TopNovel Index>暮れぬ宵・明けぬ夢・9
 


…9…

 

「あの方は…小さな懐刀(かいとう)を胸から取り出したの。

 そして…覚悟はいいねと、とても恐ろしい目であたしに聞いたわ…」

 夕は震える手を木根の手にしっかりと絡めながら、涙ながらに話し続けた。傍らでは幼子が静かに寝息を立てている。あのとき、自分の身に起こった災難など何も知らないままに。

 

………


 このまま、殺されるのかも知れない…!

 その時、夕は本気でそう思った。でも、妖しげな輝きを目の前にしても、彼女の心は不思議なほど安らいでいた。

 …もう。どこにいても同じなのだ。子を産んでも、産めなくても。この命を守るというたったひとつの願いすら、叶わない。もしも、産まれても、この子に明日はないのだ。自分は構わない、でも…この子は、幸せになれないなら、この子は…っ!

 ざく、と鈍い音が耳元で響く。次の瞬間、夕の美しい銀の髪が辺り一面に舞い散っていた。

 

………


「…髪は耳の下ギリギリの辺りでざんばらに切られていたわ。

 あの方は急いで髪をかき集めると、あたしの身体を清めて。

 それから、薄衣ではない、自分の着古しのような衣を纏わせてくれたの…」

 

………


 これは、髪の代金だ。

 そう言って差し出されたのは、夕にとって見たこともない大金だった。それを麻袋に収め、手渡される。湯屋から外に通じる扉を開きながら、老婆は早口で言った。

「ここを出て、とにかくまっすぐに北に進め。まっすぐだ、急ぐんだよ? 並木が切れるところで右にそれて、そのまま山道を行くんだ。まっすぐに、どこまでも…」

「え…でも…」
 老婆の金茶の瞳を見つめながら、夕は戸惑いの言葉を漏らした。

「あたし…あてがない。それに…出られるなら…木根様の所へ…」

「馬鹿、言うんじゃねえっ!?」

 びっくりするぐらいの険しい表情の人の、押し殺した声で怒鳴られる。夕がぴくっと肩を揺らして反応すると、震える身体を静かにさすられた。

「そんな身体で、どこへ行ける。それに…もしも、無事に赤子を産み落としたとしても、乳飲み子を抱えての旅は無理だ。待つんだ、いつか時は来る。早まってはならないよっ!」

「…でも…」

 どこに行けばいいの? 行く当てなどないのに。逃げて、捕まったりしたら、今度こそ、どうなるか分からない。腹の子のことだって、ばれてしまう…。

「わしの言うことを信じるんだ、とにかくまっすぐに進みなさい。あんたが、自分の気持ちを確かに持って、それで進めば、必ず行ける。だから、行くんだ…、会いたいんだろう、その子の父親に」

 きっとこの人は。全てを知っているのだと、夕は悟った。

 夕が想い人の子を孕むために画策したことも、今、心が誰のもとにあるのかも。夕を元気づけ、奮い立たせるものが一体どこにあるのかを。全て知っていて、手を貸してくれる。罠かも知れない、でももうこれしか残ってない。ここにいても、地獄が待っているだけだ。どう転んでも明日はない。

 夕は白い頬で、しっかりと頷いた。

 

………


 走って、走って。息が上がってもそれでも足を止めなかった。

 

 髪が軽くなったのは、幸いだった。銭のためだけではなく、あの長さでは人目に付きやすいし、走りにくい。辺りを満たす気は夜になるとさらにねっとりと身体にまとわりつく。織りの粗い衣にも助けられた。

 店主に気付かれれば、必ず追っ手が来る。あの男には手下にしている悪人がたくさんいるのだ。そう言う者たちに若い娘を漁らせ、客引きをさせる。もしも囲った女子が逃げたりすれば、どこまでも追ってくる。

 

 夜半を迎えた山道には灯りもなく、ただ、ぼうっと浮かび上がった白い道だけが夕の行く手を示していた。まっすぐ、まっすぐ。それしか教えられてない。自分を抱きしめた老婆の腕の強さ。身の危険を冒して逃がしてくれた心意気。それを信じるしかない。親にすら裏切られたこの身だけど…今、信じるものはひとつしかないのだ。

