…2…

 

 

 染料の調合とは、なかなかに骨の折れる作業である。

 その種類も形状も様々であるだけに、ただひとつの釜に全てを入れてかき混ぜればいい―― とはならない。樹木の表皮や木の実などは前もって煮詰めて色出しをする必要があるし、粉末状であれば場合によっては油脂の含まれた液で溶かしておく必要があった。扱い方や加える順序を間違えれば、全ての苦労が水の泡。想像もしなかったひどい色味になってしまうことも少なくない。
  もちろん、駆け足で多種多様な技術を習得しなければならない候補生にはそこまでの技術は望むべくもなく、訓練校ではあらかじめ適当な色味になるように調合された混合液が準備され、その中から好みのものを選ぶだけで良いとされていた。
  だから、こうして幾日も掛けて独自の調合を続け、釜の前に居座り続けるさまは「物好き」と呼ばれても仕方のないことなのである。それこそ、衣にも髪にも独特の匂いが染みついて落ちなくなるし、長時間刺激物の多く含まれた湯気に当たり続けていれば肌にも良くない。口の悪い同輩の中にはそんな作業を飽きることなく続ける季紗を、陰で「魔女」と呼ぶ者すらいた。

「よほどこの香りがお好きなのね、私などのような凡人にはとても理解できないけど」

 暗に「何て物好きな」と言いたげな響きでそう言われても、黙って目を伏せる他なかった。なんと言って受け答えをしたらいいのか、その方法すら思い浮かばない。自分以外の誰かと接することは、季紗にとってただ恐怖でしかなかった。
  無理もない。この地にやって来て、初めて同年代の者たちと触れ合う機会を得たのである。最初のうちはそれでもどうにかして周囲に溶け込みたいと無駄な努力もしてみた。だが、相手の顔をきちんと見て話をすることはおろか、自分に問いかけられた言葉に簡単な返事をすることすら難しい。そのたびに身体中の血液が頭にのぼり、立ちくらみにも似た症状を覚えた。
  あまりにもおぼつかなくしていれば、いつかは誰も相手にしてくれなくなる。潮が引いていくように自分の周りから人気が消え、ぽつんとひとり残されたことで季紗はようやく心の平穏を取り戻すことが出来た。どんなに寂しく感じようと、心が安定している方がずっといい。

 気づけば、ひとりきりでいることこそが自分らしいと感じるようになっていた。

 

◆ ◆ ◆


 仮にも商家の娘として生まれながら、ここまでになってしまったのには訳がある。季紗は孤独だった、生まれ落ちてから今日までずっと。もちろん、実家では職人や仲買人の出入りも多く、絶えず人の声がしていた。しかし、それは単に「物理的な」こと。両親を含め、彼女のことを心から必要とし大切に想ってくれる人間はひとりも存在しなかった。

「危ないから、他に行ってろ。ここには近づくな」

 よく言えば仕事熱心であった父は、幼い娘が作業場に近づくことを決して許さなかった。屋敷の倍もある広さの建物で、「何か」が行われている。ちょっと覗いてみたいだけなのに、厄介者を見るような目で追い払われてしまう。そうされることで、自分自身の存在までが拒絶されている気がした。
  そう感じられてしまうのは、何も季紗の思いこみだけではなかったように思う。父は何かに付け、娘ひとりしか産むことの出来なかった母に冷たく当たり、予定通りにいかないことが起こるたびに季紗たち母子のせいにして罵った。

「全く、女子としての務めひとつ果たせないとは」

 彼はそのことを外に女を囲うことへの体のいい言い訳にもしていた。元来、好色なたちでもあったのだろう。しかし、その者たちのどれにも子を産ませることが出来なかったとなれば、季紗の母に対する言葉も信憑性に欠けるというものだ。もちろん、そのことを指摘できる強者など、屋敷にはただのひとりも存在しなかったが。

