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「岡様」とは、「道行き様」と対にして使われる呼び名だ。旅の宿を取る者が「道行き様」ならば、「岡様」は…この土地に住んでいる地元の客だ。宿場を中心にして、この界隈には十いくつの小さな町や村があった。 何時訪ねてくるのか分からない旅の客に対して、月に何度か定期的に店に足を運ぶのは上客で、店主も喜んだ。
……… 夕はまた天窓を見た。自分の中に湧いたほのかな期待をかき消すように。望んではいけない、だって、自分はそのような身の上ではないのだから。買ってくれる客に抱かれ、店主の好きにされる。そのために生まれてきたと思わなかったら、ここでの生活には耐えられない。 しかし、先の店主のものとは全く違うやわらかい足音が近づいてくると、もうたまらずにふすまの所まで駆け寄っていた。 「…夕」 その人は、小さく名を呼ぶと足早に部屋に入り、ふすまをぴっちりと閉めた。薄青の小袖にぱりっと手入れをされた袴を履き、薄茶の髪はこざっぱりと上の方でまとめられていた。 「…木根(キネ)様っ…!」 「木根様っ…木根様…! お会いしたかった…!」 「すまなかった、寂しい思いをさせたな…夕…」 「…ね、木根様っ…!」 「早く、抱いてっ! あたしを木根様でいっぱいにして…!」 「そんな、急がなくても…今日はずっと一緒にいられるんだよ? ゆっくり話でもしよう…」 「…やっ…! そんなの、嫌っ…!!」 夕は聞き分けのない子供に戻ったように、何を言われても首を横に振った。木根の顎の辺りが少しこけた気がする。務めが忙しいのだろうか? だからなのだろうか…? いつもは月に二度は訪れていた足が遠のいていた。一月以上経っているかも知れない。あまりの悲しみに途中から日を数えるのもやめた。 「夕…っ!」 「困った子だね、お前は…」 「うんっ…」 「恨み言なら…何でも聞くのに…」 「…木根様が、来てくださったから…それでいいの…」
…同じなのに…。
他の客人であれ、この男であれ。夕を前にしてすることに大差ない。あのおぞましい店主にしても。それなのに、夕は他の者が決して起こすことのない波を、木根に感じる。しっかりはまった鍵穴と鍵のように、抱き合うたびにこの人しかいないと思ってしまう。…どうしてなんだろう、そんなことは考えられない。それでいい。 このひと月は、いつもに増して人恋しかった。早く会いたかった。それなのに、運命はまるで夕のそんな想いを見透かしているように意地悪する。木根をここによこしてくれない。 「あっ…、あんっ、…ああん…!」 耐えずに花色の口元から、甘い声が漏れる。決して作っているわけではない、腹の中から湧き出る音色。甘美な酔いの中に吸い込まれていく。最初はためらいがちの愛撫を繰り返していた男も、同じ波に巻き込まれていく。夕の銀の髪がうねり、男の腕を引き留める。 口づけられて、やわらかく揉みほぐされて。夕の身体が息を吹き返す。死人のように息を潜めていた細胞の一粒一粒が鮮やかな音を立てて弾けていく。沸き立つ生命の息吹に白い肌が染まっていく。その上をさらに滑る手のひら。濡らす舌。 しばらくは熱い息づかいだけが、狭い部屋を支配した。
………
夕は8人兄弟の5番目だった。上には兄と姉がふたりずついる。ふたりの兄は幼い頃から両親を手伝って畑仕事をしていた。一方、女子である夕や姉たちは山に薪やかやを集めに行き、木の実を取った。染料になる木の皮を剥いてくることもあれば、珍しいきのこを葉の陰で見つけたりもした。しかし、子供の手でどんなに懸命に行ったところで、男手には敵わない。 上の姉も次の姉も10になると隣村の庄屋に奉公に出た。だから夕もいずれはそうなるのだと思っていた。姉たちがいなくなったのは寂しかったが、年に二度は暇を頂いて戻ってくる。懐かしさのあまりにまとわりつくと、少し痩せた身体が痛々しかった。