 暗い森の入り口は大きく口を開け、夕を飲み込もうとしていた。でも先に行く道はここしかない。まっすぐに行けと言われた。それしかない。

 背筋を流れる恐怖に、足を止める。それから静かに下腹に手をやった。まだ動きを感じたこともない、見る人が見なければ気付かないようなふくらみ。それでも確かに息づいている、あの人のくれた命が。

 夕はしっかりと行く手を見つめた。そして後ろを振り向くこともなく、足を進める。森の暗闇に踏み込んだとき、とぷっと水の中に沈むような不思議な感覚に襲われた。

 

………


「…ああ、それは」
 自分も確かに感じた、と木根は静かに告げた。

 あの森を抜けるとき、今までに味わったことのない感覚が身体を押し戻そうとした。本当にそこに行っていいのか、お前はそれだけの人間なのかと強く問われた気がした。迷いがあったら、引き戻される。心の中のまっすぐなものを確かに感じてなければ、通り抜けることが出来ない。

「ここまで辿り着いたとき、もう夜明けを迎えようとしていた。どこをどう通ってきたのかそれも分からない。でも、女の足でそんなに遠くに来られるはずもない。何時追っ手が来るのだろうと、恐ろしかった。やがて…呆然と立ちつくしていると、目覚めた村の人があたしに気付いて…」

 初めて出会う顔なのに、何故かとても懐かしかった。皆、まるで知り合いのように夕を受け入れて、小さな家も用意してくれた。夕が御礼を、と銭を差し出すと、静かに首を振る。それは、今使うものではない、お前さんにはいずれ必要となるものだから。あの方だってそれを思って持たせてくれたんだ…。

 

「しばらくはそれでも怖くて、この状況が信じられなかったけど。でも村の皆に『ここは大丈夫』と言われて…そして『あんたは、選ばれたのだから…』って。実際、ここに3年近く住んで、でも良くは分かっていないんです。一体、何が人を遠ざけているのか。どうして、あの方が私を逃がしてくれたのか…ただ」

 そこまで言うと。夕はようやく顔を上げた。そして、目の前の人を静かに見つめる。揺れる碧の目を受け止める緑の瞳。彷徨っていた日々、二度と会えないのかと絶望に身を投じたこともある。でも、あの瞬間から、まっすぐと…ただひたすらにこの人の存在だけを追っていた。

 産まれたのはもう疑うこともないほど、かの人の面影を映した赤子で。男の子だと聞いた瞬間に、夕は自分の選択は正しかったと胸をなで下ろした。これは自分が守り通した命だ。こうして世に生を受けることが出来た。…ようやく、ここまで来た。

「他の家の洗濯物を引き受けて、それで生計を立ててきたの。他の人たちも機を織ったり、山に入って作業をしたり…皆、汗を流して働いていて。食料を交換しあったり、物売りの人と物々交換したり…。それで、尾根(オネ)が…この子がもう少ししっかりしたら、ふたりで木根様のところに行こうと思って」

「…私は…」
 木根は夕の手をしっかりと握りしめながら、絞り出すように言う。

「お前の腕に…あれがなかったから。もう私のことなど、忘れたのだと思っていた。…そうされても仕方ない、だって…こんな甲斐性なしでは、愛想を尽かされても当然なのだから…」

 夕はすまなそうに視線を落とした。最初に木根が河原で、自分の腕を確かめているのは知っていた。それで、たとえようもない悲しい目をしていることも。

「…あたしは、どんなに変わってしまわれても、木根様のことが分かるから。でも、尾根はそうじゃない。この子は父親の顔を知らないのだから…それは木根様にしても同じこと。この飾り珠さえ持っていれば、きっと木根様は気付いてくださる。もしも旅の途中で何かが起こって、あたしが先に行けなくなったとしても、どうしてもふたりは巡り会って欲しかったの…」

 

 ふたりは、夕にとって何にも代え難い大切な存在。父と子を引き会わせることが、夕の希望であり使命だったのだ。あの籠の中で、限られた時間で。それでも身体を寄せ合い、心を触れ合わせた日々はかけがえのないもの。それが確かなかたちとなって、この世に新しい命を芽吹かせたのだ。それを伝えなければ、どうしても伝えなければ…。

 

