TopNovel Index>暮れぬ宵・明けぬ夢・8


…8…

 

「…え…、あの…?」

 木根の言葉の意味がよく分からない。夕はねっとりとした口の中で言葉を模索した。どうして? 何を思ってそんなことを言うの? 何を知っているというの?

 木根は夕がはっきりと答えないので、すっと振り返るとじっとこちらを見て言った。その視線は、やはり優しくて、でもどこか悲しげだった。

「ここに来る前に、夕の住んでいる家に行った…」

 

 木根は夕がここにいることを、あの遊女小屋の湯屋の老婆に聞いた。罪を赦されてもとても店には戻れず、身を隠すように戻ってきた。ただ、夕のことだけが心配で。どうしているか知りたかった。もちろん、姿を確かめる金などない。垣根の回りをうろうろしていると、物乞いかと思った老婆が出てきたのだ。
 そして、夕がもうそこにはいないことを知った。それでも、ひと目見たくて、行き先を訊ねてここまで来た。絶望の中のただひとつの灯り。夕の姿を見ることだけが、心の支えだったから。

 夕が遊女小屋から出る。まだまだ年季が明けるわけもない。だとしたら…それは老婆に訊ねるまでもなかった。そんなのは分かり切っていることだ。

 

「隠さなくて、いいんだよ。恨んだりしないから…私は夕をあそこから出してやることが出来なかったのだから、仕方ないんだ。…ふたり分の洗濯が干してあった。夕のと…あと、もっと小さい子供のものが」

「…あ…」
 夕は大きく目を見開くと、口元に片手を当てた。そうだったのか、だから、そんなことを言うのか。

「身請けされて、ここに囲われているんだろう? 裕福な人にしては、その身なりが貧しいけど。夕は幸せそうだし、本当に良かった…もう、私なんて、必要ないんだ」

 

 ゆらゆらと揺れる緑の泉を。夕は息を飲んで見つめていた。言わなくてはいけない、でも言葉が出てこない。どうしたらいいのだろう…、何と言えば、分かって貰えるのだろう…!?

「木根様っ――…」

 考えもまとまらないまま、夕が話しかけたとき。家並みの方から、小さな影が、転がってきた。転がってきた、というのは目の錯覚で…実際はとても小さな人影が、必死で走っているのだ。こちらに向かって。

「かあちゃ〜〜ん、ごはんっ!」

 たどたどしい口調。それが誰のものか、夕にはすぐ分かる。木根が声の方向に振り返る。そして、そのまま身体の動きを止めた。

「おなか、すいたよおっ! ごはんっ〜!」

 目に見えるほど顔色を変えた木根の視線が、よろよろと声の主を辿る。弾むように彼の前を駆け抜けて、それはぱふっと夕に抱きついてきた。

「…夕? その子…あの…まさか…」

 木根の食い入るような視線が怖かったのか。夕にしっかりしがみついた小さな身体は、眉間に皺を寄せて木根を睨んだ。何だ、こいつ、と言った表情で。小さいながら、母親を守ろうとしているらしい。いじらしいまでの心意気だ。

 夕はそんな身体を優しく抱き留めると、なだめるように背をさすった。それから、困ったように微笑んで木根を見つめる。

「ねえ…あの…」
 木根はふらふらとした足取りで夕たちの方に寄ってきた。そして、震える手つきで幼子の手を取る。

「これは…?」

「とうちゃんのっ! とうちゃん、くれたのっ!」

 力強く振り払いながら、でもガクガクと震えている。見知らぬ大人を前にして、ひどく驚いているらしい。隠れ里なのだ、顔見知り以外の者はいない。初めて出会う未知の人間は、小さな子供にとって恐怖の存在だ。

「あ、…でも、そんなっ…まさか…」
 木根はその言葉を前にしても、力無くかぶりを振る。目の前の存在をどうしても信じられないように。

 

「木根様…」

 夕はふたりのやりとりを途方に暮れて眺めていたが、やがて小さな声で話しかけた。

「あのっ…とりあえず、家に…来てくださいますか…?」

 木根は夕の碧の瞳をしばらくぼんやりと見つめていた。それから、小さく吐息を吐いて。やっと静かに頷いた。

 

………


「ごめん…夕。なんだかまだ、信じられなくて…」
 ささやかな板間にむしろを敷いて。その上に腰を下ろした男が、吐息混じりに言葉を発した。

 くり抜いただけの窓の外はもうすっかり日が暮れて、部屋はわずかな燭台と囲炉裏の火で灯りを取っている。夕は目隠しの布を窓に掛けると、静かに振り向いた。

 木根はあれから、夕が用意した衣に着替えて、河で身を清めたせいですっきりとしていた。長旅の疲れとやつれた姿は隠しようもなかったが、それでもほんのりとオレンジ色に浮かび上がった横顔が懐かしい輪郭を描いている。見つめているだけで、夕は胸が熱くなる。

