平地暮らしが長かったため、山道を歩くことには慣れていない。念入りに身支度をして履き物も慎重にに選ばなくてはならないなど、頭では一通り分かっているつもりでも実際にやってみると持ち合わせているのは抜け落ちた知識ばかりだ。 こうしているうちにも辺りはますます暗く、恐ろしい形相に変わっていく。明るい場所で見ればただの小枝であっても、薄闇に浮かぶそれは悪魔の使い手のようにも思えてくる。どうにかして、少しでも安全な場所を探せないものか、あるいは這ってでも麓に戻る方法はないものか。様々な思いが頭を巡るが、これと思える名案には行き着かない。 数歩前に出ては何かに足を取られて転び、また起き上がって歩けば今度は衣の袂が何かの枝に引っかかった。ようやく森の外れまで来たと思ったら、今度は小川に行く手を遮られてしまう。慎重に歩いていたつもりなのに草履が滑って水の中に膝をついて、気づけば全身がずぶ濡れになっていた。 ―― なんて、情けないこと。 目的の場所には辿り着くことも出来ず、元来た道を戻ることすら叶わない。ひとまとめにしていた髪もほどけ、目も当てられぬほどのみすぼらしい姿になり果てているだろう。一体、この先どうすれば良いのか。寮官には外出の届けを渡したが、行き先までは告げていなかった。何処へ行ったかも分からぬものを探す手だてはない。 小川の向こうは切り通しの崖になっていた。これではもう、一歩も前には進めない、その上谷底から吹き上がってくる気が真冬のように冷たい。そうであっても天の光の届かぬ森の中には再び戻りたいとは到底思えなかった。 どうでもいいのだな、と諦めにも似た気持ちが湧いてくる。何処にいても誰と共に過ごしても、必要とされない存在。もしも何かの役目を与えられたとしても、それはいくらでも代替えのきく適当なものでしかない。ずっとそうだった、そんなものだと諦めていた。 唯一、技の世界だけが自分を裏切らないでいてくれた。もちろん自らの知識や経験が足りずに上手くいかないことは多くあったが、それでも努力をすればそれなりの手応えを得ることが出来る。仕上がった作品もこの世にひとつしかないもので、揺るぎない結果として手元に残った。
また、どれくらい時間が経ったのだろうか。外気はますます冷たくなり、季紗の身体も今にも凍りそうにまでなっていた。大袈裟な話ではない、山奥は麓とはそれだけの温度差がある。それを意識しての身支度も怠っていた。 「……っ……」 目の前で広げた指先が、紫に色を変えようとしている。青白い天の光の加減もあるだろうが、やはりどんどん体温が下がっているようだ。このままではまずい、と思ってみてもそれを回避する手だてが思い浮かばない。慌てて息を吹きかけ両手をこすり合わせてみたところで、じんじんとした痛みが鈍く広がるばかり。焼け石に水のような行動では、少しも助けになりそうになかった。 そうしているうちに、どこかで何かが羽ばたく音がする。重なり合う枝の擦れる音、何かの唸り声……いや、ただ気が通り過ぎただけなのか、どうなのか。 やがて全てが静寂の中に戻るまで、季紗は自分で自分を抱きしめたまま震え続けた。 ホッと息をついたのもつかの間、また遠く近く物音が響いてきた。今度は何者かが、地を踏みしめている様子。もしや獣が近くまで? ……そうだったら、どうしたらいいのだろう。 「…………!」 やがて、森から飛び出してきた黒い影に、季紗は声にならない悲鳴を上げていた。身体が大きく震えて、目の焦点も定まらない。後ずさりしたくても、すぐ後ろは崖っぷち。逃げる場所もないのだ。 ―― しかし。 次の瞬間、信じられないことが起こった。音の途絶えたその場所に温かな光がふわりと宿り、やがてすっと前へ差し出されたのである。それが暗い夜道を歩くときに用いる提灯であることにすぐに気づいた。 「……そこに、いるの?」 そう訊ねた声の主も、未だ半信半疑である様子だ。それでも足下を確かめながら一歩、また一歩と進んでくる。ゆらゆらと揺れる光の珠を、季紗はただ呆然と見つめていた。 「……あ……」 やがて自分の口元からこぼれたのは、安堵とも諦めとも受け取れるようなかすれた声だった。とっくに凍えきっていたはずの身体に、熱いものがこみ上げてくる。でもそれは、「怒り」と呼ばれる感情に他ならなかった。 「な、……なんであなたが……」 灯りの向こうに揺れていた人影が、やがてひとつの存在として確認できるようになる。その者は、季紗がこの世で一番会いたくないと願っている人物のうちのひとりだった。 「君が夕刻になっても戻らないと聞いてね、もしやと思ったんだ。こんな遅くになってから山へ入るなんてどうかしてると止められたけど、―― 元はと言えば俺があんなこと教えたからだって思ったから。良かった、やっぱりこっちの方角に迷い込んでいたんだね」 提灯に入っている油はわずかしかなかった。出来るだけ節約した方が良いと、ここまでは火を消した状態でやって来たという。何と無謀なことだろうか。そんな風にして欲しいなどと頼んだわけでもないのに、全くお節介が過ぎる。 「そんな、責任を感じていただくこともなかったのに。