顔色も良くない。でも姉たちはにこにこ笑って夕を自分の布団に招いてくれた。甘い香りがして、嬉しかった。 夕は奉公には出されなかった。庄屋ではもう手は足りていると言われてしまったらしい。姉たちの報告を聞いて、両親はとても困っていた。灯りを消した囲炉裏端で、熾き火にゆらゆらと顔を染めながら、ふたりがいつまでもぼそぼそと何か話し合っているのを布団の中から聞いていた。 あたしも…逞しい身体や、太い腕が欲しかった…。 働きの悪い我が身を始終恥じていた。夕は日中、近所の子供たちの世話をするくらいしか仕事がなかった。細い力無い指では作物を摘み取るのもおぼつかない。夜、布団に入っても涙が止まらなかった。両親にも申し訳なくて仕方なかったのだ。
そんなある日、見知らぬ男が村にやってきた。きらびやかな装束に身を包んでいて、目がくらむかと思ったほどだ。頭には不思議なかたちの烏帽子を被っていた。その者は村中の家を一軒ずつ周り、大人たちに話をしていた。もちろん、夕の家にもやってきた。どんな話がされたのかは知らないが、その晩、両親は空が明けるまで何か話し合っていた。 そして、翌日。夕はその男に連れられて村を出ることになったのだ。 「奉公先を、紹介してくれると言うからね…」 「お務め先のご主人様の言うことをよく聞いて、よく奉公しなさい」
男は夕を連れ、その後も近隣の村々を回っていった。そして、その先々で何人かの女子を預かる。その数が10人を越えたとき、男は「出発する」と言った。 山をいくつも越え、半月ほどの道のり。野宿同然の状態で休むことも多かった。民家に身を寄せることもあった。そう言うときに不思議なことが起こる。もう寝ようと言う時間になると、夕たちをまとめているあの烏帽子の男が幾人かの女子を呼ぶのだ。そして、その者たちは夜が明けるまで戻らなかった。 不思議なことがたくさんあったが、それでも広い街道にある宿場に着いた。そこで烏帽子の男はいくつかの店や宿を回りながら、そこの店主と話を付けていた。そして、話がまとまると幾人かずつ女子を渡していく。最後は最初のように烏帽子男と夕のふたりだけになっていた。 同い年くらいの娘たちとの旅もあまり記憶に残らなかった。皆、無口に下を向いていることが多く、夕が何かを話しかけても、ぽつりぽつりと答えるだけ。すぐに会話が途切れた。家族の話をすると、本当に辛そうな表情になる。だから、段々そのような話も避けるようになっていった。同じような背格好の可愛らしい顔の子たちだった。とは言っても、どんな顔だったのかも今となっては記憶にもおぼろだが…。
「あんた、新入りね」 「こっちですぜ、兄貴…」 年長の女が去った後、ひとりで待っていると、程なくして聞き慣れた烏帽子男の声がした。どかどかとこちらに向かってくる足音はふたり分。夕は慌てて立ち上がった。 「ほお…」 部屋に入ってきたのは、小太りの初老にも中年にも見える男だった。烏帽子男に比べると簡素な服を着ていたが、ふたりのやりとりを見た感じでは確かな上下関係が形成されているらしい。 男は夕を見ると嬉しそうに笑った。口元をくっと上げて、そこからちらと見えた舌で分厚い唇を舐めた。 「こいつは…上玉だ。おめえにしては、いいのを見つけてきたな」 「へえ…、兄貴。ちっぽけな農村には似つかわしくないべっぴんがいると聞き及びまして、足を棒にして出向きましたぜ。ひとめ見た途端、こりゃ、兄貴に必ずお届けしようと。…実はね、そこら中でこの娘を所望されたんですわ、でも渡したりはしませんでしたわ。だって、そうでしょう。俺は兄貴に一番世話になっているんですっから…」 「…ふうん」 「で、岩。そんな風に言っといて、実はお前が宜しくしてんじゃないだろうね。…手癖の悪さでは右に出るもんがないと言われているからな…」 「め、滅相もない!」 「酷いですわっ! とんでもない言いがかりです。