…7…

 

 

 丁寧に織り上げた純白の絹地を美しく染め上げ、その上に金銀の色粉を施しさながら絵巻物のような世界を造り上げる。その工房で次々と生み出される染め絵の絹はたいそう評判が良く、南峰の集落だけに留まらず遠方からの注文もひっきりなしに入っていた。
  布染めを担当するのは兄、そして絵付けを任されていたのは弟。家族で営むささやかな作業場ではあったが、働く者たちは皆仲が良く活気に満ちていた。

 ―― しかし。

 兄弟が年頃となりそろそろ妻を娶ることを考えるようになったときに、問題が起こったのである。彼らにとっては又従妹となる美しい娘がいて、年の頃も丁度良かったために初めは兄の相手として呼び寄せられた。しかし周囲の期待に反し、やがて彼女は弟の方と恋仲になってしまう。
  もちろん、娘としても自分の置かれている状況は正しく理解していた。しかしそうであっても、一度芽生えてしまった想いはもはや止めることが出来ない。兄の方も娘は自分のものになると信じ切っていただけに、ふたりの仲を寛大な心で許すなど到底出来ることではなかった。

  固く結ばれていた兄弟の絆が脆くも崩れ去り、その後に残ったのは誰にも手の施しようのない泥沼化した展開、雇われていた者たちも二手に分かれて争い合い仕事もままならぬ状態になる。やがて想い合った恋人たちは夜逃げ同然で川を渡り、二度と故郷の地を踏むことはなかった。

 ふたりにとってはそれぞれ曾祖父の時代に起こった昔話である。今となってはどこまでが真実なのか誰にも分からないが、それでもなお互いの家が反目し合う歴史は終わらない。それぞれが良い仕事をすると評判であるのに協力し合うこともなく、結果として過去の栄えが幻のようになってしまっている。
  とくに季紗の父などはこの昔物語に執拗にこだわり、どうにかして川向こうの染め絵師の一族を蹴落としてやろうとそればかりを願って生きていた。幼い頃から繰り返し聞かされる罵倒の言葉たちに辟易しながらも、いつの間にか何か上手くいかないことがあるたびにあちらの一族のせいにする癖が付いてしまった気がする。だがそれも、我が身にまとわりつく因縁なのだから仕方ないと諦めていた。

 

「……ま、最初は驚いたな。示し合わせたわけでもないのに、こんな偶然ってあるのかなって」

 先程より多めの薪を持って戻った男は、火の番を季紗と代わったあとにぽつりぽつりと話し出した。こちらが黙りを決め込んでいても一向に気にする様子がないのはいつものことである。

「川向こうの家のことは以前から聞かされていたし、だから君のことを教えられても『ああ、あの子がそうなのか』って思ったくらいでね、正直どうでもいいかなって考えていたんだ」

 季紗もすでに知っている、古めかしい昔の話にいつまでもこだわり続けているのは自分の一族だけだ。川向こうの家、つまり凱の父親からは季節ごとに挨拶の品が届いている。しかし父はそれを決して受け入れることなく、そっくりそのまま突き返していた。
  長い間互いに背を向けてひっそりと仕事を続けていた双方であったが、この十数年でにわかに風向きが変わった。布絵の需要が急増し、結果として売り上げにかなりの差が出るようになってしまったのである。それが季紗の父にとってはとにかく面白くないことであった。もしも立場が逆であったなら、あるいは相手の申し出を受け入れることが出来たかも知れない。しかし、時勢がそれを許さなかった。
  頑なになればなるほど、さらに商売は行き詰まっていく。頼みにしていた大口の仕事も次々に打ち切られ、父はそれを皆「川向こうの一族の仕業だ」と決めつけていた。

 片や繁栄を極める一族と、片や落ちぶれていく斜陽の一族。元は固い絆で結ばれていたはずの両家が、全く異なる現状の中にいる。そしてその違いは、自分と目の前にいる男にもはっきりと誰が見ても明らかなかたちで表れているのだ。

 ―― わたくしだって、それは同じだわ。

 そう言い切ってしまえれば、どんなに楽だっただろう。だが、季紗の本心は彼のものとは少し違っていた。自分とはまるで違う境遇の男。その存在は大きすぎて、そして眩しすぎた。彼はあっという間に候補生の中でも中心的な存在となり、老師たちへの受けも良い。どうしてここまで差が付いてしまうのか、その理由も分からずに気持ちだけがどんどん冷え切っていった。
  地獄に堕ちる前の、ひとときの猶予。しかしその残されたささやかな時間ですら、季紗は荒んだ気持ちで過ごさなければならなかった。それもこれも、全てここにいる男のせい。そう決めつけてしまった方が、楽になれる。父親によって植え付けられたひがみ根性は、いつか季紗の心にもしっかりと根付いていた。

「……そんな怖い顔で睨み付けることもないだろう?」

 どす黒く渦を巻く感情を今も胸の内に押し込めている季紗に対し、彼は普段通りの柔らかな表情でいる。そして、こちらをちらと確かめたあとに、喉の奥で低く笑った。

「提灯の油は残りわずかだし、行動を起こすには夜明けを待って足下が確認できるようになってからにしなければ。こんな状況なのに、一晩中いがみ合っているつもり? まあそれが君の出した答えなら仕方ないけどね」

