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やがて店主はしぶしぶと言った様子で、身体を起こした。着物の前を合わせながら、夕から離れる。夕もそれに続いて起きあがると、乱れた髪をなでつけ、すすと身なりを整えた。まだ胸は高鳴っていたが、荒い呼吸の中に安堵の音が混じった。 「これは…あの、伊坂屋の…若旦那じゃないですか。どうしました、こんな店にいらっしゃるなんて…」 「前を歩いていたらね、尋常じゃないほどのあまりに大きな声が聞こえたもので…何事かと声を掛けてみたんだけど。誰も出てこないし、どうしたのかなと」 「あ、いや…お恥ずかしい…」 「この者が、今日連れてこられたばかりの新入りでね。何も知らない未通女(おぼこ)ですから、こんままじゃ商品にならないんでさ…自分がしつけていたとこなんで…へへ」 「そう」 「大目に見て下さいよ、旦那…」 「…待って下さい」 「それでは…その女子、今夜は私が買いましょう? それでいいですか?」 「へ…へえ…?」 「伊坂屋さんが、…ですか?」 「うん」 店主はしきりに首をかしげている。しかし、すくっと立ち上がると、若者を促すように部屋の外に出る。そして、元のようにふすまが向こうから閉まった。
………
…どうしよう。 何がなんだか、分からない。さっきの店主も怖かった。もしかしたら、臓物をえぐり取られるんじゃないだろうか? 生きたまんま、二度と里に戻ることも出来なくて。あたしはこの先、どうなっちゃうんだろう…。 恐ろしくて、恐ろしくて。涙が止まらない。その一方で、先ほどちらとだけ見た若者のことも気にかかっていた。優しそうな人。着物の感じから見ると、裕福な暮らしをしているお方なのか? 店主の対応も丁寧であった。あのとてつもなく恐ろしい思いの後に現れた人だからか、まるで救世主様のように見えた。
「…大丈夫?」 「…あ…」 若者はそんな夕をなじるようなこともなく、膝を付いて傍らに盆を置くと、すすと進んできた。そして、黙ったまま夕の近くに腰を下ろす。手に届くところに夕の流れた髪があるのに、それに触れることもなく、ふっと微笑んだ。 「…可哀想にね…」 「君、どうしてここに連れてこられたのか、知らないでしょう…?」 暗号のような言葉を耳が辿る。それが波だった胸にしっくり入り込むまでに、いくらかの時間がかかった。 …知らない、本当に。本当に、知らない。夕はこくんと頷いた。 「…そう」 「君…、名は? 何というの?」 「え…」 急に話の流れが変わったので、夕はどうしたのかなと思った。その後で、じわじわと今までの違和感が解かれていく。そうなのだ、烏帽子男は夕を「西の娘」と呼んでいたし、店主に至ってはいきなりあんな行為に及んだ。誰も夕の名を聞こうとしなかったのだ。
「あのね、私にも妹がいて」 何を思ったのか。若者はさらに話を巡らしていく。夕はその流れに付いていくだけで精一杯だった。 「私の家は両親が流行病で亡くなって、妹とふたりで残されたんだ。本当はふたりでいたかったけど、そう言うわけにもいかない。それぞれに別に家に奉公に入った。私がお務めしたのが今もお世話になっている『伊坂屋』と言う反物屋で、妹は大きな農家に貰われていったんだ」 男の視線が、つっと移る。その先を夕が辿ると、床の間の秋の花が飾ってあるのが目に入った。茜色の小さな花だった。 そう言えば、さっき店主はこの男のことを「伊坂屋の若旦那」と呼んでいた。だから、どこぞの商家の御嫡子様なのかと思っていた。…違うのだろうか? 夕がうっとりしてしまうくらいの上品な衣をまとっている。裕福に暮らしているお金持ちの家の人だと思った。でも、言葉遣いが丁寧で、夕にも優しい。だから不思議だった。身分のある者は下の者に対してぞんざいな物言いをすると聞いていた。 