TopNovel Index>暮れぬ宵・明けぬ夢・7


…7…

 

 見上げると、菫色の天がどこまでも続いている。

 秋の気配に洗われたようにそれは澄み切って遠い。元々から手の届かない場所だが、もっともっと遠く感じる。

 その向こうに「陸」と呼ばれる土地があり、この海底の地とは異なる乾いたもので満たされていると聞く。でもそんなことを聞いたところでとても現実のものとは思えなかった。

 

 涼しさを肌に感じさせる気の流れに衣を後ろに引かれながら歩く。先ほど、道を尋ねた村から、もう一刻以上歩いていた。砂利を敷いただけの山道。申し訳程度の安っぽい草履はもう何度も鼻緒を直していた。
 気が遠くなるほど続く杉の並木。このまま山奥に迷い込んでしまうのかとすら思う。どこかで道を間違えたのだろうか? いや、ずっと一本道のはずだ。そんなわけはない。

 ざりざりざりと地を踏みしめながら、どこまでも続いていく道を歩いていく。途方もなく長い道、永遠に続くかと思われる回廊…目の前でいくつもの扉が開き、閉まっていく。絶えず現れるそんな幻想に胸が疼く。

 やがて。

 道は杉の林の中に飲み込まれるように入り込んでいた。足を踏み入れようと思った瞬間、見えない何かに阻まれている気がする。でも、そんなものに負けてどうする。何のためにここまで来たのか。そう自分を奮い立たせると、抵抗はふっとなくなった。

 杉のトンネルの向こうに、明るい場所が見える。なかなか近づかないその場所を目指して、どんどん歩いた。足音が木々の幹に反響して、あちこちから何百もの音になって戻ってくる。身体が浮いて、どこか違うところに飛ばされる気がする。それでも前に向かって、歩いた。

 

………


 杉の並木が切れた崖の下は、急に開けた場所になっていた。

 こんな山奥に、どうして。そう思ってしまうほどの民家が建ち並んでいる。ひなびた光の中で、暖かく佇んでいる。10や20の家屋があるだろうか。どれも部屋数の少ない、こぢんまりとした造りだ。その何軒からかは煙がまっすぐに立ち上っていた。

 

 坂を下りて、家並みの中を歩いていく。その一角で足を止め、中を伺う。ひっそりとして人の気配はない。でも庭先で朝干したと思われる洗濯物が揺れていた。

「あの…」

 隣の家の前で、駒を回していた子供に話しかける。声に反応して、顔を上げたのは10には今少しの少年。きらきらした金色の瞳をしていた。髪は金と茶の間くらいの薄い色。左と右の目が光の加減で違う色に見える。見たこともない異郷の香りのする、綺麗な顔立ちだった。

「ここの家の人は? どこに行ったのか、分かる?」

 こちらを見上げた少年はにっこりと人なつっこく微笑むと、向こうを指さした。

「あっち。河に行くって言ってた」

 

………


 ばしゃばしゃと水しぶきが飛ぶ。

 綺麗な川の流れ。さらさらとよどみなく流れ、水底が綺麗に見える。小さな魚がのんびりと泳ぎ、水草を噛んでいた。驚かせないようにそっと岸に近い場所に衣を浸す。抱え持ってきた洗濯物は籠の中に大量にあったが、一枚一枚丁寧に洗い上げていく。気の早いあかぎれに、水がしみて痛いが、それも心地よい。何より秋風が頬にやさしい。

 秋の羽虫が水面近くを飛んでいく。水の中に卵を産むものだ。透明な羽、どこまでも行ける自由な身の上。それを羨ましくないと思ったら嘘になる。でも、辛くはなかった。

 水面の向こうはまた、深い森になっている。山に囲まれた隠れ里。こんなところが街道のすぐ傍らにあるなんて、知らなかった。誰も教えてくれないし、知っている人間もわずかなのかも知れない。まあ、わずかじゃなかったら、色々と困ったことになるのだろう。住人の他は決まった物売りしか訪れない。

 

「…ふう…」

 なかなか落ちないシミを、石の上で叩いてどうにか綺麗にして、もう一度水で濯いだ。一仕事すんで、ホッとする。空いた籠にそれを収めると、伸び上がって腰を叩いた。首の後ろでひとくくりにした髪が揺れる。洗いざらして白っぽくなった衣は、少しごわついているが、清潔に洗ってある。衣の裾は膝あたりまで。小袴もはかない庶民のスタイルだ。

 

