野外での講習は、季紗にとって心が安まる数少ない時間のひとつである。 季紗の眼差しは、そのときまさに幼子の頃に戻っていた。何を見ても胸躍る感動があり、新たな発見がある。思えば、ある程度の年齢になってからというもの、以前のように自由に野遊びをすることも出来なくなり、明るい昼間も部屋に閉じこめられて数え切れないほどの稽古事を強制された。あの辛い日々が、今も脳裏に色濃く残っている。 「どこへ出しても恥ずかしくないだけの娘に仕立てなければ、良縁にも結びつかないではないか」 お前に出来るのはそれだけだと言わんばかりに父は声高に言い切り、母もその意見に静かに賛同している様子であった。長い間「いらぬ子供」として捨て置かれてきた惨めな娘は、ようやくただひとつの使命を与えられたのである。しかし、それは季紗にとって新たなる受難の始まりであった。 ―― こんなこと、一体いつまで続けなければならないの。 いつか必ず終わりが来ることを切に願いながら、季紗は与えられた課題をただひたすらにこなしていた。そうしているうちに、自分の身体が大きな歯車のひとつになってしまったような気がしてくる。噛み合ったひとつが動けばそれに従い、また別のひとつが動けばそれに従い、自分の意思など全く必要としない。ものを考えなくて済む生活は、正しい思考能力を次第に鈍らせていく。 このままでいいのだ、何故ならこうするしか自分の歩む道はないのだから―― そう思い始めていた。もしもあと少しばかりの余裕が残されていたら、あのまま立派な抜け殻に成り果てていたはずだったのに。 小高い丘へ続く道を登っていけば、つい今し方までいたはずの中庭が広く見渡せるようになる。学舎の外に出たことで普段以上に開放的になっている他の候補生たちは、未だに作業に入ろうとはせずにあちらこちらで輪になっておしゃべりに興じていた。 ―― だから、あなた方とわたくしは違っていて当然なのよ。 青春を謳歌する若者たちとは、あまりに違いすぎる自分。とにかく時間がない、時間がないのにやりたいことや学びたいことが多すぎる。それこそ寝食を惜しんで励まなければ、とても追いつけるものではない。 それでも見る気もなしに眺め続けてしまう光景。明るいさざめきに笑い声までが、気の流れに乗ってこちらまで聞こえてくる。そのひとつにひときわ賑やかな集団があり、もしやと思って確かめればやはり「あの男」とその取り巻きたちだった。 駄目だわ、とすぐに自分を戒める。余計なことに気を取られていては作品を仕上げる時間が足りなくなってしまう。少なくとも今日は周囲に足並みを合わせる必要はどこにもないのだ。人は人、自分は自分。美しい衣や飾り紐で我が身を飾りたい者は、思う存分そう言うことに持て余している暇を使えばよい。 人目など気にせず、信じた我が道をひたすら突き進んでいく。他の皆とは目指すものが違うのだから、そのことをいちいち気に病んでいても仕方ない。 ―― もしかして、今になってもまだ渡りたいと思っているわけじゃないでしょうね。 馬鹿馬鹿しい物思いを振り切るために首を横に振り、自らを強く戒める。適当に首の後ろでひとつにくくってあるだけの髪は、主である季紗の動きに合わせてひととき気の中を緩く流れたが、そのあと何事もなかったかのように元通りになった。
迷いに迷って選んだ今日の題材は、この時期にだけ見ることが出来る繊細な姿の秋花だった。切り通しの崖の上からこぼれんばかりに咲き誇るその花枝をどの角度から眺めたら一番美しいかを注意深く吟味する。少しばかり方向を変えるだけで、がらりと顔向きを変える彼らは季紗に見つめられていることなど一向に構う様子もなくどこまでも自然体だ。 ことに絵心に関しては自信など欠片もなかった。決まり切った図案を写し取るならばどうにか格好を付けることも出来るが、このように何もない白紙の部分から描き出さなくてはならないときにはどうすることも出来ない。それでも辛抱強く繰り返し課題に取り組んでいるうちに、この頃ではどうやら人並みのものが仕上げられるようになってきた。 「へえ、だいぶ進んだみたいだな」 不意にどこからか話しかけられて、空白の時間は終わりを告げる。その声がどの方向からしてくるのかも咄嗟には分からず、季紗はきょろきょろと左右を見渡した。だが、どこにも人影など見あたらない。 「ふふ、何を探しているの? そんな風に慌てなくたって、いいじゃない」 がさり、と頭上で枝の揺れる音がして、ハッと視線を上げる。そしてようやく、声の主を見つけた。高い崖の上、大木の太い幹から伸びた枝のひとつに彼は軽業師のように止まっている。何てこと、まさか高い場所から見下ろされているとは思わなかった。 「……なっ……」 あんなに不安定な場所で平然としているなんて信じられない。失礼な態度に睨み返してやろうと思っても、そこを見上げるだけで足がすくんでしまう。 「待って、すぐにそっちに行くから。少しの間、動かないでいて」 一体何を言われているのかも分からないまま途方に暮れていると、また頭上で大きく何かがしなった。自分の上に大きな影が出来て、次の瞬間には無数の葉が降ってくる。―― そして。大人の身丈の二倍、三倍もあるような高さから、その男はひらりと飛び降りて来た。赤に黄に染まった木々の中を、鮮やかな蒼が舞う。 「―― や、お待たせ」 あまりの驚きに声も出せずにいる季紗に、彼は悠然と微笑んで見せた。