兄貴、だったら、試してみてくださいよっ…俺だって、据え膳はたまらなかったんですっから…信じてくださいよ〜」 ふたりのやりとりが不思議で仕方なかった。分からない言葉がたくさんある。でも、それよりもこの主人は夕のことを気に入ったらしい。それならいいと思った。意に添わずに追い返されたらどうなるんだろうと不安だったから。夕は出来るだけの笑顔を作って、こちらを見た男に頭を下げた。 「…宜しくお願い致します。頑張ってご奉公します」 「おお、…おお…」 「…じゃ、兄貴。俺は、下がりますぜ…また」 烏帽子男はさっさと行ってしまった。もう話は済んだのだろうか。これでいいのだろうか。ぼんやりしたまま閉められたふすまの方を眺めていると、男がどっかりと上座に移って座り、夕にも座を勧めた。 「遠いところをご苦労さんだったな…」 男はぶわっと感情を噴き出したような顔で夕に向かった。何故だか、辺りの気までがおぞましい色に染まっていくような気がする。これ以上、この男に近寄ったら、それに飲まれてしまう。怖い、と思った。 夕が青ざめたまま、そちらを向いて身体を固くしていると。男はずるずると酒の道具を並べた盆を引き寄せ、自分で器に注いでぐいっとあおった。白いものがたくさん混じった青黒い髪。赤らんでくすんで茶色に近い肌。その時はあまりにもそれが奇異に思えた。 どくどくと波打つ胸。どうしたらいいのか分からない動転した状態の夕をちらと見て、男は言った。 「俺は、この店の主だ。お前は今日からここに置く。店の女どもは俺を『親父様』と呼んどるから、お前もそう呼べばよい…」 「…お…親父様…」 「注げ。これから客を接待する手順を教える」 男…店主は少しぞんざいないい方になって、とっくりをこちらに差し出した。夕は慌てて膝を進めると、それを両手で受け取った。 「ほう…綺麗な肌だ。俺も生粋の西南の女子を見るのは久しぶりだが…美しいものだねえ…」 そして。次の瞬間――ふたりの間にそれがごとりと落ちた。 「…ひっ…!」 「あ…、何をっ!? …やあっ…!」 ぐるりと身体を仰向けにされる。店主が自分に覆い被さっているのが分かった。抵抗する暇もなく、着物の前をぐっと開かれる。あまりの出来事に必死で身をよじり、逃れようとした。 「何をなさるのですっ! やめてっ…、やめてくださいっ!!」 恐ろしかった、どうしてこんなことをするのか。夕には男と女の秘密など、全く知るものではなかった。店主は自分を殺めようとしている、本気でそう思った。だから、涙声で叫んだ。 「…静かにしろっ!!」 「お前は俺が買った女だ、俺の言いなりになるのが当然なんだ、つべこべ言うんじゃねえっ!!」 「…っ、やあっ! やっ…! 触らないでぇ…!!」 「うっせえんだよっ!!」 ぱあんと、頬を叩かれた。じいんと熱くなって、視界も霞む。そのすぐ側で、男の分厚い唇が動いた。 「ははん…、おめえ…閨のことも何も知らんな? ぐふっ…そうかい、そうかい…じゃあ、教えてやらないとなっ…! 岩の奴の言ったことは本当だったのか…あいつも可愛い奴さ…ふふ…」 「…いっ、いやあああああっ!?」 帯の結び目に店主の手がかかったとき、もうこれ以上は嫌だと、叫んだ。嫌だ、こんなことっ! 絶対に嫌っ! 誰か、助けてっ…さっきの女の人は? どこにいるの!?
その時。 すううっと、ふすまが開いた。夕はゆるゆると首を向けて、そちらを見る。そこには若い男がひとり、立っていた。初めて見る顔。立派な身なりで、優しげな顔だち。涼しい緑の瞳が優しく夕を見つめる。烏帽子の男とも、店主とも全く違う人種だった。
夕も突然の人影に驚いたが、それは店主も同じだったらしい。今までのあの勢いもどこにやら、しばらくは言葉もなく、呆けた顔で男を見つめていた。
Novel Index>扉>暮れぬ宵・明けぬ夢・2
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