8月5日と11月3日に、ピースおおさか(大阪国際平和センター)に行きました。
ピースおおさかは、大阪大空襲などの展示を中心とした、平和をテーマとしたミュージアムです。そしてもちろん、展示ばかりでなく、いろいろな講演会や特別展なども行われているようです。知り合いの被爆者・高木静子さんの講演があるということで、8月5日、初めてピースおおさかに行って「終戦の日平和祈念事業A ヒロシマを忘れない-証言と紙芝居「はだしのゲン」に参加しました。第1部が高木さんの語りで、第2部では、漫画家・中沢啓治原作で、中沢自身の生い立ちや広島での被爆体験から描いたという『はだしのゲン』を、青空みかんさんという方が紙芝居で上演しました。
ピースおおさかには点字のパンフレット(「ピースおおさか 施設案内」)もありましたし、また実際に大阪大空襲を体験した方も来られていたりして、ミュージアムの展示がどんなものなのか興味をもちましたが、その時は時間がなくて無理でした。それで、11月3日、もう一度ピース大阪に行ってその展示を見学しました。
まず、私が体験した範囲でピース大阪の展示を紹介し、高木静子さんの語りについては後でその要旨を記すことにします。
◆目次
ピースおおさかの展示
高木静子さんの語り
■ピースおおさかの展示
私が最初に触ったのは、ピースおおさかの入口近くの金属製の台の上にある「1945年の母子像」です。 1m弱の女性で、台の上にうつ伏せになっています。足の裏からふくらはぎ、腿裏からお尻、背中、そして両手を伸ばして頭の上で組んでいます。その組んだ両手の下には、子供の小さな顔が上向きに、やや左を向いています。子供の顔の下には、指先をぎゅっと曲げた感じの子供の手がのぞいています。お母さんが全身で子供を守っている姿のようです。グラフィックデザイナーの粟津潔さんの作で、大阪大空襲の犠牲者を追悼するモニュメントとして、戦禍の中を逃げまどう母と子のイメージを表しているものだとのことです。
常設展示は、点示室A、B、Cの 3つに別れています。以下、点字の「施設案内」も参考にして、触れられる物も多かった展示室Aを中心に紹介します。
展示室Aのテーマは「大阪空襲と人々の生活」。ここには、触れられる物もいくつかありました。
まず目立つのが、1トン(2000ポンド)爆弾の模型。M66A2型で、長さ235cm、弾体の直径60cm、炸薬量499kg、総重量952kgとなっています。どでかい円筒形で、両端は円錐形になっていて、片側(下の方)には長さ10cm余の小さなプロペラのようなのが付いており、もう片方(上の方。手は届かなかった)には尾翼のような羽が4枚?あるらしいです。このピースおおさかのある大阪城公園一帯には、戦時中、大阪陸軍造兵廠があったそうです。終戦前日の1945年8月14日、この造兵廠をB29約145機が空襲、多数の1トン爆弾が投下されて造兵廠は完全に破壊されます。その時、京橋駅にも4発の1トン爆弾が落とされますが、そのうちの1発が、多数の乗客が避難していた片町線ホームに城東線(現在の環状線)の高架を突っ切って爆発、1発の1トン爆弾でなんと800名くらいの人たち(氏名の判明した者210名、身元不明者500〜600名)が犠牲になります。
次に、土にいくつもの焼夷弾が落とされている模型。大きいタイプのM69や小さいタイプのM50という焼夷弾が、横になっていたり縦に突き刺さった状態になっていました。(M69の中に少し指を入れてみると、柔らかい布の中に何かが入っているようでした。)M69は、直径8cm、長さ50cm、重さ6ポンドの細長い6角形の金属筒で、その中にはガーゼ状の袋にナパーム剤(ナフテネート・やし油・白燐からなる粉末を低オクタン価ガソリンに混合したゼリー状のもの)が詰め込まれていて、着地と同時に信管が作動して、頭部の炸薬に点火するとナパーム剤が撒き散らされ、家の壁や天井にくっついて激しく燃えました。その金属筒を16本ずつ3段に束ねて内蔵したのが、1942年にアメリカ軍が木造家屋中心の日本の都市攻撃用に開発したE46集束500ポンド焼夷弾です。この集束焼夷弾が空中で時限信管によって開束し、48発の焼夷弾に分かれます。その時、各焼夷弾の尾翼の役割を果たす麻布製のリボンに火が着き、「火の雨」となって市街を、人々を襲います。M50は、直径5cm、長さ35cm、重さ4ポンドの6角形の金属筒で、中にはテルミット(酸化鉄とアルミニウム粉の混合剤で、還元反応により酸化アルミニウムと鉄になり、2300度の高熱を発する)が入っていて、外側を包むマグネシウムを激しく燃焼させて高温を発します。これもM17集束弾に110本も束ねられていて、1500mの上空で開束して、M69よりも高速で地上に降り注ぎました。大阪は、1944年末から終戦まで、50回以上の空襲を受け、1万人以上が儀牲となり廃墟となったと言います。終戦直後、汽車で大阪駅に降りたつと、あたり一面焼け野原で、梅田から難波まで見通せたそうです。
