11月25日、国立民族学博物館で開催されていた特別展「吟遊詩人の世界」を MMPの方の案内で見学しました。吟遊詩人と言えば、中世ヨーロッパのトルバドゥールなどを思い浮かべてしまいますが、この展覧会で扱われていたのは、日本も含めアジアやアフリカの広い意味での吟遊詩人、と言うか、移動しながら歌などによって諸地域の人々と交流しつながっている人々でした。1階では、8人の研究者が、それぞれ専門とする地域の吟遊詩人について紹介し、 2階ではそれらが現在どのように変わりつつあるのか、また各研究者がどのような視点で向き合っているのかが紹介されていましたが、以下 1階での展示を中心にまとめます。(1階で紹介されていた京都のラッパー・語部である志人(しびと)については、たぶん私が疲れてきた様子を見てなのでしょう、案内は受けなかったので割愛します。)
●まず、エチオピア高原で活動するアズマリとラリベラ。アズマリは、各地を移動しながら、歌うことを生業とする人々で、結婚式や洗礼式、教会の祝祭日など、さらには各家で行われる新年や子どもの誕生会などのパーティーに呼ばれて歌うとのこと。山羊の皮を張った胴と馬の尾の弦から作られた弦楽器マシンコの伴奏に合わせて歌い、しばしば聴き手と即興で詩を歌うこともあるとか。最近は移動することはなくなって、アズマリペットという酒場のような所の専属歌手として活動しているそうです。そこで歌われている歌詞の一部を読んでもらいましたが、その内容はエジプトを痛烈に批判する政治的なものでした。
ラリベラは門付け芸人で、朝早く家々の軒先で歌い、家の者から金や食べ物、衣服等を受け取ると、その見返りとして祝詞を与え、次の家に向かいます。これには、ラリベラが歌うのを止めると、重い皮膚病に罹るかも知れないという恐怖もあるとか。その他、主にエチオピア聖教会で使われる大型の竪琴(弦は10本)ベゲナも展示されていました。
●インド西部・ラージャスタン州からパキスタン東部にかけて広がるタール砂漠(インダス川はこの砂漠の西方を流れている)には、様々な芸能集団が分布しているとのこと。その主要なものは、ムスリム楽士集団「マーンガーニヤール」、神話の絵解き芸「ボーパー」、人形使い「カト・プトリ」などで、いずれも演奏・歌・踊りを伴うもののようです。とくにカト・プトリは、ラージャスタン州に伝わる神話に出てくる英雄や王、王女などの物語を木彫りの人形を操って演じているようです。演奏も流れていて、カスタネットのようなのや小太鼓、ダブルフルート、アコーディオン(ハルモニウム?)のような音などが聞こえました。
●インド東部の西ベンガル州からバングラデシュにかけてのベンガル地方では、絵語りするポトゥアと吟遊行者のバウルが紹介されていて、私にはとても興味深かったです。
ポトゥアはポト絵という縦長の絵巻物について語るのですが、ポト絵はイスラム教徒が制作し、それを語るポトゥアはヒンドゥー教徒でヒンドゥーの村々で語られるとのことです。イスラム教が描くポト絵の題材は、クリシュナやラーマ、シーターなどヒンドゥーの神々の物語をはじめ、ベンガルの蛇神モノシャ(毒から身を守る強力な女神)などで、これらがヒンドゥーの村々で語られるのですから、宗教の異なる人たちの地域での共存の一面かもと思いました。西ベンガル州のノヤ村にはポトゥアが250人?くらいも暮らしており、例えば花嫁の持参金問題や森林破壊への警鐘、さらにはコロナウイルスの脅威など、その時々の社会問題も扱っているとのこと(「コロナウイルス」のポト絵では、救急車や埋葬などの絵とともに、「マスクをしよう」「ワクチンを打ちなさい」といった政府広報を思わせるような言葉が書かれていました)。そして今では、ポトゥ絵の販売や絵語りがノヤ村の多くの女性たちの生業になっているそうです。
バウルとは、何にもとらわれない一種仙人のようなもので、生まれや宗教とは関係なく、どのカースト・どの宗教にも属さず、世俗を捨て、内なる魂との合一を求めて、師匠や先達から受け継いだ詩を吟じながら村々を托鉢して回る遊行者です。左手で一絃琴エクタラ、右手で太鼓ドゥギ、足首の鈴でリズムを刻み、踊りながら滔々と歌うのが伝統的なスタイルだとのこと(参考:
