽に喩えるとどのようになるかという話。
さて、成瀬監督は一体誰か?
最初に注として、クラシックの作曲家の作風だけをポイントにして
いるので年代的なものは無視願いたい。

最初に、黒澤明監督。
これはやはりベートーベンで決まり。
堂々とした太い旋律とリズム、明快な進行など、黒澤映画にびったりだろう。
『赤ひげ』の時は実際にスタッフ、キャストに「交響曲9番」を聴かせて、
「最後にこのメロディが出なければこの作品はだめなんだ」と言ったそうだ。

次は、小津安二郎監督。
バッハではないか。
かちっとした形式、メロディが多少形を変えて繰り返されるところなど。
「繰り返しのリズム」が小津映画の作風と共通するのでは。

次に溝口健二監督。これは難しいがマーラーではないか。
一つのフレーズが長い(ワンシーンワンカット)、陶酔するような美しい旋律のパート、
突然激情的に変化する構成 など。

では、いったい成瀬監督は誰か?
これは絶対にブラームスだと言いたい。
特に、「交響曲第2番」は成瀬映画っぽいと勝手に思っている。
リズムやメロディがあまりはっきりすることなく展開し、
前半部分に、曇りがかった空から太陽が差し込むような映像を喚起される個所がある。
(成瀬作品のテーマ音楽と似ているという意味ではない)
おそらく音楽的にはなんとか主題とか言う部分だと思うが詳しくはわからない。
この「交響曲2番」は聴いたことがない方は是非一度聴いてみていただきたい。

その他、監督も作曲家も数多くいるのですが、これ以上はちょっと思いつかない。
ただ、あと1人だけ。
それは山中貞雄監督=天才モーツアルト。
不幸にも若くして亡くなったのも共通で、これには異論ないかと。


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