「そんな…、だって」
 木根は静かに首を横に振る。辛そうに、閉じた瞼が震えている。

「私はお前に、何ひとつしてやれなかった。…それなのに…」

「そんな…そんなことない…」
 夕は揺れる瞳で、しっかりと木根を見つめた。

「木根様が、こうして会いに来てくれた。あの日と同じ…木根様が来てくれたから、もうそれでいいの。あたしにはそれより他は何もいらない…」


 やわらかい、あの日のままの笑顔。頼りない身体をこの胸に包み込もうとして、だが、実際はこちらの方が満たされていると木根は思っていた。会いたかったのだ、この小さな身体に。あの日も、…そして今日も。

 会いたいという気持ちだけが、ふたりの間の垣根を越えた。


「ああ、…本当に…夕…」
 木根は腕を伸ばすと、懐かしいぬくもりをしっかりと抱きしめた。胸の中で、すんと鼻を鳴らした人がそっと背に腕を回してくる。やはり甘くて、花のような香りがする。あれは幻想などではなかった、この人そのものの存在だったのだ。

 他の女子は知らなかったが、木根にとって、これが全てだった。夕を初めて抱いた日に、もう全てが決まってしまった。祝言の話が進んでも、自分には関係のない出来事だったのだ。そのことを手のひらから感じ取る熱が改めて告げる。

「木根様…もう、どこにも行かないで。ずっと、ここにいて。あたしと一緒にいて…」

 ずっと、長いこと。夕はこんなことを願ってはいけないと思っていた。この人との幸せなどは。でも、木根は自分の全てで夕への想いに応えてくれた。夕に操を立てるために、明るい未来を捨てたのだ。あのとき、店の皆に説き伏せられれば、こんな風に変わり果てることはなかったのに。…それでも。

「…でも、そんな。ここになど、私のような罪人が…」

「大丈夫よ…」
 夕は静かに、でもしっかりと言った。

「あの方が木根様をここに導いてくれたの。だから、木根様も選ばれた人間なのだから…大丈夫なの。ここはあの方が護られている場所。強い心を持っている者だけが入り込むことの出来る、特別な場所なの…」

「…でも」
 男の声には、まだ戸惑いの色が残っている。

「本当にあのおばあさんは誰なのだろう? 言われてみれば、最初から全てを知っているような感じだった。不思議でならない…」

「…そうね」
 夕はくすり、と小さく笑った。

「天狗様か何かかと思ったわ。人と違うものを持っている気がする…」

 

………


 涼やかな夜半の気が、窓辺の布を揺らす。ふっと燭台の灯りが消えて、辺りは闇に包まれた。木根の長い指が白い顎を辿る。くすぐったそうに首をすくめながら、見上げる瞳が輝いている。

「…好きだよ、夕」
 静かに湿ったぬくもりを落とす。口づけが胸を満たす愛情を運んでくることを、長い間忘れていた。どうして、二度と会わずに済むと思ったのだろう。こんなに愛おしいのに。再び抱きしめてしまえば、もう二度と腕を解けなくなるのに。

 あの日、どんなに辛く別れたのだろう…。それすらも、もう懐かしい痛みだ。

「あたしも、木根様が好き。一番好き…」
 うっとりとそう呟くと、そのまま折り重なるようにしとねの上に崩れた。


「…どうしたの? 震えてる…」
 頼りない帯を解くと、現れた白い肌が、小刻みに振動を伝えていた。寒さからではないその震えに木根の指先が気付いて訊ねる。

「…怖いの?」

「…いいえ…」
 蚊のなくような心細い声で夕が答える。開かれた衣の襟をぎゅっと押さえて、頼りない視線をそらす。

「久しぶりで…どうしていいのか分からなくて…」

「やだな…夕」
 木根はやさしく細腕を取ると、両側に開き、胸元にそっと唇を寄せた。

「そんな風に可愛らしいことを言うと、私はもう止まらなくなるよ…?」

 夕の身体は昔のままだった。いや、あのころよりももっと美しく、綺麗に輝いているように見える。

 たくさんの男たちに抱かれ、身体を開いているのは仕方のないこととは知りながら、それでも柔肌に残る紅い痕は木根の胸を突き刺した。この人は決して自分のものにはならないのだと、絶望に陥りそうになったことも少なくない。

 でも、会いに行く。どうしても会わずにはいられない。口惜しかった、死ぬほど、やるせなかった。

「これからは…もう、私だけのものだ。誰にもやらない…夕は私だけのものになるのだから…」
 うわごとのように呟きながら、白い肌を染めていく。木根の手のひらが辿った部分が、ほんのりと色づいて艶やかに輝きを増していく。唇を寄せれば、弾力のある肌がやわらかく受け止めてくれる。