触ってとくに印象深かったのは、上本町の正祐寺(しょうゆうじ)にあるという、焼け爛れた「朝鮮鐘」のレプリカです。この鐘は正祐寺の本道にあった立派な梵鐘だったようですが、1945年の大阪空襲で本堂は焼け落ち、そのさいの高熱のために鐘の上部はすっかり溶けてしまい、下部だけが残骸となりました(梵鐘はたぶん銅製なので、少なくても千度くらいの高温が長時間続いたのでしょう)。直径60〜70cmくらい、高さ20〜30cmくらいの平たい円等の輪のような形で、上縁はぎざぎざ・ざらざらになり、中には、溶けた銅が下に流れ落ちて固まったのでしょう、がたがたの金属の塊が広がっていました。でも側面には、渦巻きのような模様や羽のような形が浮出しになっていて、なんとなく由緒ある鐘だろうということを偲ばせます。この鐘の由来ですが、高麗時代の韓国・蔚山(うるさん)で作られ(鐘には天禧3年(1019)の銘があるそうです)、経緯はよく分かりませんが宮崎市佐土原町にある平等寺に長年置かれていましたが、明治4年の廃仏毀釈で平等寺が廃寺となり、その後正祐寺の住職が古物商からこの鐘を買い取ったそうです。そして調査の結果朝鮮で作られた由緒ある鐘であることが分かり、1914年に国宝に指定されたそうです。正祐寺には現在、この焼け溶けた鐘とともに、その原型を復元した鐘も置かれています。
*11月5日に正祐寺に電話で確認したところ、焼け溶けた鐘は今は韓国で展示されているそうです。その後、11月23日に正祐寺に行ってみました。復元した鐘は玄関前に置かれていて、ほぼ全体を触ってみることができました。高さは 1メートル余、上の吊り手の部分が竜頭になっています(球をくわえ、右足裏が上を向き、左足裏は下向き)。正面には銘板らしきものがあり、そこには天禧三年という字も書いてあるそうです。両側面にはくっきりと浮出した仏像のレリーフがあります(対称的ではありませんが、一対になっているようで金剛力士を表しているのかもしれません。それぞれに菩薩のような、渦巻き状の何かに乗ったような像が付属していました)。下部のほうには、当然ですが、ピースおおさかで触った焼け溶けた鐘のレプリカと同じような浮出しの文様を確認できました。
その他、触れることのできた物としては、長柄橋(ながらばし。淀川に架かる橋の一つで、45年6月7日の空襲で、長柄橋の橋の下に避難した人々400人以上が、橋を直撃した爆弾と機銃掃射のために亡くなる)の橋脚の銃撃跡(20×30cmくらいの楕円形にえぐられていて、中には大きないくつもの礫が飛び出している)、敷石に落ちた焼夷弾の痕(直径7cmほどの円が微かに触って分かる)、焼け焦げて炭になった木材、爆撃でやられたような車輪やぐにゃぐにゃに曲がった鉄材のようなのがありました。
触れることはできませんが、戦前大阪随一の繁華街だったという戎橋筋界隈の空襲の惨状を示すジオラマ、戦時下の民家の居間や防空壕の模型なども展示されていました。1928年6月、日本で最初の防空演習が軍官民共同で大阪で実施されたそうです。各戸には、防火用水、火たたき、バケツ、防空頭巾が備えられ、頻繁に防空演習が行われいわゆるバケツリレーも何回となく練習されたようですが、B29の編隊による絨毯爆撃には、もちろんまったくと言ってよいほど役に立たなかったでしょう。しかしこのような民間人をも巻き込む都市への無差別といえる空襲は、日本軍もすでに中国の上海・南京・重慶で行っていたものです。
展示室B「15年戦争」と展示室C「平和の希求」には、とくに触れられるようなものはありませんでした。
15年戦争は、満州事変のきっかけとなった1931年9月18日の柳条湖事件(関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件)から、32年3月の満州国(清朝最後の皇帝溥儀を執政として建国した傀儡国)の設立(後に「王道楽土」のスローガンのもと満蒙開拓団や青少年義勇軍が送り込まれた)、日中戦争の発端となった37年7月7日の盧溝橋事件(北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した事件)、当時植民地だった朝鮮の人々への皇民化政策や創氏改名、41年12月8日の太平洋戦争開始、42年6月のミッドウェー海戦での敗北、43年5月のアッツ島玉砕、44年7月のサイパン・グアムの陥落、同年末からのB29による主要都市への空襲、45年3月末から6月の沖縄戦、8月6日と9日の広島・長崎への原爆投下、そして8月15日の敗戦までの、足掛け15年の長期にわたる戦争です。展示室Bには、このような15年戦争を跡付けるように、中国・朝鮮・満州・太平洋地域・沖縄・広島・長崎などのコーナーがありました(私の印象に残っているのは、原爆の高熱で溶けて小さく固まってしまった板ガラスやガラス瓶、マリア像などです)。
