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 野外での講習は、季紗にとって心が安まる数少ない時間のひとつである。
  特に今日のように、決まった課題も与えられずおのおのが広い敷地内の好きな場所で自由に写生できるとなれば、人気を避けた場所を選ぶのも容易だ。誰に咎められることもなく心ゆくまで作業に没頭できるとは、何て楽しいことなのだろう。
  野山は折しも秋の花と実りの季節。赤や黄に色づいた木の葉も美しく、どこを切り取っても最高の構図になる。天から降り注ぐ柔らかな日差し、ゆるやかに流れていく気も涼やかで申し分ない。写生用の木炭と紙の束を抱えて、最高の場所を探して歩き回るのも楽しいひとときであった。

 季紗の眼差しは、そのときまさに幼子の頃に戻っていた。何を見ても胸躍る感動があり、新たな発見がある。思えば、ある程度の年齢になってからというもの、以前のように自由に野遊びをすることも出来なくなり、明るい昼間も部屋に閉じこめられて数え切れないほどの稽古事を強制された。あの辛い日々が、今も脳裏に色濃く残っている。

「どこへ出しても恥ずかしくないだけの娘に仕立てなければ、良縁にも結びつかないではないか」

 お前に出来るのはそれだけだと言わんばかりに父は声高に言い切り、母もその意見に静かに賛同している様子であった。長い間「いらぬ子供」として捨て置かれてきた惨めな娘は、ようやくただひとつの使命を与えられたのである。しかし、それは季紗にとって新たなる受難の始まりであった。
  今日は算術、明日は書写、と日替わりでその道の達人が館を訪れる。しかし、そのどれもが判で押したように陰気くさく、こちらがどんなに興味を持って臨もうともたちどころにやる気を削がれてしまう。これもある意味では師として類い希にみる才能なのかも知れないが、教えられる方とすればただの災難でしかなかった。

 ―― こんなこと、一体いつまで続けなければならないの。

 いつか必ず終わりが来ることを切に願いながら、季紗は与えられた課題をただひたすらにこなしていた。そうしているうちに、自分の身体が大きな歯車のひとつになってしまったような気がしてくる。噛み合ったひとつが動けばそれに従い、また別のひとつが動けばそれに従い、自分の意思など全く必要としない。ものを考えなくて済む生活は、正しい思考能力を次第に鈍らせていく。

 このままでいいのだ、何故ならこうするしか自分の歩む道はないのだから―― そう思い始めていた。もしもあと少しばかりの余裕が残されていたら、あのまま立派な抜け殻に成り果てていたはずだったのに。

 小高い丘へ続く道を登っていけば、つい今し方までいたはずの中庭が広く見渡せるようになる。学舎の外に出たことで普段以上に開放的になっている他の候補生たちは、未だに作業に入ろうとはせずにあちらこちらで輪になっておしゃべりに興じていた。
  こうして上から眺めてみれば、改めて海底のあらゆる地域から多種多様な民族が集まった訓練校であることを実感する。赤に黒に茶、それから銀に金。さらにそれらが複雑に混ざり合った髪の色があちらに動いたり、こちらに来たりと楽しそうだ。
  染色や染め絵はまだまだ需要が供給を遙かに上回る市場であったし、日常的に身につけるものであるから親しみを感じるという理由もあるのだろう。毎年入校希望者は増え続けるばかりで、今年も五人に一人の確率であったと聞く。同じ候補生の中にも昨年、一昨年から希望を出し続けていてこのたびやっと、という者もいた。
  そう言う意味では初回の申し込みで希望が通った季紗は、かなり恵まれている立場にあると言っていい。それも彼女の場合は、今回ひとたびの挑戦しか許されていなかったのである。正式な文が屋敷まで届けられたときには、あまりに信じられなくてそのまま人気のない場所まで走り土の上に泣き崩れてしまったほどだ。

 ―― だから、あなた方とわたくしは違っていて当然なのよ。

 青春を謳歌する若者たちとは、あまりに違いすぎる自分。とにかく時間がない、時間がないのにやりたいことや学びたいことが多すぎる。それこそ寝食を惜しんで励まなければ、とても追いつけるものではない。