 しばらく水面の輝きを眺めて、また洗濯物を一枚取る。しゃがんでそれを水につけたとき、背後に人の気配を感じた。

「…夕…?」
 喉を潰したような、掠れた声だった。ぴくっと、手元の動きが止まる。

 

 …まさか。あの…、そんな。

 

 きらきらと水面が輝く。それに頭がぼんやりと照らされ、くらっとくる。ふるふると首を振って。それからゆっくりと、ゆっくりと肩越しに振り向いた。

「あ…」

 その人を視界に捉えた瞬間に、思わず立ち上がっていた。背後は河の岩の上。前に進むことも後ろに下がることもせず、よろよろと膝を伸ばす。濡れた衣が手から落ちて、足元に絡まった。

「夕…、ああ、本当に夕なんだね…!?」

 目の前の人はよろよろと数歩歩み寄ると、足を止めた。そして、こちらをじっと見る。緑色の瞳が揺れている。夕も、もう胸がいっぱいになって、言葉が見つからなかった。こみ上げてくるものを止める術も知らす、口元を両手で覆う。その上を暖かいものが流れていく。

「…木根さまっ…」

 視界がぼやける。しっかりと姿を捉えていても、良く確認が出来ない。

 

 脂のない髪はパサパサで、それはきちんと結うこともなく、肩先でざんばらに切りそろえてある。色こそは昔のままの薄茶だったが、年齢には似合わない白いものがたくさん混じっている気がした。頬はこけて、目はくぼみ、すっかりとやつれている。

 土色の小袖と下は茶色の小袴。どちらも土埃にすすけていて、もう長い間水も通したあともない。しかも手にはそれらしい荷物もないのだ。
 こちらに伸ばした腕も肉がなく、逞しい骨格にかろうじて皮が覆っていると言った感じだ。関節がぼこぼこと盛り上がっている。

 

…それでも、彼なのだ。間違いない。夕をこんな風に優しく呼ぶ人が他にいるわけもない。

 お互いの腕を思い切り伸ばしても触れ合えない空間を隔てて、向き合っている。ふたりの間を3年分の時が流れた。

 あの日、見送った背中。もう二度と、会えないと思ったのに。そんなことは叶わないと思ったのに…。

 

「元気そうで…良かった」

 その声に、夕は恥ずかしくなって俯いてしまった。

 自分はすっかりと田舎女の姿になってしまっている。かの店で会うときには綺麗に化粧をして、華やかな薄衣を纏っていた。辺りにはかぐわしい香の匂いが漂い、俗世を忘れさせる幻想の中で抱き合っていたのだ。

 男たちを惑わせた白い肌も日の下で焼けて、腕もすっかり逞しくなった。手のひらもがさがさと粉を吹いている。毎日の水仕事なのだから仕方ない。もちろん、化粧っ気などなく、水で洗っただけの頬はそれでも健康な桜色に色づいていた。ギリギリまで短く切りそろえた髪がようやく背中の半分くらいまで伸びたところ。

「木根様も…」

 どんな顔をして会ったらいいのかと、ずっと考えていた。でもいざとなってみると、もう涙が止まらない。泣くものか、負けるものかと必死で過ごしてきた日々。涙なんて忘れていたのに。

「よくぞ、…ご無事で…」
 喉が詰まって、言葉が出ない。こうして本当に再び会えるなんて、こんなに早く会えるなんて。…会いに来てくれるなんて…。

 

………


 木根が、こんな風に変わり果ててしまったのは、自分のせいなのだ。

 その事実を知ったときに夕は愕然とした。確かな理由も告げず、いなくなってしまった人。その後を追うことは叶うことでもないし、もう諦めるより他にないと思った。だって、人の世で幸せになる人なのだから…。身をちぎられるほどに辛いことではあったが、仕方ないのだ。

 …それなのに…。


「――伊坂屋の番頭の話は知ってるか?」

 夕を贔屓にして、何度も通ってくる岡様がその日も来ていた。羽振りのいい、飾り物を売り歩く問屋の大旦那。店主もこの客をとても気に入っていた。規定の銭の他にいくらかのものを置いていってくれたりする。夕にもかんざしや飾り紐をいくつもくれた。嬉しくも何ともなかったが、一応受け取っていた。

 招きの酒もそこそこに夕をかき抱き、袷から腕を探り込む。柔らかな蕾を探し当てると丹念にしごいて固くする。そのねちっこい手つきが店主のそれとよく似ていた。顔を見なくても、抱き方で男が分かる。この客は女を好きにして、自分の虚栄心を満足させるのだ。

