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ぬるりと、肌を汗が流れていく。そこをすぐに冷たい晩秋の気が撫で、ぞくぞくと闇に引き込もうとする。 息苦しさに喘ぎながら見上げると、そこには明かり取りの天窓がある。土壁を丸くくり抜き、朱に塗られた格子を入れた造形はここの場所には似つかわしくないものだと夕(ゆう)は思っていた。 「あ…っ、ああっ…!」 「いい声だな、もっと鳴きな。いんや、もっと鳴かせてやるかな…」 「うっ…、くっ…。は…ぁ…っ!」 透けるように白い肌、銀の髪、碧の瞳…古より神に近い民とされ、それだけに抱けば己が身が浄化されるとうたわれる身体。激しいせめに揺れる豊かな胸の頂は「遊女」と呼ばれる身の上にはふさわしくないほど淡い桜色をしている。それが欲情に晒されて微かに色を染める。そこに浅黒い男の無骨な手が入り込む。 「そっ…んなに…喰わえ込むなって…イっちまうだろうが! 女子(おなご)の肌は久々なんだ、大枚をはたいたんだから、もっともっと楽しませてくれや…」 そう言いながらも、男の方はもうギリギリといった感じだ。もう一息かも、と夕は腹の隅で思う。久しぶりならそんなに我慢がきくはずもない。男は腰の動きを止めると、そのまま夕の身体を引き寄せた。胸の弾力を味わうように大きく揉み、頂を嬲る。 「いっ…いやああっ! そんなにしたら…、あっ、ああん…っ! ううっ…ふっ…!」 「聞いたとおりだ…すげえ身体だぜ。内側からはこれぞとばかりに締め付ける、肌は滑らかで楚々とした顔つきで…なのに身体はこの通りで。たまんねえなっ…」 男の手が感極まった感じに這い回る。夕は吐き気がこみ上げるのをぐっと堪えて、快感の場所を確かめようとした。荒い呼吸の隙間から、絶えず甘い声を上げ、そっと薄目を開けてそこを見る。 丸い天窓。この部屋に押し込められた日常。目の前の障子は見てくればかりで、開けることが出来ない。それどころか表からは人の背丈より高く垣根が巡らされ、もしも開けることが出来たとしても、外に出ることは不可能だ。籠の鳥。あの丸くくり抜かれた風景だけが、外界と夕とを繋ぐもの。群青の闇に黒々とした夜の気が流れている。 「あっ…あんさんっ…! あたし、もうっ…!」 春を買う男は。皆、女子を我がものにしようとする。女が自分の言いなりになって、喘ぎ、乱れていく姿に征服欲を満足させるのだ。一時だけの花。そこに情も湧くことはない。だから美しく堕ちていけばいい、全てがあなた様の為すがままですと、演じていればいい。 それを知るまでにここで4つの季節が巡った。去年、床の間に飾られたのと同じ花が活けられているのを見て、それを思う。その隣りにじじと音を立てて、燃えている赤い蝋燭(ろうそく)があった。 ――火が燃え尽きるまで。 それがこの宿の約束事だ。それまでの間、客は女を抱くことが出来る。でも…そのほかにも様々な約束事があるのだが、「道行き様」である今夜の客にそれを告げる必要はないだろう。 「道行き様」とは、旅の途中にこの宿場町に立ち寄った者たちのことを言う。ある者は行商のため、ある者は出稼ぎ夫の任に就くため…道なき道を旅する者たち。夕などは客の話でしか知らないが、ここから数日は野宿も必要な山道だと聞く。そのような荒んだ旅路に忽然と現れた宿場で春を買うのは、男たちにとって何よりの慰めになる。 …だから…、夕に出来ることはひとつだ。そのためにここに売られてきたのだから。 「ああっ…! ああああっ…っ!」 男が、くっと呻いて果てる。その全てを内壁の奥に受け止めて、夕はしとねに崩れた。
………
この男は旅路ですれ違った者から、夕の話を聞いたらしい。そうは言われても、客の顔を思い出すことも不可能だ。今は秋の深まる前で、旅の客が多い。昼から、3人4人と客を取らされることすらある。何しろ、遊女としては最高の格と言われる生粋の「西の集落」の娘。透ける肌に銀の髪。儚げな口元は花色に染まり、碧の瞳は男の全てを魅了する。 海底の世界は竜王様がお造りになる「結界」に守られた大小様々な集落が集まって形成されていた。夕のいる宿所は「西南の集落」の北にある。その先が獣道と言うだけあって、ここに集まる男たちの女子の肌に対する飢えと執着はすごい。この地を満たしている「気」と呼ばれる空気よりも重いねっとりしたものよりもずっと、男たちの行為は粘着質だ。 「…畏れ…いります…」 「待てよ」 「あっ…、駄目ぇ…っ!」 「いやっ…、駄目っ…! もう、時間ですっ…それに…」 「おお、おお、ここだ。…なんだ、嫌がってんのは、上の口だけかい? こっちは、もう俺を締め付けてくるぜ…すげえ…」 「あっ…、ああああっ!!」 「いっ…いけませんっ…! あのっ…二度目は…ああっ…!」 「ふん、知ってるぜ。別に銭を払えっていうんだろ? なにさ、そんなこと、あんたが黙っててくれたら分かんねえだろうがっ! あんただって、こんなに楽しんでるんだ、ちったあ大目に見てくれんだろ? ほらほら、もっと鳴けっ! もっと、もっとだ…!」 男は泣きながらも淫らに反応する夕をなおも突き立て、果てた。女の細くて長い声が狭い部屋に響き渡るのを他人事みたいに聞く。夕の脳裏にも何かが強く打ち当たって壊れていった。
