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しかし、丁度半月が過ぎた頃、彼は再びやってきた。 店主に案内されて渡りをこちらに向かってくる。今日3人目の客、泊まりだと告げられた。その時の店主の夕を見る目が、ぞっとするほどの恐ろしさを含んでいる。意に添わぬ客。でも夕たちには横暴な態度を取る店主であっても、金を落としてくれる客をないがしろには出来ないのだ。
「…夕…」 「あ…」 「夕…? どうしたの?」 絶望の山を越えて、それでも会いたくて。姐さんの言葉にも頷けなかった。だって、木根様は又来てくださると言った。あたしに会いに来てくださるって。だから、待っていた。 …それなのに。 「夕、私だよ? まさか…忘れたの?」 「…夕?」 「…来ないで…、こっちに、来ないでっ…!」 しばらく間があって。木根は何も言わないまま、すっと身を引いた。手を伸ばしても届かない場所まで遠ざかって腰を下ろす。そして、夕の方を見ないように横を向いた。 「……?」 夕はこみ上げてくるものをもてあましながら、顔を上げた。視線の先に顔を背けた人がいる。ゆらゆらと高いところでひとつに結った髪が揺れている。この前と違う着物。でもやっぱり優美な色合いだ。そして、薄茶の髪にそれがとても似合っていた。 「木根…さま?」 黙ったまま動かない人。沈黙に耐えきれずに口火を切ったのは夕の方だった。木根はそれに応えて、端正な横顔のまま唇を震わせた。 「…夕が嫌なら側には行かないよ。だから、安心して。今夜はここで静かにしているから、夕もゆっくり休みなさい」 「…え…?」 また、沈黙が流れる。あまりの静けさに他の部屋の物音が聞こえてきたらどうしようと思ってしまうほどだ。夕は客の相手をしているときに痛みに耐えきれず、高い悲鳴を上げてしまい、手ぬぐいを口に突っ込まれたことがあった。 女たちが客を取るいくつかの部屋はそれなりに配慮されて音の響きにくい構造になっていた。それでも気の流れの澄んだ夜などは客待ちをしていると女の細い声が聞こえてくる気がする。空耳なのか本当なのかも分からない。でも恐ろしかった。 する、と夕が畳を膝でかすった音が部屋に響き渡る。木根の肩がぴくりと揺れて、背筋が少し伸びた。 「大丈夫だよ? …夕が嫌がることはしないから。休んでいなさい」 やわらかい口調、待ち望んだ声。 こんな風に話しかけてくれる人はいなかった。 普通、客は夕を見るなり、飛びついてべたべたと身体に触り、衣を剥ごうとする。飢えた野獣が獲物に襲いかかるように。勝手に盛り上がり果てていくその滑稽な姿を見送ってきた。身体に残る倦怠感以外には何も覚えていない。どんな客を取ったのかすら。 「木根…さま…」 「こちらの湯屋のおばあさんがいるでしょう? その人が用事があって私の店に来てね、話してくれたんだ」 夕は振り向かない背中をじっと見つめた。 「おばあさんが言っていた。夕が可哀想だって…店の主は夕に法外な値段を付けて、泊まりの客を取らせないって。さんざん客の相手をさせておいて、自分も…あれじゃ、夕が保たないって」 覚えず、きり、と唇を噛んでいた。そんなこと…言わなくたっていいのに。あの老女は何を思ってそんな風に言うのか? 姐さんだけでなく、木根様にまで…。 「だから、来たんだよ? 一晩でも夕を休ませてあげられればと思って。…もっと早く来たかったんだけど、ごめん、私の稼ぎじゃこんな所にはおいそれと足を向けられない。でも、何度も店の前までは来たんだよ…」 彼が最初に夕を買ったとき払ったのは、伊坂屋に奉公に入って以来、ずっと貯めてきた給金だったと言う。いつか妹とささやかでも一緒に暮らしたい。その時には思い切り美しい衣を買って、おいしいものを食べさせてやりたい。