成瀬映画に登場する風景(81) 番外編


成瀬巳喜男監督の生誕地調査 NEW 2015.7.21


先日、小津安二郎監督の生誕地(深川)に行ってきたので、今回成瀬巳喜男監督の生誕地である東京の新宿区四谷に行ってきました。
以前から一度訪ねてみたいと思っていました。といっても小津監督のように正確な場所が特定されていません。

一般的には
・「1905年(明治38年)8月20日 東京市四谷坂町に生まれる。」
とされています。
フィルムアート社から出ている「成瀬巳喜男 透きとおるメロドラマの波光よ」
の冒頭の年表(構成 田中眞澄氏)にもそのように記述されています。
さらに
・「1912年(明治45年/大正元年)、鮫ケ橋尋常小学校に入学」
とあります。

また同書のP26には、成瀬監督自身の文章「ふるさと東京」(読売新聞 昭和28年11月24日朝刊)
が掲載されていて、その冒頭の文に
・「父も母も四谷坂町の坂の上の小さな家で死んだ」
と書かれています。

しかしこれとはまったく別の記述の資料(「我流 成瀬巳喜男抄史」)があります。
成瀬監督と松竹蒲田時代から親しくしていた友人の岸松雄の文章です。

これは、成瀬映画8本の助監督をされた故・石田勝心監督から10年以上前にコピーを送っていただいたものなのですが
内容を見ると、成瀬監督が亡くなられた(1969)直後に出された親しい人たちからの追悼文をまとめた小冊子の一部分のようです。
(次のページは映画評論家・井沢淳「日本的な作家」。それ以外は不明)

ここには冒頭次のように書かれています。(原文のまま)
・「成瀬巳喜男、明治38年(1905)8月20日、東京市四谷区谷町(現在の若葉町)の
 縫箔業、成瀬利三の次男として生まる。母はきな。両親とも江戸っ子だ。
 兄は
(しん)太郎、姉は三代(みよ)、巳年生まれの巳喜男は末っ子で、父の43歳の時の子である。
 明治45年の4月、四谷区立鮫ヵ橋尋常小学校に入学。

明治38年当時の「東京市四谷区」出身であることは間違いないようですが
上記の2つの文章では場所と地名が異なっています。

JR・地下鉄の「四ツ谷駅」から新宿方向に向かう「新宿通り」をはさんで
北側に「坂町」、南側に「谷町」(現在はその地名はなく若葉町)があります。

坂町の隣の新宿区三栄町には「新宿歴史博物館」があり、今回そこにも足を運びました。
ロビーに新宿の明治後期の地名のはいった地図や、小学校の変遷の資料などが見本で閲覧できたのでそれも参考にしました。

ネットで検索してもらえればわかりますが、
成瀬監督が生まれた明治38年頃、「鮫が橋」(現在の新宿区若葉町、南元町あたり)はいわゆる「貧民街」だったそうです。
成瀬監督の通った「鮫ケ橋尋常小学校」も現在の若葉町3丁目付近にあったよう。。
(場所が明確ではないのですが、ネットの情報によれば現在の「若葉公園」にあったとのこと)

南元町のあたりは現在は首都高速やJR中央線が走り、近くに迎賓館や神宮外苑もあるのですが
明治の当時、貧民街であったというのは信じられないです。

これは成瀬監督か岸松雄のどちらの文章が正しいのか
判断がつきませんが、小学校の位置から言うと岸松雄説が正しいようにも思えます。
というのは私も実際に歩いてみましたが、現在の四谷坂町(ここは江戸時代からの地名のよう)
から、当時の谷町、現在の若葉町までは結構距離があります。

成瀬監督の年表をあらためてみると、
成瀬監督は1920年(大正9年)、15歳の時に父親を亡くし、
その後1926年(大正15年/昭和元年)に母親を亡くしています。
(母親については1922年という説もある)

生い立ちの境遇において、深川の肥料問屋の息子だった小津監督とはずいぶんと違います。
小津監督の社交的な性格と、成瀬監督の内向的な性格は、そのあたりが大きく影響しているのかもしれません。


この電柱の近くに「坂町坂」という坂がある。この電柱は坂の上。
成瀬監督説(本人なので説というのはおかしいが)の通りであれば、成瀬監督はこのあたりで生まれ育ったことになる



旧「谷町」、現在の若葉町2丁目の通り。四谷2丁目、新宿通り方向。
岸松雄説が正しければ、成瀬監督はこのあたりで生まれ育ったことになる



上の写真の逆アングル。南元町、JR信濃町駅方向



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