 昼間からどれだけ泣いたのだろう。

 見覚えのない母親の涙に幼子が当惑して不機嫌になる。思わぬ珍客もある。小さな胸は状況の変化に付いては行けず、ぐずるだけぐずると、夕餉もそこそこに寝入ってしまった。小さな寝息を感じるしとねを木根の視線が辿っている。

 

 …何を、思っていらっしゃるのだろう…。

 夕は様々な想いを巡らせながら、男の傍らに腰を落とした。盆を引き寄せて、香茶を注ぐ。本当なら酒でも用意したいところだが、物売りが来る日でもなければ、そんなものは手に入らない。今日の所は近所の人が差し入れてくれたこれが、最高のもてなしなのだ。すきとおった花の香りが辺りに漂う。

 静かに湯飲みを木根の前に差し出すと、夕も彼の視線の先を辿った。

 

 年の頃は二歳と少し。

 ようやく言葉を扱うようになり、このごろでは会話が成立するようになってきた。薄茶の髪に、やわらかい色の肌。しっかりと閉じられた瞼の奥には綺麗な緑色の瞳が存在する。寝返りを打った拍子に上掛けからはみ出た手首には、二重に巻かれた飾り珠があった。揺らめく燭台の光を遠く感じて、それは妖しげな輝きを放つ。

 夕は口元をほころばせて、すっと立ち上がる。そして、幼子の所まで歩み寄って崩れた上掛けを掛け直した。膝を付いて静かに顔を上げたとき、こちらを見つめている視線とぶつかった。

 

「…夢を見てるみたいで。こんな都合のいい夢があるとも思えないんだけど…。その子は…私の子なんだね? …どうして…」

 ためらいがちに、ため込んだ想いを口にする。この子をひと目見たときに、木根の態度が変わった。無理もないだろう、どこから見ても自分に生き写しなのだ。そして、あの日の飾り珠が腕に巻かれていて。

 でも。

 夕は遊女なのだ。よなよな数え切れない男の相手をして、その欲望を受け止めてきた。誰の種か分からない子を孕むなら、まだ分かる。…それなのに。

 

 夕は恥ずかしさに耐えきれなくなって、視線を落とした。上掛けの花模様を見つめながら、遠慮がちに言葉を紡ぎ出す。

「…『音無しの葉』を。木根様との後だけ、口に含まなかったから。本当にそれだけでどうにかなるとは思えなかったのだけど…でも、それを繰り返したら、月のものが本当になくなって」

 最初に教えられた、この人に。男と女のことは、愛し合い、子を孕むための行為だと。そして欲望を処理するためだけに買われる遊女は、身体にいくらかの毒があると知りながらも、あの葉をかみ砕いて飲み込むしかないのだと言うことを。

「添い遂げられる身ではないと、知ってました。でも…あたしは木根様が好き。せめて、この想いをかたちにしたかった。もし、木根様の形代を授かることが出来たらと。最後にお目にかかったときに、もう分かっていたんです。どうしてもお伝えすることは出来なかったけど…」

 そこまで告げると、夕の膝の上で握りしめた手の甲にぼとぼととしずくが落ちた。

 

 …女子として、何よりも幸せな瞬間だった。愛する人の子を孕むこと。それが叶ったのかも知れない。でも、告げてどうするんだ、木根は祝言を控えている。知れば心を乱される、そんなことをしては可哀想だと思った。別れを口にする人に、真実を閉ざすしかなかった…あのときは木根の本当を知らなかったから。

 正直、産み落とすまでは誰の子か分からない。でも、絶対に木根の子だ、そうに違いない。この想いがかたちになったのなら、そうに決まっている。この子をどうにかして産み育てたい。夕の心にはもうその希望しか残っていなかった。

 

「…夕っ…!」

 木根はたまらずに立ち上がると、夕の前に進み出て、濡れる手を握りしめた。3年の月日を経て、それは小さくしぼんでいたが、それでも愛おしさは変わらない。この人を想って、この人のことだけを想い続けて生涯を終えたい。そんな気持ちしかなかった。