パルバティ・バウル)。タゴール(Rabindranath Tagore: 1861~1941年。現在の西ベンガル州コルカタ生まれ)は、バウルが伝承してきた詩に心動かされ、1910年それらを編んでベンガル語の詩集『ギーターンジャリ』(ギーターは歌、アンジャリは合掌の意)とし、さらにその英訳版が評価されて1913年ノーベル文学賞を受賞します。最近は歌唱のみを生業とするバウルも増えているとのこと、そして、バウルの独特の文化・芸能・芸術性、さらには宗教的対立などを緩和した功績が認められ、2008年にユネスコ無形文化遺産になったとのことです。バウルとしてもっともよく知られたフォキル・ラロン・シャハ(1774~1890年、バングラデシュの高貴な家の出)とその弟子たちについても紹介されていました(バングラデシュのクシュティアにはラロン廟があり、弟子たちが暮らしている)。
●ネパールでは、ガンダルバと呼ばれる楽師が、村々を回って 4弦の擦弦楽器サーランギで弾き語りをすることを生業にしていたそうです。彼らは、為政者の偉業やヒンドゥー神話、祝福や吉祥歌、民俗歌謡などを歌って村々を訪ねていましたが、1970年代以降、彼らの生業は、外国人ツーリストに歌を聴かせ、サーランギを販売するように徐々になっていったそうです。サーランギの弦も、1950年ころまではヤギの腸から自作した弦が使われていましたが、その後はナイロン弦、さらには金属弦が使われているとのことです。
●続いて、日本の瞽女です。展示のタイトルは「瞽女ーー見えない世界からのメッセージ」。瞽女を通して「見えない世界をみる」という、この展示の担当者広瀬浩二郎氏の力強いメッセージが伝わってくる展示でした。そして、実際に触る展示も多かったです。
江戸時代には瞽女はほぼ全国各地で活動していました(東北地方では、巫女やいたこといった盲女性の生業があったため、瞽女はあまり根付かなかった)。明治初年、1871年に盲官廃止令が出たこともあって、それ以降瞽女も全国的には急速に衰退しますが、新潟県をはじめその周辺では、少なくとも昭和初年までは多くの瞽女たちがしっかりした組織の下活動していました。しかし第二次大戦後これらの地域でも衰退し昭和50年ころには実際に旅回りする瞽女の活動は途絶えます。その後は、瞽女唄については、主に晴眼の方によって継承されています。
まず、3人が列になって歩いている姿のブロンズ像と、中央の人が三味線を弾き、両側にそれぞれ女性が座っているレリーフを触りました(これらは、10年以上前になりますが、国立民族学博物館で開催された体験プログラム
「瞽女文化にさわる」で触ったことのあるものでした)。この3人のモデルになっている女性は、高田瞽女の親方杉本キクイ、弟子で養女の杉本シズ、弟子で主に手引をしていた弱視の難波コトミで、ブロンズ像を触ると、三味線を抱えた難波コトミさんが先頭になり、その後ろに、右手に杖を持ち、左てで前の人の背の大きな荷物を触って列になって歩いていることが分かります。瞽女たちは、1年に300日近くも、点在する農山村を巡り歩いたと言います。峠や崖などもある山間の山道を大きな荷を背負って歩いて移動することを想像すると、それは極めて困難な道行きだったと思われます。それでも、足裏で感じられる地面の硬さや傾きなどをはじめ、回りの音や、風、陽射し、さらには温度や湿気・においの変化などから、回りの状況を把握し、自分の位置や方向を確認しながら歩んだと思われます。そしてこのようなことは、彼女らの身体、身心全体を鍛え、それは彼女らの芸や所作にもあらわれ出たのかも知れません。村々では瞽女さんたちが回ってくるのを楽しみに待ち、村の有力者が瞽女宿も提供し、瞽女さんたちは多様な瞽女唄を披露するとともに、あたたかく歓迎されたようです。
瞽女たちが使っていた物、例えば角巻(分厚い毛布のようなもので、体にはおる防寒着。青森でも使っていた)、枕、草履などが展示されていました。瞽女は、これらの品など日常使うもののほとんど(布団まで含まれていたとか)を背負い、その重さは15キロにもなったとのことです。また、瞽女たちが門付けして集めた米の重さを実感する米袋体験もありました(3人の瞽女が1回の門付けで6軒の家を訪ね、茶碗などに入れた米をそれぞれ1合ずつもらうとすると、18合(2.7kg)の米が集まるということで、150gの塊が18個入った袋を持ってみる)。こうして集めた米は「瞽女の百人米」と言われ、食べると健康になるとか子どもの頭がよくなるなどと信じられて珍重され、高く売れたとか。百人米に限らず、ときには瞽女の持っている品々あるいは瞽女唄は独特の力、一種霊力のようなものを持つとされ、例えば養蚕の盛んな信州などでは、蚕棚の前に瞽女の使っていた三味線の弦をつるしておいたり、蚕棚の前で瞽女が歌ったりしたとか。瞽女がこのように特別の力を持つものとされたのには、目の見えない女性が自分の足で巡ってくるという、ふつうでは考えられないような困難を克服し、またその唄が村人たちの心に染み入りやすらぎを与えときには癒していただろうことが寄与していたのかも知れません。