 それでも見る気もなしに眺め続けてしまう光景。明るいさざめきに笑い声までが、気の流れに乗ってこちらまで聞こえてくる。そのひとつにひときわ賑やかな集団があり、もしやと思って確かめればやはり「あの男」とその取り巻きたちだった。
  輪の中心に据えられた男のすぐ傍らに寄り添っているのが、あの麻未と呼ばれる女子である。今日の装いは目の覚めるような美しい蒼。どちらかと言えば男子が好んでまとう色味であるが、南峰の晴れやかな金の髪や透き通るような肌にはしっくり馴染む。あの者は自分にどんな色味や柄が似合うかどうかを熟知しているに違いない。衣の枚数も他の女子と比べて桁違いに多く持ち合わせているようだ。
  今日も念入りに梳かれた髪に桃色や空色の飾り紐を美しく編み込んでいる。目障りなほど華美にはしていないのでつい見逃してしまいそうになるが、あれだけに仕上げるにはかなりの時間を要すると思う。周囲の女子たちの話に丁寧に頷きながら、誰よりも華やかな微笑みを浮かべていた。
  彼女だけではない、他の女子たちも一様に普段よりも晴れやかな装いになっている。あれではまるで、皆で連れ立って祭り見物にでも出掛けるようではないか。それに、あのくつろいだ様子。全くいただけない。またいい加減な写生で終わらせるつもりなのだろう。

 駄目だわ、とすぐに自分を戒める。余計なことに気を取られていては作品を仕上げる時間が足りなくなってしまう。少なくとも今日は周囲に足並みを合わせる必要はどこにもないのだ。人は人、自分は自分。美しい衣や飾り紐で我が身を飾りたい者は、思う存分そう言うことに持て余している暇を使えばよい。

 人目など気にせず、信じた我が道をひたすら突き進んでいく。他の皆とは目指すものが違うのだから、そのことをいちいち気に病んでいても仕方ない。
  結局のところ、今の状況もひとりきりで捨て置かれていたあの頃と何ら変わりはないのだ。対岸のはしゃぎ声に心を惹かれていても決して川を越えることは出来なかったように、あまたの人間が溢れるまなびやにあっても心は見えない大河に阻まれている。

 ―― もしかして、今になってもまだ渡りたいと思っているわけじゃないでしょうね。

 馬鹿馬鹿しい物思いを振り切るために首を横に振り、自らを強く戒める。適当に首の後ろでひとつにくくってあるだけの髪は、主である季紗の動きに合わせてひととき気の中を緩く流れたが、そのあと何事もなかったかのように元通りになった。
  髪の手入れの仕方くらいは知っている。もしも里の両親が今の季紗のなりを見たら、あまりの酷さに声も出ないほど驚くだろう。教えられたことは素直に守り実行していくことだけが取り柄だった娘なのに、監視の目がなくなった途端にこんな風になるのだ。艶々と目映いほどに流れゆく豊かな金の髪、それをこの上なく誇りに思っていたかつての自分が恨めしい。

 

 迷いに迷って選んだ今日の題材は、この時期にだけ見ることが出来る繊細な姿の秋花だった。切り通しの崖の上からこぼれんばかりに咲き誇るその花枝をどの角度から眺めたら一番美しいかを注意深く吟味する。少しばかり方向を変えるだけで、がらりと顔向きを変える彼らは季紗に見つめられていることなど一向に構う様子もなくどこまでも自然体だ。
  余計なことを話しかけてこない、だから物言わぬ植物や羽虫たちとは安心して付き合うことが出来る。それに比べ人間は怖い、うわべだけの微笑みを浮かべて隙あらばこちらの弱みにつけ込もうとするのだから。
  ようやく気に入った場所を決めると、大きな岩に腰掛けて木炭を手にした。細く小枝のように仕上げたそれは、しっかり握ると指にべったりと色が移ってしまう。それを嫌がって紙や布を巻いて使う者もいたが、それでは指先の微妙な動きを表現することが出来ない。もちろん季紗は今日も作品の仕上がりを第一に考えることにした。指などは念入りに洗えば綺麗になる。