「辛かったろう…、それにどんなにか大変だっただろう…ここまで来るのが」

 夕は肩を震わせながら、顔を上げることも出来ずに、ただ泣き続けた。胸にやっと届くほどに伸びた銀の髪が、昔と同じようにやわらかい輝きを放つ。それが静かに震えていた。

 

………


 子を孕んだことを、公にすることは出来ない。知られれば、無理矢理流されるに決まっているから。今まで、店でそう言うことが起こるたびに、繰り返されてきたことだ。そうならないために葉を噛んで、身を清め、男たちとの関係を残さぬようにしてきた。

 夕はひたすらに真実を隠しながら、いつも通りに客を取った。あまりに苦しい悪阻(つわり)でどうにもならないときは月のものが来たと偽って。栄養が悪いのか腹もそれほど目立たず、しばらくは隠し通すことが出来た。


「あんた、子がいるんだろう…?」

 最初に夕の異変に気付いたのは、湯屋の老婆だった。まあ、そうであろう。遊女たちの裸体を目の当たりにして、清めてくれるのだ。同じ女子でもある。分からないわけがない。青ざめて俯く夕に、彼女はたたみかけるように言った。

「早めにどうにかしなくてはならないよ? 子は腹で大きくなれば、流しにくくなる。無理にしようとすると命に関わってくる。あの店主は遠慮がないからね、腹を蹴ってでもどうにかしようとするよ? …命が大事なら、無理をするんじゃない」

 淡々と告げられる言葉に、夕は力無くかぶりを振った。

「…いや…、産みたい。産んで、育てたいのっ…!」

「何て…馬鹿なことを…」
 老婆は手ぬぐいを濯ぎながら、大きくため息をついた。

「仮に産んだとして。この子の行く末を知ってるのかい? 女子なら、お前と同じようにゆくゆくは男に身体を売ることになる。そのためだけに生まれてくるんだよ? …男子なら…産み落とされたその場で殺されるか、売られるか。どちらにせよ、お前さんの手には残らない…」

「……」

 夕はさすがに言葉を失った。そこまでは知らなかった。遊女であっても血も肉もある身体だ。我が子を育てることくらい出来るのではないかとたかをくくっていた。そんなに甘い世界ではなかったのだ。残酷な事実を、今更ながらに気付く。

 でも、この子は確かに自分の中にいる。生まれてくることを望んでいる。母として、どうにかしてやりたい。そして、生まれるからには幸せに生きて欲しい。

「…いやっ…! やっ…、駄目っ…、殺すなんて、出来ない。あたしは死んでもいいから、この子は生きて欲しいのっ…!」

 自分でも信じられないほどの力で老婆にしがみついていた。美しい身体は一糸纏わず、ただはらはらとしずくをこぼしながら。

 

 …すると。

 今までになかったことが、起こった。

 老婆の嗄れた吐息が落ちて、そのあとぐっと抱きしめられたのだ。そして、彼女は腹の底から湧きあがるような低い声で、夕の耳元に囁いた。

「…あんた。ここを出ることが出来たら…どうするのか?」

「…え…?」
 夕は老婆の胸の中で、白い身体をくゆらせた。信じられない、言葉だった。

「どこか、行きたい場所はあるのか、と聞いている…」

 老婆の言葉が胸に染みこむ。そして、するすると、信じられない言葉が浮かび上がってきた。

「…木根様の、お側に行きたい…」


 その時。夕はもう木根の真実を知っていた。店の者や客を欺いて、その罪をひとりで被ってかの地に去ったと。彼は夕と会うために人の道を外れ、一度きりの人生を無駄にした。

 その人の背中がいつでも遠く見える。この籠から出られるなら、飛んでいきたいのは彼のいる場所だけだ。どんなに遠くても、道が険しくても、いつか辿り着く。だから、行きたい。


「…そうか…」
 老婆は静かに答えると、夕を抱いた腕を解いた。

「悪いようにはしない、だから、時を待つんだ。…決して、早まったことをしてはいけないよ? 待つんだ…悪いようにはしない…」

 呪文のように繰り返しながら、夕の身体を拭いて、新しい衣を纏わせる。ただ頷くことしか出来ず、そのことを胸の中に留め置いた。

 

………


 それからも、当たり前の日常が巡っていく。

 客が渡れば、部屋に招き入れ、受け入れる。老婆の言葉が耳の奥で反響しているような気もしたが、湯けむりの中でのやりとりはいつしか心の奥に沈んでいた。彼女のことを信じないわけではなかったが、ただの湯屋の老婆に、どうできることでもないとも思った。あれきり、何の話も出ない。