夕の視線に気付いたのだろうか。若者はこちらを恥ずかしそうに見ると、くすりと小さく笑った。 「私は、必死で働いた。もう寝る間も惜しんで。同じ使用人の立場である兄貴分の人たちの言うことも、店の旦那様方の言うことも残らず聞いて、粗相のないように頑張った。辛くて悲しいこともたくさんあったけど…そして、何年か経ってね、とうとう大旦那様が妹を呼んでいいと言ってくれた。こんなによく働く者の妹なら見込みがあるって。私はその日を待っていたから、喜び勇んで迎えに行った。今までも暇があれば会いに行ったけど、妹の暮らしは大変そうだったから。でもこれからは一緒にいられるって…でも」 思い出話に思いをはせていた瞳が、ふっと曇った。 「その時…妹はもうその家にいなくて。食うに困った家の人が…売ってしまったんだと近所の人から聞いてね…多分…今の君と同じくらいの歳だったと思う。それきり、何年も会ってない。方々を探したけど、とうとう見つからなかった」
――口減らし。 聞いたことがあった。貧しい農村で、子供たちが売られる。奉公に出るのではない、売られるのだ。そう言う者は二度と戻ってこられない。その代わりに家には法外とも言える金品が入る。数年は遊んで暮らせるほどの。 『お前は俺が買った女だ、俺の言いなりになるのが当然なんだ』 夕の身体をまさぐりながら、確かに店主はそう言った。…そうだったのか? 自分は売られたのか…!? そんなわけはない、あの優しい両親が、まさかそんなことを…っ!? でも。 あの朝の母の顔が脳裏をよぎる。何かをうち捨ててしまったような虚ろな……。 夕の中で、散りばめられた様々な場面がきっちりとひとつのかたちを形成した。
「いっ…! やぁっ…!!」 がらがらと自分の周りが崩れ落ちていく。建物も調度も…何もかもが…。いらない、と言われたのか。子供たちの中で、自分が切られたのか? どうして? …やはり働きが悪いからっ!? 鼻先にすえた畳の匂いがする。何を持っても消せない香りがこの部屋にはある。それを隠すようにむせるくらいの香が焚きしめてある。香を用いることが出来るのは王族だけなのに。どういうことなのか。夕は回らない頭でぼんやりと考えながら、身体をふたつに折ったまま、長い時間苦しく泣きじゃくっていた。
………
自分の中で、何かが崩れていったのを知った。 それは、今まで生きてきた世界への帰り道だったのかも知れない。とてつもなく恐ろしいことが待ち受けている、それも分かった。でも、もはや自分は逃れることが出来ないのだ。何を持っても。…ううん、何もないからこんな風に売られた。親にも捨てられた。 「名は…夕と申します」 「お話、ありがとうございました。もはや、覚悟は出来ております…あたしはもう…死んだも同然の娘。何があっても…もう、諦めて…」 そこまで言うと、またぼろぼろと涙がこぼれた。先の店主の暴力を思い出す。あんな風にされるのか。そう言えば、娘らしいふくよかな身体に変わってきた頃から、村人たちの夕を見る目が変わった気がしていた。よくは分からないが、何か色の付いたものを見るような嫌らしい目だった。 …世には。男たちが女子を買う場所があると聞いた。その意味は分からなかったけど…。 「…ああ…」 「可哀想に…」 長い指がやさしく髪を梳いてくれる。長い道中でたいした手入れも出来なかった。燭台の灯りに浮かび上がった艶も少し褪せている。それをとても愛おしいもののように男は扱った。夕の胸はじんと熱くなる。男の胸で小さく嗚咽を上げた。 …この人は。どこかに行ってしまった妹を想っているのだ。自分をその人と重ねて。 「あの…あたし。何をすればいいのでしょうか…」 一頻り泣いたら、すっきりとした。この男も自分を金で買ったのだろう。だったら、それ相応のことをしなくてはならない。