いつもそうだ、この者は予想も出来ないことばかりをする。それを「斬新」という言葉で好意的に受け止めることも出来るのであろうが、それまでの人生をひっそりと過ごしてきた身にとってはただただ脅威にしか思えなかった。 「ふうん、こういう構図で見るのも斬新でいいね。この辺の枝の広がりとか、空間が上手く生かされている感じで」 何の断りもなく、彼は季紗の素描を覗き込んでいる。一呼吸ほど経ってからようやくそれに気づき、さっと後ろに隠すと、彼はますます可笑しそうに口元を緩めた。 「……ほ、他の皆はどうしたの。あなたの姿が見えなくなったら、今頃慌ててあちこち探しているのではないかしら」 あのようにかしましい者たちがやって来たら、せっかく静かに過ごしていた時間が台無しにされてしまう。そんな風にして自分の領域を侵されるのは我慢できなかった。そしてそれは、今目の前にいる男に対しても同様である。 「あいつらとは一緒にしないでくれよ、いつまで付き合ってたら仕事にならないだろ。だから適当にまいてきた」 そう言うと、彼は今まで季紗が座っていた岩のすぐ隣に腰掛けて、やれやれと両肩を回した。手足が長くすっきりとした体つきなので、どんな仕草も絵になる。ついついそんな風に考えてしまう自分を、季紗は心の奥でひっそりと恥じた。 「だけど驚いた、まさか君が下にいたとはね。こんな偶然、なかなかないと思うよ」 正直、この者とは初めて出逢ったときから全くそりが合わないと感じていた。同郷のよしみで親しく話しかけられても、どうしても気が引けてしまう。素直に言葉を返すことなどどうしても出来ず、最初のうちは何と問いかけられても全て無視し続けていた。 「べ、別にそんなことはどうでも―― 」 そう言いかけたものの、差し出された彼の素描を目にしたときに次の言葉を失っていた。俯瞰で捉えられたひと枝は白黒の簡単な線画でありながら、そこかしこに光の輝きを感じることが出来る。柔らかく垂れ下がる花弁の可憐さが、芳しく今まさに手の中にあるように思えた。 ……どうして、この人はここまで完璧に表現することが出来るのだろうか。 どんなに競ったところで、全く勝負にならないと思った。自分が喉から手が出るほど欲しい技術の何倍、何十倍ものものを、この男はすでに持っている。しかも、それはどんなに努力しても決して追いつくことはない、生まれたその時から持ち合わせている天性の才能なのだ。 「君も驚いたでしょう、だからどうしても教えたくなったんだ。まさか、同じ枝を違う角度から眺めているとはね。こんなに広い場所を与えられているのに」 何故そのように嬉しそうな顔が出来るのだろう。季紗には彼の真意が全く分からなかった。自分にとって彼が「天敵」のような存在であるならば、彼にとっての自分も同様であるはず。その理由は、彼の「苦手」が季紗の「得意」であるから。そしてそのことは、彼自身もとうに承知している。 「わ、……わたくしは、ただ何となくこの場所を選んでみただけですから。すぐに他に参りますわ」 ここを立ち去るのは名残惜しいと思った。だが、このまま男に居座られていては気が散って何も描けなくなってしまう。季紗はきびすを返すと、坂道をさらに登り始めた。 「―― あ、ちょっと待って」 もうこれ以上口をききたくもないのに、男は季紗の心内など気にすることもなくさらに話しかけてくる。いつものように無視をして通り過ぎてしまえばいいのだ。そう思ってさらに歩みを早めると、背中に声が追いついてくる。 「あの、……見たままを寸分違わずに写し取ることも確かに必要かも知れない。でもそのことばかりに気を取られていると、中身のない絵になってしまうと思うんだ。そう、何て言ったらいいのかな。まずは、描きたいその対象が投げかけてくる言葉をしっかり受け止めるといいと思うのだけど」 彼本人も、自分が伝えたい想いを上手く表現できずにいる。どうにか言葉を並べて心内を表そうとするが、なかなか思い通りにならない様子だ。しかし、その真っ直ぐな気持ちが何故か季紗の心を歪ませてしまう。 「それって、……わたくしの絵が全くなってないと言いたいだけなのでしょう?」 口惜しかった、この上なく情けなかった。どんなに頑張ってもこの者に追いつくことは出来ない、ましてや追い抜かしてさらに上を行くなど願っても無理なこと。 「別に、そう言う意味じゃなくて。……だから」 新しく言いかけたものの、やはり納得のいく言葉には至らなかった様子である。彼はそこで言葉を切って、しばらくは何かを考えていた。 「ここを入った山奥に、この樹が見事に群生している場所があるんだ。あそこに行けば君も何か分かると思う。ただ、花の盛りはもう少しあと―― 半月ほど経ってからになると思うけど」 与えられた情報は、この上なく魅力的だった。もしもそのような場所があるなら、是非訪れてみたいものである。この地に来て初めて目にした「香り花」と呼ばれる秋花は、群れて咲くことは少なくわずかな枝を見つけるだけでも困難を極めた。一度で良い、あの淡い香りに包まれて夢のような時間を過ごしてみたい。 「―― そんな話、誰が信じるものですか」 そう突っぱねてみたものの、一度思い描いてしまった幻想が脳裏から離れない。その夜から、季紗は見たこともない花園のことばかりを夢見るようになっていた。
|