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そこには小太りの中年の男が正座していた。藍色の衣。上に着た小袖には庶民の刺し文様があり、袴もやはり藍色で無地だ。洗いざらしでそんなに高価なものではない。客人より高価に飾っていたら反感を買うことを十分に計算しているのだ。 「旦那様…どうでしょう、お楽しみになられましたか…?」 「ああ…こんなに楽しんだのは久々だ。親父、いい客取りがいて繁盛するだろ?」 「…いけませんねえ、旦那様。お楽しみになられたのなら、相応のものを置いていって頂きませんと…」 「なっ、何のことだい? 代金は前払いで納めたろ? 酒だって、規定の分しか呑んでねえし…」 …また、だわ。 毎度のように繰り返す戯れ言。この店主の毒牙にかかって逃れた者などいない。今は遊女小屋などをしているが、若いうちはそうとうな食わせ者で、この界隈では恐れられていたと聞く。 「ね、ねえちゃんっ! あんたからも言ってやってくれよ? 俺は余計なことをしてねえって…」 …馬鹿な男。 「こっちも商売なんでね。店の女をただ働きさせられちゃ、商売上がったりでさ…分かってんだろうなあっ!」 えげつない男。信じられない。夕はたくさんの苛立ちを身体に浮かべたまま、湯屋へと急いだ。
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「…ふう」 外では気が乱れているのだろう、がたがたと開かずの障子が揺れている。その向こうの垣根の枝がせわしなく右へ左へなびいている。夕は数枚の赤い葉を口の中で噛んで、飲み込んだ。ハッカに似た味が口に残る。 「…ご苦労さんだな」 「はあ…」 「お前さんには、本当に助かってるよ。…いい女だ…さっきの男を見たかい? 滑稽だったなあ…」 ぐっふっふとがまガエルのように喉を鳴らす。そのまま腰を下ろす仕草をしたので、夕は慌てて、敷物を差し出した。部屋の隅に置いてある酒の瓶から器に注ぎ、差し出す。店主はそれを上手そうに煽った。 夕はちらと天窓を見上げた。その向こうの景色で今がどれくらいの夜かと考える。客を3人取って、それだけでもだいぶ夜が更けただろう。店主がここにくつろいでいると言うことは、泊まりの客もほとんどが部屋に入ったと言うことだ。 …店主が、夕だけに法外な値段を付けているからだ。それはほとんどの場合、買うことが出来ないほどの。上玉である夕をそう言う風にするのは合点がいかないかもしれない。しかし店主から見ればそれでいいのだ。 「こっちへ、来い」 店主は夕を後ろから羽交い締めにすると、ぬうっと腕を着物の袷の中に差し込んだ。 「あっ…、ああっ…!」 「…親父様っ…、まだ、お仕事が…」 店主が、夕に法外な泊まりの値段を付けるのは…それは夜半、夕を我がものにするために客を取らせないためだ。務めがどんなに激しく辛いものであろうと、容赦ない。夕は店主に夜な夜な組み敷かれ、むさぼられた。この屈辱にすれば、客の相手など容易いことなのである。 「親父様…っ! いやぁ…! ああう…!」 先の客人も知らないのだ。店主は夕が客を取るとき、ふすまの影にそっと身を寄せている。そして客と夕とのやりとりを全て聞いているのだ。最初は商売のためかと思った、でもそれだけではないらしい。それが店主の悪趣味であると知ったとき、夕は生まれてきたことすら、恨んだ。
表で物音がして、店主の手が止まる。 「…何だ、今頃。物乞いか?」 それでも一応は戸口に向かう。それぐらいの商売根性はあるらしい。今日、客がもう取れなくても、明日の予約を取ったりする。客は女が抱きたいのだから、少しぐらいの悪条件でも飲むのだ。そのためには旅が1日遅れることも厭わない。さらに、客が滞在すれば宿場も潤うのだ。 「…ちょっと、待ってろ」 夕はふすまが閉まるのを確認してから、慌てて部屋の隅に行き、湯桶に浸した手ぬぐいで店主が触れたところを残らず清めた。一刻でも早くそれを行わないと、そこから身体が腐ってしまう気がする。 …悔しかった。 死んでしまいたいと何度も思った。しかし、そのたびにすぐに見つけられ、脅された。お前にはたくさんの借金が付いている。それを返さずにどうするか。そんなことをしてみろ、お前の親兄弟をさらし者にしてやってもいいんだぞ。…そう言いながら、店主は夕をいつもよりもさらに辱めた。
………
「おい、夕っ!」 「は…?」 「『岡様』がお泊まりだ。…粗相のないように心してお仕えしろよ」 「え…!?」 夕を抱けぬのだ、他の女子を見繕うのだろう。もう50に届こうという年齢でありながら、店主は未だ精力的で夜な夜な女子を抱く。そのために遊女小屋をしていると言ってもいいほどに。
「岡様」…まさか。 夕の脳裏にひとつの顔がすうと浮かび、すぐに消えた。
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