瞽女唄も流されていました。いずれも重要無形文化財に指定された刈羽瞽女の伊平タケ(1886~1977年。27歳で結婚して瞽女を引退するが、昭和初年にラジオに出演、レコードにも吹き込む)、高田瞽女の杉本キクイ(1898~1983年)、長岡瞽女の小林ハル(1900~2005年。最後の瞽女と呼ばれる)の「葛の葉子別れ」(信太山に住む白狐が化身した葛の葉姫は、縁あって人間の妻となり子をもうけるが、やがて幼い子どもと泣く泣く別れるときがくる)を聴き比べることができるようになっていました(3人の「葛の葉子別れ」がYoutubeにありました:
伊平タケ、
杉本キクイ、
小林ハル)。
また、現代の若いアーティストが「へそ穴口説」という瞽女唄から着想を得て制作したという陶の立体作品「わたしのおへそのうちとそと」も展示されていて、ちょっと面白かったです。長さ60~70cmくらい、ずんぐりした感じで横たわっています。左端のほうが細くなっていて、右にゆくに従って太くなり20数cmの径になっています。表面は滑らかでさらさらしたような手触り、いふつか少しうねった襞のようなのが走っていて、着物をふわっとはおった女性が寝転んでいるようにも思いますし、女性の体内のお腹からお尻辺までをあらわしているようにも思います。へそ穴口説の歌詞を読んでもらいましたが、なんともあっけらかんとした、女性だからこそ歌えるようなものと感じました。作家のナギソラさんは、この歌詞から女性性を感じて制作したとのことです(参考:
へそ穴口説の歌詞)。
●モンゴル高原の遊牧民たちの間では、韻を踏む口承文芸が盛んで、それを伝えるシャーマンやトーリチ、さらに現代のラッパーたちが紹介されていました。モンゴルのシャーマニズムでは、シャーマンは獣の毛皮を纏い巨大な円形の革張りの太鼓を叩きならしながら、憑依した精霊が集団の物語(主に悲劇の歴史)を韻を踏みながら語るという。ただし、チベット仏教が普及して、シャーマニズムは辺境のごく限られた地域に残っているだけとのことです。
トーリチは、弦楽器を弾きながらトーリと呼ばれる英雄叙事詩を歌い語る吟遊詩人のこと。モンゴルの英雄叙事詩は、求婚と奪還という2つのモチーフ(主人公が競馬や相撲といった競技で勝利し美しい妻を娶り、その後主人公は、怪物に家畜群や妻を奪われるが、賢い駿馬の助言のもとで妻と財産を取り返す)が繰り返される構成になっているそうです。トーリチの歌語りを聴いてみましたが、ちょっとだみ声で唸るような声でした(語尾で韻を踏んでいるらしいことはわかった)。韻を踏んで歌い語る伝統は、現代のヒップホップのラッパーたちにも受け継がれ、そこには貧富の格差や政治腐敗など社会批判的な内容も目立つそうです。
●西アフリカのマリを中心に、周辺のニジェール、ブルキナファソ、ギニア、セネガルなどにかけて分布するマンデ語派の人たちの間では、グリオという語部が活動しているとのこと。この地域では13~15世紀にマリ帝国が繁栄しますが、グリオはその建国を物語る「スンジャタ叙事詩」(英雄スンジャタ・ケイタ、宿敵スマオロ・カンテをはじめ、各氏族の始祖が活躍する物語)を歌いあげ、また祭礼では、出席者各人をスンジャタ叙事詩に登場する氏族の始祖と結びつけて誉め歌を歌うとのこと。グリオは世襲で、以前は王族や貴族などをパトロンとし、助言や仲裁もしたとか。現在では特定のパトロンに頼らず、個人の結婚式や命名式、公的な祝礼などで歌うことが多いそうです。
グリオはコラなどの楽器を演奏しながら歌うのですが、それらの楽器も展示されていました。コラは、直径50cmくらいもある大きな丸いヒョウタンを半分にしたものに牛や山羊などの皮を張り、1m以上もある長い棹?のようなのを付け、その左側に11本、右側に10本、計21本の弦がある、音はハープのような撥弦楽器です(参考:
吟遊詩人グリオと弦楽器コラ)。
(2024年12月17日)