「何があろうと、父上に逆らってはなりませんよ」

 季紗の母は、横暴な夫にも大人しく従う人であった。あのように苦労ばかりを重ねていては、今に身体も心も参ってしまうのではあるまいか。子供心にもそう思えてしまうほど、か弱く哀れな人。そんな母を守れない自分が情けなくて仕方なかった。
  使用人たちの噂話によれば、父と一緒になる前の母には別に婚約者がいたらしい。それなのに家同士の話し合いで気がつけば相手を替えられて、しかもこの扱いである。何故ここまでして堪え忍ばなくてはならないのか、母の人生は一体なんであったのか。

 ―― それもこれも、わたくしが女子などに生まれてしまったのがいけないのだわ。

 同じひとり子であったとしても男子であれば家業を継ぎ、立派にその役目を果たすことが出来る。それを思い知らされるたびに、季紗の心はさらに荒んでいく。それでも彼らは他に替えることの出来ない大切な両親、少しでも自分の役に立てることがあればと願うしかなかった。

 幼い季紗には遊び相手もなく、いつもひとりきりで取り残されていた。
  職人や使用人の子らも近所に多く住まっているのだが、その者たちは決してこちらに近づいて来ようとはしない。主様の娘に間違って怪我をさせたりしたら、それこそ大変なことになる。子の親たちはそう思って止めていたのかも知れないが、季紗にとっては彼らに嫌われ仲間はずれにされているとしか考えられなかった。
  職人の他にも細々とした雑用を引き受ける使用人が幾人か雇われていたが、その者たちもそして季紗の母も人手の足りない作業場に入ってしまう。臆病で大人しい子供ならば、ひとりで置いておいてもそれほど危ないことをする心配もない。そう思われていたのだろうか。

 周囲に誰もいなくなってしまえば、もう何をしようと咎める声もない。作業場の裏手は大きな空き地になっていて、たいした手も入れられず荒れ放題になっていた。作業場に向けていくつもの水路が造られており、その先は敷地の外れにある大河に続いている。そこは立派な大人も泳いで渡ることが不可能と言われているほど流れが速くそして深い。
  水場には色とりどりの草花に羽虫たち、さらにさえずる鳥たちもいて一日中眺めていても飽きることはなかった。水路に木の葉や花びらを浮かべてその行く手を追ってみたり、自分の背丈よりも高い草の間に小鳥の巣を見つけてみたり。たまには大河のすぐ側まで下りていってどこからか流れ着いた貝殻を拾ったりもした。
  話し相手などいなくても、寂しいなどとは思わない。季紗は常に自然という大きな手のひらにゆったりと護られていて、安全だった。

 大河の向こう岸にはやはり広々とした河原が広がっている。そこからはいつも賑やかな子供たちの声が聞こえていた。こちらの様子に気づかれないように注意しながら覗けば、自分と同じ金の髪をした子らが八人、十人と見たこともないほど大勢で遊んでいる。皆、色とりどりの美しい衣を着て楽しそうだ。自分と同じくらいの年頃かなと思ったが、何とも不思議な光景である。
  一体あれはどんな境遇の者たちなのか、長いこと季紗はそれを知る術もなかった。男子(おのこ)も女子(おなご)もいる。よほど面白い遊びをしているらしく、流れる気に運ばれてくるのは明るい笑い声ばかりであった。
  その中に、ひときわ目立つ衣をまとった背の高い男子がいる。子供ながらに髪をすっきりとひとつにまとめ、皆をまとめる役目を果たしていた。大勢でいるためにすぐに諍いも起こるが、彼がひとことたしなめれば、途端に何事もなかったかのように元通りになる。一体どういうことだろうと思った。

 ある夜、とうとう自分の気持ちを抑えきれなくなり、寝かしつけをしてくれる使用人にそのことを訊ねてみた。そうすることは季紗にとってとても勇気のいることであり、しとねの中で身体が大きく震えて止まらない。しかし、年配のその者は忌々しげな口調でひと言吐き捨てた。

