TopNovel花染めの指先・扉>花染めの指先・1


…1…

 

 

 短い休暇を終えた学舎には、また元通りの賑やかさが戻ってきていた。

 元はこの一帯を治める地主が屋敷から溢れた家財を収める貯蔵庫として使っていたというこの場所は、細長い建物の中が細かくいくつもの部屋に区切られている。入校した頃には一体どこに何があるのかを覚えきれずかなり苦労もしたが、半年以上を過ごしたこの頃では目を瞑っていても目的地にたどり着くことが出来るようになっていた。
  広大な敷地は念入りに手入れされており、窓の外に目をやるだけでその美しさを心ゆくまで堪能することが出来る。四季折々に咲き乱れる花たちの中には故郷では一度も見たことがなかった珍しい種のものも多く、その可憐な姿を眺めていれば時間などいくらあっても足りないくらいだ。
  そして、さらにその土地全体をすっぽり覆い尽くす山々。明日の服飾職人たちを育てるまなびやとしては最高の環境であると言えよう。

 ―― それにしても、騒々しいこと。

 自分の身丈ほどもある大きな布束をいくつも抱えた季紗(きさ)は、その細腕に感じるよりももっと強い苦痛を耳にその白い肌に受け止めていた。
  講義の終わったばかりの作業室で無駄話に花を咲かせている彼らのことを、同じ立場の仲間だと感じたことなど一度としてない。長い廊下をひとり進みながらも、どうにかしてこの喧噪から逃れて少しでも静かな場所に逃げ込みたいと願っていた。

「あらあ、珍しいお顔ですこと」

 しかしそんな想いも虚しく、丁度部屋のひとつから顔を出した女子(おなご)に呼び止められてしまう。黄金に光る髪をゆったりと垂らし花色の衣をまとったその者は、季紗と同じ染色科専攻の候補生だった。

「そのご様子では、このたびもご自宅には戻られなかったようね。勉強熱心なのはご立派ですけど、ご家族の方がさぞ寂しがっていらっしゃることでしょう。ほら、こちらに皆さんお揃いで珍しい菓子など楽しんでいますのよ。たまにはご一緒なさいません?」

 香りの良いおしろいに、華やかな色合いの紅。自分とそう変わらない年頃の娘の美しさに、たとえようのない違和感と気後れを感じる。南峰の集落出身者の象徴でもあるその髪の色は季紗と同じもののはずだったが、ただ無造作に後ろで結わえたそれが元は同じ輝きを持っていたなどとはどうしても信じることが出来なかった。もちろん、化粧などその仕方も忘れてしまうくらいご無沙汰になっている。

「……いえ、わたくしは」

 好意から誘ってくれているのだとは知りながら、ただ煩わしいとしか感じられなかった。小さくかぶりを振りながらも、部屋奥に集まっている十数人とおぼしき集団をちらりと見やる。長々と休暇を楽しんできたというのに、どうしてまだあんなにもくつろぐことが出来るのだろう。こうしているうちにもやりたいことが後から後から浮かんでいく。季紗には彼らのだらけた行動が全く理解できなかった。

「そんな風に仰らなくても良いでしょう。……ねえ、たまには私たちにもお付き合いくださいな。染色業を営んでいるというご実家のことも教えていただきたいわ」

 元来、南峰の民は人懐っこい性格であると言われるが、彼女こそはその典型的な者と言えよう。同郷であると言うだけで、気の乗らない相手にここまで親しげにしてくれるとは。一方、あちらに見えるのは、赤い髪、銀の髪。三つの集落の丁度重なる場所に置かれているために、ここは他になく多様な種族が集まっていると言われていた。

「止めなさいよー、いくら言っても無駄だから」

 ふたりのやりとりを遠巻きに眺めていた者たちのひとりが、とうとうしびれを切らして声を投げてくる。

「季紗様はひとりがお好きなのよ。そんなこと、あなただってとっくに分かっているはずでしょう?」

 仲間を取り仕切っている赤髪のその女子は、燃えるような容貌にぴたりと見合った気の強さを持ち合わせていた。その声に合わせて、周囲の取り巻きたちがどっと笑い出す。そしてあれこれと囁き合いながら、珍獣でも眺めるような眼差しで季紗の方をちらちらとうかがっているのだ。

「はあい、今行くわ」

 ようやくしつこい誘いから解放されて、ホッと胸をなで下ろす。嫌みな言葉たちに胸が少しも痛まなかったのかと問われれば否定は出来ないが、無理に彼女たちに付き合って過ごす時間の長さを思えばむしろこの立場は幸いであった。