そう思ったから、欲しいものも買わず、贅沢もしなかった。 それなのに何年もかかって貯めたものも、夕を買って残ったのは本当にわずかなお金で。一度遊女遊びをすれば、全てなくなってしまうくらいしか残らなかった。 「夕が嫌だというなら、側には行かない。だから、安心しなさい。ずっとこうしているから…今日はもう休みなさい。思ったよりも…元気そうで良かった。本当に心配していたんだ、食うものも食わずにやつれていたらどうしようって」 広い背中が震えている。視界がぼやけて、それがふうっと霞む。 「ち…違うのっ! 違うの、木根様…!」 夕はとうとうたまらずに叫んでいた。これ以上、胸の中の想いを留めておくことは出来なかった。限界だった。 「だってっ、あたし…あれから。たくさん、たくさんお客のお相手をしたの。…それに…親父様まで…。だから、こんなじゃ、木根様のお側になんて行けないのっ…。もう駄目っ! 汚いのっ…汚くなっちゃったのっ…!!」 口惜しかった。流しても、洗っても取れない男たちの指の感触。肌がそこから腐ってしまうような禍々しい欲望。幼い身体で、避けることも出来ずそれを受け止めて、もう自分が違う生き物になってしまったと思った。 「…夕…」 「…それなのにっ…、お目にかかりたくて。ずっとずっとお待ちしていたの…でも、木根様のお顔を見たら、やっぱり、とても怖くなって…こんなあたし、見て欲しくなくて…でもっ…、それでも、お会いしたかったのっ…!」 「ああっ…、夕っ!」 ふわりと背中に腕が回る。そう思った次の瞬間、背骨が折れるかと思うくらい、きつく抱きしめられていた。 「何で、そんなことを言うんだい!? そんなことない、夕は夕だよ? …どこも変わってないよ?」 「…木根様っ…!」 「顔を…見せて…」 「綺麗だよ…どんな豪華な絹よりも飾り物よりも…」 綺麗だとか、美しいとか…そんな言葉も聞き飽きていた。 里にいた頃は耳にしたこともなかった言葉を、ここに買われてわずかの間に1年分も一生分も聞いた気がする。夕の身体に群がる男たちは夕の美しさを褒め称え、感激していた。でもそれが浅ましく思えて仕方なかった。 それが。木根にうっとりと見つめられると、純粋に嬉しい。どうしてなんだろう、分からない。 「木根様ぁ…」 「夕…本当に、会いたかったんだ…」 「あたしも…お目にかかりたかった…」 「誰も触れないの…首から上。親父様もそこだけは避けるの…だから、木根様だけ。木根様だけにあげる…」 遊女の首から上は禁の場所。だから、触れてはならない…囚われてしまうから。 「夕…」 ひとつに重なり合ったとき、夕の頬をしずくが流れた。やはり、この人だと思う、この人しかいない。あたしはこの人のために生きている。この人がいるから、生きていられる。嫌で嫌でたまらなかったはずの行為が、甘美な夢に変わる。…いつまでも揺られていたい、この人となら、どこへでも行ける…。 ひときわ大きな波に飲まれて意識の底に沈み込む。そこで自分の名を呼ばれたとき、確かに命の息吹を感じた。
………
身体を清められて、けだるいままで抱き寄せられる。きゅっと腕を回されると、親鳥の大きな羽に守られている雛鳥になったような気がした。返事をする替わりに、夕は男の胸に頬を押し当てる。あまりの心地よさにとろとろと眠りに落ちてしまいそうだった。 木根は抱きしめる腕に、くっと力を込める。それから、静かに話し出した。 「…本当はね、もうここに来てはいけないと思ったんだ」 「だけど、寝ても覚めても夕のことばかり考えてしまう。どうしているんだろうと心配でたまらない。それに…こうしてもう一度、夕を抱きしめたくて」 …あたしもそうよ、そうだったのよ。言いたかったけど、声にならなかった。 「…ごめん、夕」 「私は頻繁にはここに来られない。