「…で、お前さんの腹づもりはどうなんだい…?」

 その日、夕を買った岡様は金貸しの大旦那だった。とにかく羽振りがいい。このごろでは夕に付く客はそんな者たちだけだった。旅客になどは、長いこと買われていない。どれくらいの値段が自分に付いているのか、もはや想像するのも怖かった。

「…はあ…」

 いきなりの問いかけに合点がいかず、夕はふっとぼやけた視線を上げた。その先には好色に瞳を染めた、恰幅のいい初老の男がいる。この者はいつもすぐには夕を我がものにしようとはせず、時間を掛けて味わう。何人もの側女を囲う好き者だとは聞いていたが、その扱いもねちっこく濃厚だ。いけないと思いつつも鳥肌が立つこともある。

「ここの店主がお前を身請けする先を打診しているのは知ってんだろ? どうもそろそろ本決まりらしいじゃないか…」
 そう言いながらも、夕のかたちのいい胸を存分に揉みほぐす。男の手のひらでやわらかい部分はかたちを変えて、桜色の先端はそそり立つ。その華やいだ部分を男の舌がぺろりと舐めた。思わず、はあっと吐息が漏れる。とろんとした視線が満足げに絡み取られ、夕はしとねに押し倒されていた。

「お前は俺のものになるんだよ? …店主にそう言うんだ、金貸しの大旦那様のところに行きたいと…」

「…え…?」
 男がのしかかってくるのを感じながら、夕はその意外な言葉に反応した。

 今までに何人かの岡様が夕の身請け先になりたいと申し出ていた。このごろの夕は働きが悪い、隠していることとはいえ、身重なのだ。当然、何でもないときのようにはいかない。店主はそれが不服らしい。このまま使い物にならなくなる前に、誰かに払い下げてしまおうと考えたらしい。金をたくさん積んで貰えるなら、文句はない。
 岡様の間でも、夕の評判はいい。だから、身請け先となれば男が上がる。そのためには、金など惜しくない…そういう理由で、なかなか皆が譲らず、決まらないままにいるらしいのだ。

 夕とて、本当にひとりの男に囲われたりしたら、もうどこにも行けなくなる。高い金を出して買った女子を手放すことなどないはずだ。始終見張りを付けられるし、逃げ出したら、それこそ殺されるかも知れない。もはや側女は人ではない、「もの」なのだから。

「…お前は…、嫌でも俺の所に来るようになるんだ…」

 夕の秘所はもう十分に潤っていた。あれだけの行為を受け入れてくれば当然だ。もとより男を知り尽くした身体は淫らに反応するように仕上がっている。脂の乗り切った、という表現がぴったりかも知れない。遊女に身を落として1年を迎えたくらいが、ちょうど買い時なのだ。それを店主も客も知っている。

「…はっ…、ううっ…!」
 男の全てを受け入れながら、夕はその感覚に呻く。身体のその部分だけに神経を集中する。男の悦びのために身体を使うのだ。

「知ってんだぞ…お前、孕んでるだろ?」

「…え? …そんな…、違いますっ!」
 いきなり秘められた真実を突き付けられ、夕は自分の顔色が変わるのを感じた。でも、必死で首を横に振る。悟られてはならない。

「しらばっくれんじゃねえっ! このアマっ!!」
 夕が背けようとした顔を、顎を持ってぐっと押さえつける。そして、身体をつなげたままで身を乗り出し、碧の目を食い入るようにのぞき込む。

「俺様はな、そのへんの奴らとは違うんだよっ! そこら中に子を作っている。子を孕んだ女の中がどう変わるのかも知ってるのさ。…そうさ…こんなふうにさ…」
 そう言うと男は喉を鳴らしながら、夕の中をかき混ぜた。ぐちゅぐちゅと卑猥な音が結合部から響く。

「うあっ…! ああっ…」
 夕は何か言おうとしても、男の圧倒的な力の前にねじ伏せられる。否定の言葉も出せない。ひたひたと迫り来る、絶望感。

「俺様に身請けされると、言うんだぞっ! そうしたら、その子は産ませてやる。お前の子だ、女子ならさぞ美しいだろうよ…ふふ、思う存分可愛がってやろうな…ゆくゆくは俺のものにしてやる…。もしも、言うことを聞かぬならっ、その時はこのことを店主に言ってやる。腹の子も、下手したら、お前も命がなくなるんだからなっ…!?」

 

………


 湯屋に向かった夕の青白い顔を、老婆は静かに見つめた。

「…機は熟したね。何も言わなくていい、分かっとる…」
 老婆はいつも通りに湯桶を手にすると、夕を湯殿に招き入れた。



 

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