 ことに絵心に関しては自信など欠片もなかった。決まり切った図案を写し取るならばどうにか格好を付けることも出来るが、このように何もない白紙の部分から描き出さなくてはならないときにはどうすることも出来ない。それでも辛抱強く繰り返し課題に取り組んでいるうちに、この頃ではどうやら人並みのものが仕上げられるようになってきた。
  夢中で被写体に向き合っていれば、周囲のことも時間の流れすら忘れてしまう。今自分がどこにいるのか、何故このように夢中になっているのか、それすらも曖昧になっていく。そして、このまま「無」に戻ってしまえばいい。何よりも疎ましいのは「自分」という存在だ。

「へえ、だいぶ進んだみたいだな」

 不意にどこからか話しかけられて、空白の時間は終わりを告げる。その声がどの方向からしてくるのかも咄嗟には分からず、季紗はきょろきょろと左右を見渡した。だが、どこにも人影など見あたらない。

「ふふ、何を探しているの? そんな風に慌てなくたって、いいじゃない」

 がさり、と頭上で枝の揺れる音がして、ハッと視線を上げる。そしてようやく、声の主を見つけた。高い崖の上、大木の太い幹から伸びた枝のひとつに彼は軽業師のように止まっている。何てこと、まさか高い場所から見下ろされているとは思わなかった。

「……なっ……」

 あんなに不安定な場所で平然としているなんて信じられない。失礼な態度に睨み返してやろうと思っても、そこを見上げるだけで足がすくんでしまう。

「待って、すぐにそっちに行くから。少しの間、動かないでいて」

 一体何を言われているのかも分からないまま途方に暮れていると、また頭上で大きく何かがしなった。自分の上に大きな影が出来て、次の瞬間には無数の葉が降ってくる。―― そして。大人の身丈の二倍、三倍もあるような高さから、その男はひらりと飛び降りて来た。赤に黄に染まった木々の中を、鮮やかな蒼が舞う。

「―― や、お待たせ」

 あまりの驚きに声も出せずにいる季紗に、彼は悠然と微笑んで見せた。いつもそうだ、この者は予想も出来ないことばかりをする。それを「斬新」という言葉で好意的に受け止めることも出来るのであろうが、それまでの人生をひっそりと過ごしてきた身にとってはただただ脅威にしか思えなかった。

「ふうん、こういう構図で見るのも斬新でいいね。この辺の枝の広がりとか、空間が上手く生かされている感じで」

 何の断りもなく、彼は季紗の素描を覗き込んでいる。一呼吸ほど経ってからようやくそれに気づき、さっと後ろに隠すと、彼はますます可笑しそうに口元を緩めた。

「……ほ、他の皆はどうしたの。あなたの姿が見えなくなったら、今頃慌ててあちこち探しているのではないかしら」

 あのようにかしましい者たちがやって来たら、せっかく静かに過ごしていた時間が台無しにされてしまう。そんな風にして自分の領域を侵されるのは我慢できなかった。そしてそれは、今目の前にいる男に対しても同様である。

「あいつらとは一緒にしないでくれよ、いつまで付き合ってたら仕事にならないだろ。だから適当にまいてきた」

 そう言うと、彼は今まで季紗が座っていた岩のすぐ隣に腰掛けて、やれやれと両肩を回した。手足が長くすっきりとした体つきなので、どんな仕草も絵になる。ついついそんな風に考えてしまう自分を、季紗は心の奥でひっそりと恥じた。

「だけど驚いた、まさか君が下にいたとはね。こんな偶然、なかなかないと思うよ」

 正直、この者とは初めて出逢ったときから全くそりが合わないと感じていた。同郷のよしみで親しく話しかけられても、どうしても気が引けてしまう。素直に言葉を返すことなどどうしても出来ず、最初のうちは何と問いかけられても全て無視し続けていた。
  そもそも、自分は他の者との交流を求めてこの地にやって来たのではない。欲しいものは、今の自分にはない新しい技術だけだ。それをひとつでも多く習得することで、沈みかけた実家を救うことが出来るなら嬉しい。昔ながらのやり方では、新しい時流に乗ることが出来ないことを季紗はすでに心得ていた。