「そのようなこと、二度と口になさらずに」

 まるで自分がとんでもない悪人になってしまった気がして、季紗は悲しく唇を噛みしめた。幼い頭では難しいことは何も分からない。ただ、陽の当たる温かな向こう河原に集うあの者たちとは決して関わり合ってはならないのだと言うことだけははっきり思い知ることが出来た。

 それでも彼らの声は、なおも季紗を誘うのである。もしもあちら岸に渡ることが出来たなら、どんな楽しい時間が待っているのだろう。彼らがそれぞれに持ち寄った包みから取り出される菓子は、見たこともない美しい品々であった。こちら岸とは全く違う裕福な生活があちらにはある。薄もやの中に見え隠れする遠い場所には、季紗の家のそれよりもずっと立派な作業場が建っていた。

 ―― わたくしは悪い子だから、あちら岸に行かせてもらえないのだ。

 季紗のまとう衣は、母の古着を小さく仕立て直したものである。繰り返し洗ったために色も落ち、あちこちがほころびていた。それでもこれは、両親が職人たちを大勢使い朝から晩まで働いて与えてくれるもの。もっと美しい色目の品が欲しいなどと、どうして口に出来よう。

 

◆ ◆ ◆


 机に向かっての講義はとても緊張する。老師と呼ばれるこの道の熟練たちが自らの経験に基づいた知識を余すことなく伝授してくれるのだ。その一言一句を取りこぼしのないように書き留めたいと願うのであるが、そのことばかりに夢中になっているとあっという間に話において行かれてしまう。
  文字は丁寧に美しくしたためるだけでは駄目なのだ、素早く正確に記す技術こそがこれからの世の中では重要になっていく。周囲の者たちはそのことにとっくに気づいているのかも知れないが、時代に取り残された商人の娘には初めて突きつけられる信じがたい事実であった。
  何もかもが周囲から立ち遅れている。もちろん読み書きそろばんと呼ばれるものは、適当な年齢に達した折りに師を求め、ひと通り身につけていた。だがそれを使いこなすまでには至っていない。そんな我が身が情けなく、落ち込んでばかりいる。

「季紗様、ちょっとよろしいかしら?」

 休憩時間になってからも、自分が書き散らした文字たちを判読する作業に追われていた。ところどころ急ぎすぎて意味の分からなくなっている箇所がある。記憶が新しいうちに穴を埋めておかなくてはあとで大変だ。
  そんな風にして眉間にしわを寄せていると、背後から柔らかい声がする。名を呼ばれたので顔を上げると、そこに立っていたのはあどけなさを残した微笑みの女子であった。

「湖東(コトウ)老師に提出する下絵、私が集める係になっていますの。季紗様からはまだいただいていなかったと思うのだけど」

 柔らかな金の髪には控えめに飾り紐が編み込まれている。同じ南峰の集落出身であるが、先に季紗に声を掛けてきたお節介な者とは別人だった。見事なあかね色に染め上げられた作業服にもシミひとつない。

「あ、……ごめんなさい。こちらをお願いします」

 今日が提出期限であることをうっかり忘れていた。上手い言い訳も詫び言葉も思いつかず、顔ばかりが赤くなる。朝のうちに係の者に渡さなくてはならなかったのに、情けないことだ。二つ折りになった木製の絵入れから墨絵の一枚を取り出して差し出す。それを目にした彼女は興味深そうに見入った。

「まあ、相変わらず独特の筆遣いでありますこと。勢いが良くて、紙からはみ出てしまいそうではありませんか。季紗様のお描きになりたいものは、きっと窮屈な場所には収まりきらないのですね」

 歯の浮くような褒め言葉ではあるが、この者の口から出ると不思議と嫌みには感じられない。ふわりと優しい雰囲気で立ち振る舞いも愛らしく、誰にでも分け隔てなく接するので皆から慕われていた。
  同じ集落の血が流れているというのに、どうしてこんなにも自分とは違っているのだろう。南峰の民の手本とも言うべき気性を目の前にすると、季紗はいつも自分の愚かさに打ちのめされる気がする。しかしそのことを心優しい女子に悟られるのは嫌だった。