展示室Cでは、第二次大戦後も今日まで世界各地で起きている紛争や局地戦についていろいろ紹介されているようでした。とくにパレスチナ関係の展示が多かったです。また、「運命の日の時計」とかいうのが展示されていて、その時々で核戦争何分前かが示されているのですが、たいして根拠もなくただ脅かしているようで、あまり良い展示とは思いませんでした。
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◆高木静子さんの語り
高木さんは17歳で被爆、現在すでに80代半ばになっていて、入院することもしばしばのようです。8月5日のその日も、病院から直接この講演会場まで来られたようですが、声にもいつものように張りがあり、またその態度と言いい、そこから溢れ出してくる精神のようなものと言い、なにか気品のようなものを感じました。高木さんの語りは1時間近くあり、科学者を思わせるような冷静かつ客観的な語り口の中に、時々切々たる訴えのようなものもしみ出してくるというような話しぶりでした。すっかり時間が経っているので、高木さんの語りを十分に再現することはできませんが、その著書
『ヒロシマを超えて 非核平和に生きる』 や、高木さんから直接うかがった話なども参考にして以下にその概要を紹介します。
高木さん(旧姓は伊藤さん)は、1945年8月6日、爆心地から1.7kmの距離にある広島女子高等師範学校の木造校舎の2階で被爆します。その年、高木さんは大阪府立阿部野高等女学校を卒業して、新設の広島女子高等師範学校(全国で3番目の女高師)の理科(生物専攻)に入学します。当時、女の子が理科に進むというのはずいぶん珍しいことでした。でも高木さんは小学5年のころから、理科が専門の受け持ちの先生の影響もあって、理科、とくに生物に憧れ、両親の反対を押し切るかたちで、新設の女高師の理科に進むことができました。でも開校は遅れて、ようやく7月初めに広島に出てきて(大阪はそのころは繰り返される空襲で大部分が焼け野原となっていましたが、広島はまだほとんど空襲を受けていなかった)、7月末に待ちに待った授業が始まって間もなくの時でした。
その時、高木さんは原爆の閃光を見、崩壊した校舎の下敷きになります。そこからなんとか這い出して、学友に連れられて吉島飛行場まで行ってそこで防空壕に入ります。何度も意識を失いながらも死体の中から這い出そうとしているところを航空兵に救われて、命を取り留めます。首から上38箇所、全身60箇所にガラスが入るなどして傷を負います。そんな体で、なんとか学校にたどり着き(理科の先生がこれは原子爆弾だと言う)、そして1週間後ようやく大阪の我が家にたどり着きます。そのオバケのような顔を見て、妹は泣き出し、お母さんも声が出ないほどだったそうです。その後も長い間、身体のあちこちの傷が化膿しケロイドになります(左耳の聴力は失われます。また35年後、ケロイドになった首の深い傷を手術してみると、大きな頸静脈が切れていて、中から石粒が出てきたそうです。そして手術した先生が、よくこれで生きてこられた、あなたは不思議な方です、と言ったそうです)。そして、しばしば起きられない日々が続きます。
それでも高木さんは女高師に復学し、生物や化学、ドイツ語なども学んで、教員資格を取って卒業します。でも、その顔のケロイドを見た子供たちの反応からして、教員として生徒の前に立ち続けることはあきらめます。運よく、阪大医学部に新設された公衆衛生学教室に助手として入ることができます。そこで医師国家試験を受けたばかりの高木昌彦さんの下で仕事をするのですが、しばしば発熱し、また常に白血球の数値が低くて貧血気味で、思うように研究に専念することはできなかったようです。その高木昌彦さんから思いがけず結婚を申し込まれます。旧家である高木家は猛反対、それに来年の命も定かでない自分の身体のことを考えると…、その間に昌彦さんは肺結核になったりして、ようやく4年半後、1954年に結婚します。そして数年後男児、その2年半後女児誕生、被爆者ゆえの心配もしますが、子供たちはそれなりに順調に育ちます。