「…くっ…ふっ…」

 夕が眉間にシワを寄せて苦しく喘ぐと、男は嬉しそうにうなじに唇を当て、いやらしい声でそう言った。絶え間なく続く愛撫に身体を預けながら、夕は愛しい人の名前を遠く聞いていた。

「何のために使ったのかね…女を囲える様な度量はないからな、あのへっぴり腰は。おおかた博打にでも狂ってしまったのではないかと皆、言い合っているがな。賭博所の者たちも一斉に首をかしげているそうなんだよ。まあ、内密にしたいだけかも知れんが…」

 男は夕に自分のものを口に含むように要求する。美しい裸体を見たところでしっかりと欲情できるほど、若くはないのだ。この男も伊坂屋の大旦那と同じように女子を何人も囲っている。夕のことも身請けしたいと店主に打診しているらしい。
 男がしとねの上に仰向けに横たわると、夕は言われるがままに舌を這わせ、グロテスクな先端を花色の口に含む。そうしている間にも男の手は休むことなく夕の身体を這い回り、そのしっとりした感触を楽しんでいた。やがて自身がはち切れんばかりに膨張したのを感じ取ると夕の口を引き抜き、その代わりに夕の下の蕾をあてがう。

「あっ…! はあっ…、うっ…!」

 ずっしりと射抜かれて、喉の奥が詰まる気がする。息苦しさから逃れたい欲求に駆られ、夕は男の腹の上で白い身体を揺らした。思い切り腰を上下させると男の喉が楽しそうにくふくふ唸る。膝を使って、花びらで男の敏感な裏側をなで上げる。

「あっ…、もうっ…、駄目ぇ…っ!」
 夕が胸を揺らしてのぼりつめるのを薄目を開けて見守る男。男たちの前で、心を晒してはいけない。晒していいのは身体だけだ。夕には大切な場所がある、そこは誰も踏み込めない。ただひとりの人以外は。

 夕ははらはらと女の全てを散らしながら、役目を終えた身体をしとねに沈める。しかし、まだ燭台の上の炎は燃え尽きない。それを見定めた客は嬉しそうに舌なめずりすると、再び夕を引きずり起こし、後ろから貫いた。


 反物の伊坂屋の番頭が大変なことをした。

 そのことは、いくら店の者が口を堅く閉ざしたところで、どこからか外に流れ出てしまう。あっという間にその界隈では有名な話になってしまった。もうその時には番頭は店先から姿を消していたのだが。

 彼は人当たりも良く真面目な性格で、客の評判も良かった。もちろん店の大旦那を始め、皆が信頼していた。だから誰ひとりとして疑うこともなく、来てしまったのだ。

 期間にして、1年くらいのことであったらしい。

 番頭は…売りに行く先々で、店の決めた値段よりも少し水増しした価格で反物を販売していた。最初は些細な額だったらしい。それが徐々に額を増してくる。もともと店の主人は質の良い品を安価で販売してきていた。だから少しくらい単価が上がったところで誰も疑問に思うことはない。

 しかし、そんなことがいつまでもまかり通ることはない。

 とうとうことは露見し、番頭は真実を問いただされた。店の主人とて、可愛がって育てた使用人だ。娘の婿にと望んだほど惚れ込んでいた。だから正直に金の使い道を白状すれば、このことは水に流していいとまで言ったという。全てを合わせると、信じられないほどの大金だった。どうやったら使い込めるのか、裕福な育ちをした店の主人ですら首をかしげるほどの。

 だが、番頭は頑なに口を閉ざした。そして、もうここにいることは出来ないと、自分から役人に申し立てに行き、罪を償うと言い放ったのだ。主人を欺き、善良な客を騙し、金銭を巻き上げた罪は重い。それは一生かかっても償いきれないほどのものだった。
 当然のことながら、店の者たちは皆、彼の袖を引いて引き留めた。何か深い事情でもあるのだろう、それなら話せばいい。ひとりで何もかも抱え込む必要など、どうしてあるのか…!?