「じゃあ、季紗様。この次の機会は是非に、ね」

 にこやかに笑みを浮かべる彼女の本心だって、実は分かったものじゃない。季紗の実家が染色を生業とする一族だというのは確かなことだが、今やその傾きぶりといったら見るも無惨なものだ。父親は自分の代で全てを失うことだけは避けたいと躍起になっているが、ひとり娘の季紗だけではどうすることも出来ない。
  否、彼女本人としてはこうして恵まれた環境に身を置き専門の技術を習得することで、少しでも実家の力になれたらと願っていた。そのために人一倍真面目に学んでいたし、この半年でかなり腕を上げたと自負していている。しかし両親を含め周囲の誰もが、そのささやかな志に難色を示し続けるのだ。せっかくの休みに舞い戻ったとしても、顔を合わせれば小言ばかり。かえって気疲れしに行くようなものだ。
  ここで学ぶことが出来るのは、わずか一カ年。すでにもうその半分が過ぎてしまっている。そう思えば、いくら休憩時間とはいえ実りのない談笑に加わる気にはなれなかった。もちろんあちらもそれを望んでいないのだから、おあいこというところか。

 少しばかりのやりとりのあと、何事もなかったかのように再び歩み始める。いくら身につけても羽根のように軽いと言われる上質の絹も、このように布束にしていくつもも抱えれば大仕事だ。気の利いた者なら、力のある男子訓練生にその役を頼んでしまうところだろう。時代は変わり、ここでは男女が共に机を並べて学べる環境になっていた。

「俺もそろそろ行くよ、ごちそうさま」

 そのとき、先程の集団の中にいたひとりがそう声を上げる。彼は引き留める女子たちの手を逃れ、美しく染め上げた濃紺の袖を翻した。ここではかたちこそ異なるが男女とも皆が「作業着」と呼ばれる衣を身につけている。男子のそれは上下が繋がっていて腰帯で締めるようになっていた。
  衣はそれをまとう人間が異なれば、その価値までが変わってしまうと言われている。すらりと上背があるその男には、深い紺の色がとても似合っていた。あれは一見誰にでも似合うように思えるが、実は扱いの難しい色目である。蒼系の深い色は、なまじ上品で落ち着いた印象があるだけに、上手に合わせないと衣だけが悪目立ちになってしまう。

「えーっ、まだいいじゃない。もう少し、ここにいらしてよ、凱(ガイ)様」

 先程の赤毛の女子が、まるで別人のような鼻に掛かった甘え声を出す。他の者たちからも次々と引き留める声が上がったが、彼はその全てをさらりと受け流した。高い場所でひとつにくくられた髪は、黄金の色。

「いや、それが駄目なんだ。昨日から漬け込んだ染め物が、そろそろいい具合になっているはずだからね。それを引き上げてみなくては」

 その後もやりとりが続いていた様子だが、季紗は構わず先を急いだ。窓の外、すぐそこまで迫ったひと枝が芳しい香を放つのに気を留めることもなく。

 

◆ ◆ ◆

 ただいまの竜王様は、かなり斬新な政(まつりごと)を執り行うことで広くその名を知られていた。古の頃よりこの地に根付いていた因習の数々を根本から洗い直し、かなり大がかりな改革を手がけておられる。多少の行き過ぎがあるのではないかと反論を唱える声もあったが、何よりも民衆の暮らしを一番に考えたやり方は多くの者たちに快く受け入れられていた。
  職業訓練校を様々な土地に展開したのも、その試みのひとつである。以前この地では、世襲制度が広く行き渡っており、ほとんどの者たちは生まれ落ちたその時から自分の一生をはっきり決められていた。もちろん家督を継ぐ必要のない世継ぎ以外の者ならば、自分の希望する職を目指して師を仰ぐこともあった。しかしそうするにも様々な因習があり、なかなか思うように進まないことが多い。
  せっかくの優秀な才能が、花開くこともなく摘み取られてしまうのはあまりにもったいない。それならば同じ志を持つ者たちをひとつの場所に集め、良き師をに付いて学ばせることで広く門戸を開こうと言うのだ。その内容については様々なものが用意されていたが、季紗が学ぶここはその中でもかなり整った施設になっている。
  先代の竜王様のただひとりの姫君、今は竜王様の正妃となられた御方であるが、その方がたいへんな刺しものの腕前を持ち、前々から都に腕の立つ若い者たちを集めてはその技術を習得させていらっしゃった。そこで腕を磨いた者たちがやがて故郷に戻り、今は自分たちの元に集まった者たちにそれを伝えている。
  とはいえ、刺しものは匂い袋のような小物を除いては庶民の手の届かないものであったから、代わって訓練校では身近な存在である染め物や染め絵、また織物などを中心に学ぶことになっていた。
  中でも色とりどりに染め上げた布地の上に筆に絵の具で直に染め付ける仕事にはとくに人気があり、受講生も桁違いに多い。その道の熟練はやはり男子が多いと言われていたが、この頃では女子もそこに堂々と名を連ねるまでになった。
  比較的安価に求めることが出来、また様々な技巧が施せることもあって、染め絵で美しく彩られた衣は女子の間で晴れ着の基本とされている。自分の好みに合うものが簡単に作り出せるとなれば、小遣い稼ぎを超えた収入になりそうだ。将来家庭に収まってからでも空いた時間をあてることが出来、家計の支えになれるだろう。