「べ、別にそんなことはどうでも―― 」

 そう言いかけたものの、差し出された彼の素描を目にしたときに次の言葉を失っていた。俯瞰で捉えられたひと枝は白黒の簡単な線画でありながら、そこかしこに光の輝きを感じることが出来る。柔らかく垂れ下がる花弁の可憐さが、芳しく今まさに手の中にあるように思えた。

 ……どうして、この人はここまで完璧に表現することが出来るのだろうか。

 どんなに競ったところで、全く勝負にならないと思った。自分が喉から手が出るほど欲しい技術の何倍、何十倍ものものを、この男はすでに持っている。しかも、それはどんなに努力しても決して追いつくことはない、生まれたその時から持ち合わせている天性の才能なのだ。
  自分にないもの、そして決して手に入らないものを容易く扱う者のことを、快く思えるはずもない。出来ることならその存在を忘れてしまいたいし、だから視界にも入って欲しくなかった。それでも、彼は同じ学舎の候補生であり、寄宿舎で共に生活するとなれば早朝から日暮れまで顔を合わせることになる。

「君も驚いたでしょう、だからどうしても教えたくなったんだ。まさか、同じ枝を違う角度から眺めているとはね。こんなに広い場所を与えられているのに」

 何故そのように嬉しそうな顔が出来るのだろう。季紗には彼の真意が全く分からなかった。自分にとって彼が「天敵」のような存在であるならば、彼にとっての自分も同様であるはず。その理由は、彼の「苦手」が季紗の「得意」であるから。そしてそのことは、彼自身もとうに承知している。
  季紗の実家が染物屋であるから、染色が得意なのは当然。それならば、染め絵師の家に生まれた男が絵心に秀でていても不思議はない。多分、彼自身も季紗と同様に自分にはない技術を手に入れたくてこの場所を訪れたのだろう。

「わ、……わたくしは、ただ何となくこの場所を選んでみただけですから。すぐに他に参りますわ」

 ここを立ち去るのは名残惜しいと思った。だが、このまま男に居座られていては気が散って何も描けなくなってしまう。季紗はきびすを返すと、坂道をさらに登り始めた。

「―― あ、ちょっと待って」

 もうこれ以上口をききたくもないのに、男は季紗の心内など気にすることもなくさらに話しかけてくる。いつものように無視をして通り過ぎてしまえばいいのだ。そう思ってさらに歩みを早めると、背中に声が追いついてくる。

「あの、……見たままを寸分違わずに写し取ることも確かに必要かも知れない。でもそのことばかりに気を取られていると、中身のない絵になってしまうと思うんだ。そう、何て言ったらいいのかな。まずは、描きたいその対象が投げかけてくる言葉をしっかり受け止めるといいと思うのだけど」

 彼本人も、自分が伝えたい想いを上手く表現できずにいる。どうにか言葉を並べて心内を表そうとするが、なかなか思い通りにならない様子だ。しかし、その真っ直ぐな気持ちが何故か季紗の心を歪ませてしまう。

「それって、……わたくしの絵が全くなってないと言いたいだけなのでしょう?」

 口惜しかった、この上なく情けなかった。どんなに頑張ってもこの者に追いつくことは出来ない、ましてや追い抜かしてさらに上を行くなど願っても無理なこと。

「別に、そう言う意味じゃなくて。……だから」

 新しく言いかけたものの、やはり納得のいく言葉には至らなかった様子である。彼はそこで言葉を切って、しばらくは何かを考えていた。

「ここを入った山奥に、この樹が見事に群生している場所があるんだ。あそこに行けば君も何か分かると思う。ただ、花の盛りはもう少しあと―― 半月ほど経ってからになると思うけど」

 与えられた情報は、この上なく魅力的だった。もしもそのような場所があるなら、是非訪れてみたいものである。この地に来て初めて目にした「香り花」と呼ばれる秋花は、群れて咲くことは少なくわずかな枝を見つけるだけでも困難を極めた。一度で良い、あの淡い香りに包まれて夢のような時間を過ごしてみたい。

「―― そんな話、誰が信じるものですか」

 そう突っぱねてみたものの、一度思い描いてしまった幻想が脳裏から離れない。その夜から、季紗は見たこともない花園のことばかりを夢見るようになっていた。

 

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