「ああ…本当に? 本当に…うれしい…木根様が、こうして…」
 たどたどしく愛撫に応えていた身体も徐々に昔のたかまりを思い出していく。静かに火を残す熾き火のように、くゆらす赤がお互いの中に宿る。

 たくさんの花びらを肌にまき散らしながら、夕が女子としての悦びを思い出している頃、木根を迎える泉はもう溢れんばかりになっていた。それは不条理な営みによって無理矢理に開かれたものではなかった。ただひとりの人を求めて、大切に想うからこそ満たされる。

「あっ…、ああっ…んっ…!」
 びくびくっと身体をのけぞらせながら、木根を受け入れると、夕の口元からは耐えきれずに高い喘ぎ声が漏れた。慌てて口を塞ぐ。

「そんな風にしないで。ちゃんと、声を聞かせて…」

「だ…だって、恥ずかしい…いやっ…うんっ…!」

 夕は自分を満たす情熱の熱さに胸を震わせた。こんな風にされて、こんな風に揺らされていたのか。もうあまりに遠いことで覚えていない。でも、確かに、これを待っていた。身も心もこの人で一杯にしてしまいたかった。

「木根様っ…、木根様っ…!」

 思わず身体を浮かせ、その人に抱きつく。目眩がするほどの幸福感、頭の中がふわふわして、身体が飛んでいる気がする。必死に我が身を貪る身体が、たまらなく愛おしかった。

 

 ただひとり。この人の腕の中だけで歌う小鳥になりたかった。

 もしも籠の中に閉ざされるなら、この人の腕の中が良かった。羽ばたいても必ず戻る。夕にとっての心の砦。囚われたとしても、それが本望。

 

「ああっ…、夕っ!」
 その時を、ふたり同時に迎え、しっかりと抱き合ったままのぼりつめる。ほとばしる汗と、高鳴る鼓動がふたりを違う世界にまで飛ばしていった。

「夕…、ああ、夕…」
 お互いにくしゃくしゃになった頬をたぐり寄せ、余韻に浸る。

 木根はやつれたその身体からは信じられないほどに情熱を持って夕を求めた。本当にこの世のものとは思えないほどの力強さに、夕は何度も確かめるように背中をかき抱いた。この腕を放したら、どこかに行ってしまうかも知れない。そんなのは嫌。だって、せっかくこうして再び巡り会えたのだから…!

 

………


 ふたりの夜は終わらなかった。

 お互いの時間を埋めるように何度も何度も肌を合わせて、確かめ合った。けだるい余韻に浸るまもなく、夕は何度も翻弄されて、意識の海を浮遊した。最後は身体の内側から溶けてしまうのかも知れないとすら思った。

 

 辺りが白々と潤む頃、ようやく我が身を抱く腕が静かになる。でもそれはまだ止まることはなく、夕の身体を余すことなく確かめていた。

「…大丈夫…だろうか?」
 額に落ちる熱のあと、呟かれた言葉。夕はとろとろと眠り掛けた意識を戻される。

「え…?」

 木根の視線は夕を通り越して、向こうに眠っている幼子に向かっていた。

「私のことを…あの子はきちんと受け入れてくれるのだろうか? 昨日はひどく取り乱していたし…これからどうなるのか、心配で…」

「…まあ」
 夕はあまりにも気弱なその言葉に、小さく笑ってしまった。それから、そっと胸に額を押し当てる。

「大丈夫だわ…だって、これから、あたしたちは家族になるのだもの…これからが、全ての始まりなのだから…」


 明けていく朝は新しい輝きを連れてくる。昨日までのよどんでいた空気を吐き出すように。地に足をつけ、しっかりと立ち上がって、そこから歩き出せばいい。

 あの森の入り口で。一度死んだのかも知れないと、思うことがある。あそこで全てを捨てて、そして全てを新しく蘇らせた。


 静かな寝息を立て始めた腕に抱かれ、しばしの休息を味わう。新しい朝に想いを馳せながら…夢の向こうに腕を伸ばしながら。夕は心の羽を広げ、緩やかに飛び立っていた。

 

 …新しい光を、求めて。

完 (030306)



 

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