 ――その晩。

 客を送った後。夕は声を殺して泣いた。木根と別れたとき、もう二度と泣くものかと心に決めたのに、願掛けのように決めたのに…でも、涙が止まらなかった。

 

………


「…遠き地に…流されたと…伺いましたが…」
 夕は涙声でそう言った。

 重い罪を背負った者は、そのまま打ち首になったりはしない。生きて罪を償わなくてはならないのだ。遠き西の外れに、気が薄く常人が住めぬような土地がある。そこの炭坑で働き、一生戻れない。そう聞いていた。木根がそこに渡ったことを風の便りで知った。

 夕の言葉を受け止めた木根は、全てを悟ったようにふっと微笑んだ。夕がことの次第を全て把握していると気付いたのだろう。もう取り繕うこともないと思ったらしい。やわらかい、懐かしい笑顔だった。

「この夏に恩赦の申し渡しがあってね。…どうも都の方で何かおめでたいことがあったらしいんだよ。それでたくさんの者が罪を赦された。私も…戻っていいと言われてね。でも、すぐにはどうにか出来なくて。身体を治しながら、ここまで来た。だいぶ時間がかかってしまった…」

 元気な普通の青年の足でもひと月以上かかるという距離だ。過酷な労働に耐えてきた身体ではどんなにか辛かっただろう。罪人なのだ、満足な食事も与えられなかったのかも知れない。3年の月日が変えたこの男の変化は尋常じゃない。

「木根…様っ…!」

 ごめんなさい、と言わなくてはならない。自分のために彷徨った人に詫びなくてはならない。もしも、あの日、男が夕を助けなければ、今頃は幸せに生きていたはずなのに。夕を買うために客を騙し、店を欺いた。

 考えれば分かりそうなものだ。いつか店の姐さんが言っていた。木根の給金ではひと月働いても、夕を買えない。店主の付ける値段は法外で、よほど裕福な人間でなければ手に入れられないものだった。しかも木根はいつも夕の泊まり客になってくれた。

 

 疑わなくてはならなかったのだ。もしも人の道に背いたことをしているなら、やめてくれと言わなくてはならなかったのだ。

 …それなのに。夕にはどうしても聞くことが出来なかった。木根の金の出所を。恐ろしくて聞けなかった、それを知ってしまったら、もう二度と会えなくなるのだから。

 …そんな自分の我が儘が、ひとりの男の人生を台無しにしてしまった。ここまで朽ち果てて変わり果てた姿、これは自分が貶めたものなのだ…!

 

「ああ、夕っ…! 泣かないで、お前が気に病むことは何もないのだから…」

 木根は少しだけ夕との距離を詰める。そして、優しくそう告げた。すすけた前髪の向こうにあの頃と少しも変わらない瞳の色がある。夕を包んでくれて、温めてくれた優しい人の持ち物。

「でもっ…、でも…」
 夕は顔を涙で一杯にしながら、なおも嗚咽を上げた。何を言ったらいいのか、詫びたらいいのか分からない。でも、ずっと、会いたかった。会いたくて、会いたくて仕方なかった。

 

 しかし。

 

 夕がどうにか次の言葉を絞り出そうとしたとき。木根が静かにきびすを返した。すっかり影をなくした広い背中が悲しそうに揺れている。

「会えただけで…いいんだ。もう、お前が元気にやってるのを知ったから…」

「え…あのっ…!」
 突然の成り行きに、夕は慌てて男に駆け寄っていた。

「木根様っ! どうして? 行く当てなどないのでしょう? …あの、家に来て。何もないけれど、とにかく休んでください。それに…」

「いいんだよっ…!」
 夕が掴んだ袖を木根が信じられないほどの冷たさで振り払う。そして肩越しに振り向いて、夕の細い手首を見る。何も付けていない、両の腕を。

「…どうして…?」

 

 こんな態度を取る男が信じられなかった。恨まれているならそれでもいいと思った。それだけのことをしてしまったのだから。望んだことではないにせよ、夕の存在が男を誤らせた。その事実は消しようがない。

 でも、そうではないのだ。木根の夕を見る瞳は昔のままに優しかった。心から、再会を喜んでいた。…それなのに? この先、どこに行くというの? …まさか、もうあの店には戻れないだろうに…。

 

「待ってっ! 木根様っ…どこに行くの? ねえっ、どこに…」

「…夕っ!」

 木根は背を向けたままで、声を押し出した。夕はすがりつこうと差し出した腕を止めた。そんなことが出来るような感じではなかったから。

「知ってるんだ…いいんだよ、夕」

「え…?」

 昼近い気の流れは涼やかで、心を解きほぐしていくようだ。どこかで子供のはしゃぐ声がする。

 一段と小さく見える背中。触れられる場所にありながら、これ以上近づくことも出来ない。夕はあまりのことに涙も止まり、驚いた瞳で震える肩を見つめた。

 一度上がって、下がって。息を整えているのが分かった。

「いい人に、身請けされたんだろう? 本当に幸せそうで…それなら、いいんだ。だから、もう行くよ? 夕が幸せなら、私はもう…思い残すことなんてないんだから――」



 

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