 ―― だけど、わたくしは。あのような浮ついた方々とは目指すものが全く違うのだから。

 全くもって、嘆かわしいばかりである。少なくはない学費を親に払わせて学ぶ者としてはあまりにお粗末な輩が多く、気を張って入学してきた季紗は早々に肩すかしにあってしまった。講義や実習を真面目に受けている者はまだ少しはましな方で、中には適当にさぼる理由を見つけては面白可笑しく過ごしていればいいと考えている呆れた者たちもいる。しかもそれが結構な人数に上るのだから、救いようがない。
  これでは当初のもくろみが全く外れているではないか。いくら広く優秀な人材を集めるためとは言っても、もう少し入学の時点で選別を行って欲しいと思う。まあそうなればなったで敷居が高くなり、具合が悪くなるかも知れないが。とにかく難しいものである。

 女子の「作業着」は、町娘の身につけている衣をもう少し丈を詰め袖を短くしたものであった。膝がギリギリ出るかでないかのもので、古い考えの者がみたら「何てはしたない」と目を三角にしそうななりである。季紗はその上から腰の下をすっぽり覆う染色用の前掛けを身につけていた。これをするとどうしても野暮ったく見えてしまうが、足さばきをいちいち気にするよりはよっぽど都合がよい。
  元は綺麗に染め上げた萌葱色だったそれも、この頃では見る影がないほど色が褪せほころびも出てきていた。上に付けた小豆色の前掛けも同様である。しかもそのどちらにも、染め汁のシミが無数に飛んでいた。

 

「おい、待てよ。そんなに急ぐこともないだろうに」

 先ほどから、通路を進む草履の音が次第に近くなって来ていることに気づいていた。しかもそれが誰のものであるかも容易に分かってしまうのが憎らしい。まあ、向かう場所が同じなのだから仕方ないということか。

「それ、重いだろ? 半分手伝おうか」

 返事もせずに先を急いでいると、さらに声が飛んでくる。辺りには他に人影は見えない。忌々しく思いながら、季紗はようやく足を止めた。

「……別に、そうしていただく必要はございませんわ」

 頭ひとつ分も上背が違う男をちらりと見やり、そのまま再び歩き出す。本当のところ、口を開くのも面倒であった。

「ふうん、無理することもないのに。全く、強情な奴だな」

 なんと言われようと、気にすることもない。季紗は自分にそう言い聞かせると、先を急いだ。しかし、いつの間にかほとんど隣に並んだ男は、まだしつこく絡んでくる。

「今回の休暇も家に戻らなかったんだって? そりゃ、だいぶ作業が進んだだろうな。裏庭にいくつも干してあったあれ、全部君が染め上げたものじゃないかい? すごいじゃないか」

 曲がりくねった通路はどこまで行っても果てがないように思われる。煮炊きする作業が欠かせないため、染色の作業場は学舎の中でも一番裏手の一角があてられていた。

「―― 別に、大した仕事でもございませんわ。それに失敗作ばかりですの、なかなか思うように染料が配合できなくて」

 そんな言い訳をする必要もなかったが、あの程度で自分が満足していると決めつけられるのも腹立たしい。いろいろ新しい試みをするのだが、どれもこれも中途半端で想像したとおりには色が出ないのである。それでも気になる点をいくつか修正し、これからまた新しい釜を始めるつもりであった。

「ま、さすがは才媛、と言ったところかな」

 こちらの棘のある言葉もひらりとかわし、男は飄々とした感じで話し続ける。

「こっちもだいぶ煮詰まっているし、少しはお知恵拝借と行きたいところだけど……そう言うのも君にとっては時間の浪費っていう奴なんだろ?」

 分かっているなら、わざわざ確認しなくたっていいじゃない。心の中で季紗はそう独りごちする。

「決まっているでしょう、だいたい我が家に先祖代々伝わる門外不出の技を誰彼となくお教えする訳にはいきませんわ」

 こんな風に言い切ってしまうのは、多少後ろめたくもある。しかし季紗はあえて、相手を威嚇する道を選んだ。案の定、男はおやおやという表情になる。

「川向こうの染物屋がここまで強情だとはね。だいたい、全くの他人と言う訳じゃないだろう。俺は昔から君のことは良く知ってるしね」

 しかし、その言葉にも季紗は心を動かすことがなかった。

「わたくしは、あなたのことなんて少しも知りませんでしたから。それに、これから先もお近づきになることはないと思われますわ」

 

 やがて、たとえようのない複雑な香りが漂ってくる。季紗としては幼い頃からなじみ深いものだが、嗅ぐ者によっては吐き気がするほど耐えられないのだと言う。同じことならこの男にとってもそうであってくれたら良かったのにと思ってしまう。

 ふたりは入り口のところで別れると、それぞれが一番奥の離れた釜の前に陣取った。

 

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