「いえ、これは……全体の大きさを把握しないで描きだしてしまったから。また老師からお叱りを受けると思います」

 時間さえあれば、もっと良いものを新しく書き直したかった。だが他の課題の提出期限も迫っており、ひとつのことだけに手間取っている暇はない。写生は季紗の特に苦手とする分野で、毎回ひどく時間が掛かるのに出来上がりが貧弱なものになってしまうのだ。

「まあ、そんなご謙遜を。絵には描き手の心内がはっきりと表れるものだと申しますでしょう。凱などはそのことをひどく気にしておりますの。正確に描こうとするあまり、いつも小さくまとまりすぎてしまうから。とはいえ、彼の筆遣いはとても見事なものだと私は思いますけど」

 ほらご覧くださいませ、と差し出されたのは水辺の草花を瑞々しく写し取った一枚。どうしてここまで描ききれるのか、と驚いてしまうくらい繊細な筆遣いでひとつの世界が完成されている。あの者に非凡な才能があることは、ここに入校してすぐに分かった。

「―― 確かに、男子にしては広がりに欠ける向きはありますね」

 わざと冷たく突き放した季紗の言葉に、彼女は意外そうな顔になった。もちろん、褒め言葉のいくつかを添えていい仕上がりなのは分かっている。しかしここで白旗を揚げることはどうしても出来ないのだ。

「ま、まあ……それでも私は凱のことを信じておりますわ。彼は必ず素晴らしい職人になりますから。そう言えば、聞きましたわよ。この休暇にも季紗様はかなりたくさんの素晴らしい染め物を完成させたとか。何故あのような色味を出せるのかと、凱がたいそう悔しがっておりました。あれで負けず嫌いなところがあるのですね、驚きましたわ。でもそれも当然のことかも知れませんわね」

 そう語りながら、嬉しそうな微笑みを浮かべる。何故いつまでもこのような話を続ける必要があるのか、季紗には彼女の考えが全く分からなかった。提出物を回収し終えたなら、さっさと立ち去ればいいのに。
  あの男のことを「凱」と呼び捨てにする女子、この者は麻未(まみ)という名である。ふたりはいとこ同士であり、幼い頃から一緒に育った仲だと聞いた。しかしそれだけの仲には留まらないことは仲睦まじい様子を見ていればすぐに分かる。家同士が決めた許嫁であるという噂も、あながち嘘ではないのだろう。

「まあ、……古(いにしえ)の確執など、今の世の中にはふさわしくございませんわ。季紗様もそう思われません?」

 向(むこう)河原に響き渡るはしゃぎ声。あの場所にたどり着きたくて、でも小さな子供の力ではどうすることも出来なかった。まさか、異境の地で彼らと再会することになるなんて。同じ時に机を並べて学ぶことになるなんて、運命の悪戯としか思えない。

「そのようなこと、わたくしは最初から少しも気にしておりませんわ」

 素っ気なく返した季紗の言葉に、麻未は静かに微笑んだ。その愛らしい口元に蔑みのかたちを見つけようとする自分が浅ましい。風変わりな自分にこうして声を掛けてくれ、あれこれと世話を焼いてくれるなんて有り難いことなのだ。そう思わなくてはならないのに、どうしても心がねじ曲がってしまう。

 大きな流れで分けられた、ふたつの敷地。一方には染め物屋が、もう一方には染め絵師の工房がある。互いに反目し合う両家のことが土地の人々の間で語りぐさになっていることを知ったのは、かなり大きく成長してからのことであった。面白可笑しく語られるその内容は情けないばかりで、その渦中に置かれている我が身が恨めしい。

 でも季紗ひとりがどうあがいたところで、どう変わることでもないのだ。全ては背負ってしまった運命に黙って従うまで。そのことも重々承知していた。

 

<< 戻る     次へ >>

 TopNovel花染めの指先・扉>花染めの指先・2