高木静子さんは、他の多くの被爆者同様、長い間「もの言わぬ被爆者」でした。静子さんよりも早く、夫の昌彦さんは被爆者救済医療に携わり、また非核平和のための哲学と理論を求めて研究していたそうです。静子さんが被爆者の運動に参加するようになったのは、1964年に京都と大阪で開かれた第10回原水爆禁止世界大会からで、その時も夫に背を押されて参加したようです。翌年、大阪市にも原爆被害者の会が発足します。静子さんも入会しますが、当時は会に参加する婦人の姿はほとんど見られなかったようです。
被爆婦人として、高木さんが原爆被害者の会で本格的に活動するようになったのは、爆心地からわずか500mの所で奇跡的に生き残った三浦一江さんの、貧血がちの中2の娘さんが言った「どうしてお母さんは、被爆者なのに私を生んだの」という言葉が大きなきっかけになったそうです。高木さん自身も 2児の母として折々に放射能の影響に怯えながらの子育てだったでしょうし、なによりも母親として、自分の産んだ子供に責任を感じ、ときには罪意識のようなのを持ったことでしょう(私の母も、先天性の目の見えない子を産んだことで、そのように感じていました!)。自分の身体の苦痛とともにそのような深い心の荷を負った人たちをそのままに放ってはおけなかったのだと思います。1967年9月に「被爆婦人の集い」を結成し、さらに大阪市立社会福祉会館の館長の理解と大阪市民生局の協力を得て、1969年1月に福祉会館内に「原爆被害者相談室」を開室することができました。高木さんは相談室の相談員として、また大阪市原爆被害者の会事務局長として、その後40年近く活動を続けます。
さらに高木さんは国連など海外でも活動するようになるのですが、そのきっかけは、1974年の暮れ、母校の阿部野高校で英語教師をしている平塚先生からの電話でした。それは、その年入学し先生が担任をしていた峯君(母は長崎の被爆者)が白血病を発症したというものでした。峯君は翌年の8月6日に亡くなってしまいます(それは、高木さんが相談員になってから10人目の被爆2世の死だったということです)。峯君のこの被爆2世の実相を平塚先生に英語で書いてもらい(「Death of a High School Boy」)、その資料や「被爆婦人のつどい」についてまとめた英文資料を携えて、1975年11月、核兵器禁止国連要請国民代表団の一員として渡米します。その後も、国連をはじめ、イギリスやデンマーク、後には夫の昌彦さんが大阪大学退官後医療・調査活動をしたカザフスタン(
カザフでの実践――高木昌彦さん )などにも行って、被爆婦人の実情、平和への願いを訴えます。そしてもちろん国内では、相談員としての活動をしながら、他の被爆婦人とともに、各地の小・中・高校・大学やいろんな集会で語り部として活動し続けます。
2003年、高木さんにとって衝撃的なことが起りました。名古屋にいる 4歳のお孫さん(被爆 3世)が、小児性白血病に罹りました(早期の治療が功を奏して、今は寛解しているとのことです)。自分自身が広島で被爆した影響が、世代を超えて表われたという事実は、高木さんにとってとても大きなショックでした。それは、科学的に因果関係として証明できるような事実ではありません(逆に、科学的にまったく関係ないこととして完全に否定することもできない)が、高木さん本人にとっては、心をえぐるような事実なのです。
昨年の福島第一原子力発電所事故では、多くの人たちが生活の基盤を失い、いつ終わるとも知れない心身の苦痛・不安を負ったままです。このような事故=事件を起こしてしまったことについて、高木さんは被爆者として責任を痛感し、耐え切れないような気持を持っておられるようです。核兵器ばかりでなく、ウランやプルトニウムなどの核燃量、さらには放射性廃棄物が、最終的にどのように扱ったら良いのか分からないまま、すでに大量に蓄積されています。核実験(1945〜1998年に世界で約2000回)の被害者、原発や廃棄物処理関連の多くの事故の被害者の証言もいろいろあります。そういう歴史から私たちは何も学ばず、すべて忘れてしまっている、と高木さんは言います。私たちは、歴史から学び、それを未来につなげなければなりません。そのさい、知性による合理的な判断とともに、歴史の中で被害に曝され弱い立場にある人たちに共感する力も大切です。そういう感性が、実際の活動を推進する力にもなります。
*11月23日、短時間ですが高木さんにお会いしました。ちょうど1つの手術を終え、次の手術に備えて退院しているところでした。別れ際に高木さんが話された、「このように医療がとても進歩したけど、それと同じくらい、大量破壊[の可能性]も進んでしまった。すべて歴史を忘れているのよ」という言葉が印象的でした。
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(2012年11月6日、2012年11月27日更新)