店主のように無理矢理にされるのなら、自分の意志でそれに立ち向かいたいと思った。悔しいけど、それが唯一の自分の出来る道であった。 「え…あの…」 「いいよっ、…あのね、本当に…私はそういうことをしようと思ったわけではなくて…」 「あの…」 「わ、私は…本当に、こんなところに来たのは初めてで、お、女子のことも何も知らないんだ。ただ、一晩だけでも、君の心を落ち着けさせることが出来ればと思って…」 「君は、明日から、否が応でもたくさんの男たちの相手をしなければならない。だったら、一晩くらいは…ね。私は何も言わないから、だから、大丈夫だから…」 「若旦那様…」 「…夕?」 「明日からやらなくてはならないことなら、今日でも同じです。覚悟は出来ております…だから…」 じじ、と床の間で蝋燭の炎が揺れる。辺りの気が揺らいでいる。それに男の深いため息が重なる。背中に回された腕にぐっと力がこもった。 「あのね、夕…」 「男と女のことは…本当は辛いものじゃないんだ。愛し合う者なら当然の行為で…夕も心から好いた人が出来れば、自然にそう言うことを受け入れることが出来たはずだ。こんな風に…歪んだかたちじゃなくて…心の底から睦み合って、子を成すために…」 そう言いながら、男はまだ迷っている。夕にはそれが何故かひどく悲しかった。ここで突き放されたら、本当にひとりぼっちになってしまう。それは嫌だった。 「お願い…若旦那様」 「あたし、初めてなら若旦那様がいい。他の男は嫌…だから…あの…」 恥ずかしい、何を言ってるのだろう。どうしてこんな風にあられもない言い方を――。 男の目が細くなる。笑っているような泣いているような、複雑な表情。そのまま一度、ぐっと強く抱きしめられて、それから静かに抱き上げられた。 「…若旦那、じゃないんだ。私はただの番頭だから。遊女小屋の店主なんて言うのは、客を喜ばせるためにわざと大袈裟な言い方をするんだ。そんなの、私にとってはただ恥ずかしい限りなのだけど…」 「内々に…そう言う話も出ているのだけど、まだ決まったわけではないし」 そうなのか。 夕は意外な言葉に驚きつつも、その一方で喜びを感じていた。若旦那様、と呼ばれるなら奥方様のいらっしゃる方なのかと思っていた。でもそうではないのだ。この素敵な方は他の誰のものでもないのだ、夕がまだ誰のものでもないのと同じように…。
「ごめんね、私も…何しろ、初めてだから。きっとそんなに上手くできない…辛くさせてしまうと思う…」 「本当は…首から上は駄目なんだよ。遊女のそこに触れると、情が移ってしまうんだ…そう言われている」 そう言いながらも…男は、夕の頬に口づけた。そして、額。それから…桜色に色づいた口元に。熱い吐息が自分の中に流れ込んでくる気がして、夕は高まっていく自分の奥の未知のものを捉えようとしていた。 「お願い…本当の想い人にするみたいに、して。今夜だけ…」 恋などまだ知らなかった。夕にとっては霞のかかった夢の世界の出来事だった。でもいつかそれが自分にも訪れる、その日を夢見ていた。 でも。 もう、それは叶わない。売られてしまった女子はもう人としては生きられない。自分にとっては永遠に封印しなくてはならない想いなのだ。…でも。そんなのは、嫌。一度だけ、人として生きて、人として愛されたい。そして、それはもう今しかないのだ。 「…夕」 男の唇が夕の唇に重なる。ついばむようにしばし繰り返され、やがて深く重なり合った、淡く開いたその隙間から、やわらかいものが入り込んでくる。夕はただ、されるがままに従っていく。じわ、と舌の付け根から唾液が湧いてきた。男がそれを吸い上げる。夕はたまらなくなって、男の首に腕を回した。
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