夕をここから出してやりたいけど、それも出来ない…夕のために出来ることは何もないんだ」 「そんなこと…」 すぐには気の利いた言葉が浮かばない。ここに来てから、あまり言葉は必要なかったから。頭の中でいくつもの想いを転がす。どうしたら、これを上手に伝えられるのだろう。…ううん、言葉なんて。あんまりももどかしいばかりで。 「いいの、あたし。こうして、木根様にお会いできるだで幸せなの…」 多くは望んではいけない、でもこの愛おしさはどこに行けばいいのだろう。夕には何もない、こうして与え合う頼りないぬくもりだけがふたりが分かち合える全てのもの。 また生きていようと思う。この人と再び巡り会えるその日まで。その日までどうにか生き抜こう。 男を送り出しながら、夕の心の中に新しい灯火が宿る。それはゆらゆらと頼りなく、何度も消えそうになりながら、どうにかか細い光を繋ぐ。息を潜めて、心を殺して…本当の自分は全部小さな身体の奥に隠して。
………
夕にはそれしかなかった。部屋の天井を見上げるときに見える、あの円い窓から見る空と、湯屋に渡るときに眺める中庭以外に夕の瞳に映る外界はない。時の流れも季節の移ろいもおぼろげになっていく。 遊女たちも、月のものの間だけはしばしの休息が与えられた。その間は客を取らなくて良い。ただ、夕の身体はまだしっかりしていないから、その期間もまちまちでいつ休めるかのめどもたたないでいた。
彼がいくら精力的だとは言っても寄る年の波には勝てず、若い客のように夕を欲望の赴くままに貪ることは出来ない。その代わり、店主はありとあらゆる手を使って、夕を落とそうと試みた。その執拗で陰湿な責めに翻弄されて、夕は店主の腕の中で濁流に飲まれる落ち葉のように喘いだ。「お前は俺の女だ、お前のことは俺が一番知っている」…夕を貪りながら、満足そうに言う。 …本当はそうじゃない。 そう思いながら、鼻から抜けていく甘い喘ぎで応えた。夕を完全に我がものにしていると思えば店主も満足なのだ。そうすれば、早く解放してくれる。 知らず知らずのうちに、女を使う術を身に付けていく。客が早く満足してのぼりつめるように、身体を使うことも覚えた。そのためには少なからずの演技をすることも。こちらが思い切り感じていると思えば、客もいい気になって盛り上がる。男をそそるようないやらしい声を出すことも知った。
しかし、抜けた姐さん方がただひとりとして年季が明けたわけでも、ましてや身請けされたわけでもないと言うことを夕はとうに知っていた。夕のことを可愛がって、色々忠告し、部屋にも招いてくれたあの女も流行病になってここを出たときは廃人状態だったという。後から聞かされた夕は、お別れも出来なかった。 客を取れるだけ取らされ、それが出来なくなれば、ゴミ同然に捨てられる。当たり前の遊女たちの運命だった。自分もやがてはそうなるのか、恐ろしさに夜も眠れなくなったりした。だが、いくら嘆いたところで運命が変わるわけでもない。
………
寂しそうな声で俯く。来るたびにやつれていく人。 だんだん足が遠のいていく木根の存在だけが、夕の全てだった。木根の前でだけ、素直に甘えて、可愛い女に戻れた。本当は毎日でも会いたい、でもそれは望んではいけないことだった。自分が泣き言を言えば、彼は無理をしてでも来てくれただろう。しかし、そんなことはさせてはいけない。 「ううん、いいの。木根様が来てくださるだけで…他は何もいらないの…」 明けない夜があればいいのに。何時までもこのときが続けばいいのに…逞しい胸にしっかりと寄り添い、瞼を伏せるとき。それが夕のささやかな幸せの時だった。
Novel Index>扉>暮れぬ宵・明けぬ夢・5
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