別にわたくしはあなたの言葉になんて左右されていませんから、思い違いもいいところですわ。ただ、写生の題材を探しに山へ入って奥に進みすぎてしまっただけ。今だって夜が明けるまで、ここで休んでいただけのこと。心配には及びません」 先程までの心細さはどこへやら、憎々しい言葉ばかりが口から飛び出してくる。この者は無口なはずの季紗を突然おしゃべりな娘に変えるようだ。少しは控えなければと思いつつも、どうしても押さえきれない。 「分かってるよ、こっちだって別に心配でやって来た訳じゃない。ただ、あの風景を君だけに独り占めされるのは癪だなと思ったから」 そこまで言い終えた男は、いつまでも立ちつくしたままでいるのもどうかと思ったのだろう。適当な場所を見つけて、腰を下ろす。そして、手にしていた灯りは距離を置いて座るふたりのちょうど真ん中の辺りに置かれた。頼みもしないのにやって来た相手が何をしようと構ったことじゃないが、ついついそちらに目がいってしまうのが気に入らない。 「独り占めなんて……そのように恨まれる理由もありませんわ」 季紗たちが学ぶ訓練校は西南の集落にあるため、どうしても赤毛の者たちが多く目に付く。勤勉な性格の北の集落の者たちや実りの少ない土地から豊かな財を得るためにやって来る西の集落の者たちも少なくない。そんな中で、一番希少な存在と言えるのが、意外とも思えるのであるが自分たち南峰の集落の民であった。 それからしばらくは、お互いに口をきくこともなく過ごしていた。そうしている間にも冷たい気が絶え間なく崖の向こうから吹き上がってきて、何も遮るものがないふたりに容赦なく襲いかかってくる。そのたびに切るような痛みが全身に走ったが、かろうじて耐えた。この男の前で、泣き言など吐けるものか。 かさり、と灯りの向こうで地を踏みしめる音がする。ハッと我に返ってそちらを見ると、男は立ち上がり季紗のいる崖の縁とは反対側の森へと歩き出したところだった。 「……あの、どこへ行くの?」 そんなことを訊ねたところで、どうなるものでもない。しかし、たとえ忌み嫌う存在である相手でもこのような状況下では近くにいてくれた方がいくらか安心できるのだと言うことにようやく気づいた。このまま彼がどこかに去って行ってしまったら、今度こそ途方に暮れてしまうだろう。 「ああ、焚き火が出来るような小枝や茅を集めてこようと思って。油もそろそろ切れそうだし、このまま火がなくなってしまうのも危険だからね。一応、火打ち石は持ってきているんだ」 凱は振り向くと、そこで初めて季紗の姿をまじまじと見た。それまでは遠慮して控えめにしていた視線が、何かに気づいて色を変える。しかし彼は、その理由をすぐに口にすることはなかった。その代わりに羽織っていた長めの上着を脱ぐと、こちらに差し出してくる。 「これ、持っていて。あまり多く着込んでいると動きづらいから」 ぬくもりの残るそれを受け取ると、布に包まれた季紗の指先がにわかに感覚を取り戻していた。 「……でっ、でも」 やはり今は一枚でも多く羽織っていた方が良いのではないだろうか、そう伝えようとしたが一歩早く彼の言葉に遮られる。 「全部とは言わないけど、脱げるところまでは脱いで早く衣をどうにかした方がいいと思う。まだまだこの先冷え込むと思うし、濡れたままで身につけていると身体に悪いよ。その辺の枝にでも広げて掛けておけば、すぐに乾くはずだから」 それだけ言い終えると、彼は灯りも持たずに森の中へと分け入っていった。その背中をぼんやりと見送ったあとに、季紗はいくらか躊躇いを残しながらも身につけていた衣を一枚、また一枚と脱いでいく。確かに彼の言ったとおり、心細く布を剥がれた状態の方がいくらかはましな気がする。 ―― 仕方ないわ、衣が乾くまでの辛抱ならば我慢しなくては。 男物の上着はたっぷりとした造りで、袖を通すと膝を覆うほどの丈があった。これならばその下が肌着同然の姿でもそう見苦しくはないだろう。それどころか濡れ鼠で無惨だった先程までよりはだいぶまともになったような気もする。そんな風に思う自分をたまらなく可笑しく思いながら元のように腰を下ろしたとき、男も森から戻ってきた。 「それ、見た目よりも温かいでしょう。里にいる頃は冬になっても一度も袖を通さずに終わることもあったのに、やはりこっちは全然気候が違うようだね。もう少し綿を多くしたものも新しく準備してもらおうかと考えているんだ」 両手には抱えきれないほどの小枝や茅を持っている。それらを器用に積み上げると、彼は提灯に残っていた火を焚き付けに移した。 「ここ、上手く火が回るように見ていてくれる? もう少し集めておいた方がいいと思うから、もう一度行ってくるよ」 押しつけがましいところなど少しもなく、ただ淡々と話を進めていく。気づけばすっかりと相手の調子に合わせられていて、異を唱えることも忘れていた。しかし、それも仕方あるまい。まだ夜はこの先も長いのだ、どうにかして無事に過ごすためには多少の我慢も必要だろう。 季紗の目の前で、パチッと大きく小枝が弾ける。さらに勢いを増した炎がじわじわと燃え広がっていく様が、何かの前兆のように思えてきて仕方なかった。
|