 その後に続いた間合いは、ただの沈黙ではなかった。そう感じたのは、こちらの思い過ごしだろうか。彼は明らかに、自分に口を開かせようと挑発している。軽々しいやり方になど乗るものかと思いつつも、つい心がそちらに流れそうになってしまう。

「それならば、少し話題を変えてみようか」

 火のはぜる音に耳をすませながら、視線は闇を染め立ち上ってゆく炎の一点に集中していた。ゆらゆらと一瞬ずつにその形状を変えていく不思議な色彩。どのように染め粉を配合すれば、あの色味が出せるんだろうか。それを考え始めるだけで、気の遠くなる想いがする。

「初めての染色の実習。あのとき、俺は自分がどんなに無能な人間だったかを痛感させられた。だって、そうだろう。自分の想像を遙かに超える作品を当たり前みたいに染め上げる君の姿を見てしまったんだからね。そりゃ、口惜しかったよ。それまではあそこまで完璧に誰かに負けるなんて経験、したことなかったから」

 無視を決め込もうとしても、流れるように耳に注ぎ込んでくる声。いくら目の前に広がる色だけに心を傾けたいと思っても上手くいかない。

「でも、そんな負の感情と同じぐらい嬉しくもあった。あんなに綺麗な色を見せてもらえたんだから。ここまで来た甲斐があったと思ったよ、世界は俺が知っていたよりもずっと広くて深かった」

 一体、どんな顔をしながら話しているのだろう。とうとう意地が興味に負けて、そっと彼の方へと視線を向けてしまった。明るい炎に照らし出された顔は淡く微笑んでいる。その口元の緩やかな曲線が、ことのほか印象的だった。
 
  ―― 知っている。

 その瞬間、心が何かに強く引っ張られた気がした。自分も似たような経験をしている。あれは最初の素描の講義、湖東老師が用意した花を候補生がおのおの自分の好きな角度から自由に描くというものだった。
  初めて手にする道具たちは全く手に馴染まず、細い木炭などはほんの少し力の加減を間違えただけで真ん中から折れてしまう。そのくせ力を弱めれば、すんなりと伸びやかな線を描くことは出来ない。苦労した末に仕上げた作品は、目も当てられぬほど酷いものになった。
  その上。情けなさと恥ずかしさでどうしようもない気持ちになりながら教壇に提出に向かうと、そこで息を呑むほどの素晴らしい作品に出逢ってしまった。葉の一枚一枚が瑞々しくしなやかで、中央に咲き誇る花は可憐に愛らしい。己の眼で見たものよりもさらに美しい世界がそこにあった。

 だが、それに続く感情は彼の抱いたものとはあまりに違いすぎる。敗北を素直に認めることがどうしても出来ないまま、かなり長い間劣等感の中にくすぶり続けてしまったのだから。しかしそうしているうちにも、相手はどんどん腕を上げていく。あれだけ完璧に仕上げることが出来るのに、どうしてさらに上達したいと思うのか理解できない。

 一度湧き出てしまった負の感情は、その先も留まることを知らなかった。次々に仕上げられる彼の作品が素晴らしければ素晴らしいほど、行き場のない焦りが募りどうしようもなくなる。
  もうその辺で止めてもらえないか、これ以上努力しないで欲しい。並々ならぬ才を持った彼が、自分が望んだよりももっともっと高い場所に向かっているのが許せなかった。

 今も多分、そのときの気持ちと少しも変わっていない。素直に相手を認めることは、すなわち自分自身の完敗を意味する。そんなことは絶対に出来ないと思った。本当は認められないと思うその気持ちこそが自分を追い詰めているのに、分かっていても止められない。
  才のある者たちが集い自らに磨きを掛けていけば、外側から内側から様々な葛藤が生まれる。結局は自らの腕一本でのし上がって行かなくてはならない世界、そこには媚びへつらいなどの画策も存在しない。実際に世の中に出れば違ってくるのだろうが、少なくとも囲われた柵の中では純粋に自分自身の力で勝負が出来る。しかし、だからこそ残酷で苦悩を強いられるものでもあるのだ。

「別に、無理して褒めてくれなくてもいいのよ。染色なんて、結局は誰でも同じように出来るのだから。決まった配合で色粉を使えば、ほとんど毎回同じ仕上がりになるわ。だから何も特別なことなんてない」

 己の中にある才など、結局は大した価値もない。そう自分自身がすでに納得してしまっているのが悲しかった。目の前の男には次々と新しい絵柄を生み出しそれらを組み合わせて美しい世界を創り上げることが出来る。最初に持ち合わせたものの違いが、その後を大きく左右していくのだ。

「そんなことないよ。そもそも下地が美しくなかったら、上にどんな絵を持ってきたって結果は同じだからね。それくらいのこと、もう君はとっくに分かっていると思っていたけど」

 ぱちっと、ひときわ大きな音がして火の中の小枝が大きくはぜる。次の瞬間に、大きく揺らめく炎。ふたりの影が背後の岩肌にくっきり浮かび上がった。

 初めから、不思議な男だとは思っていた。臆することもなく相手を認め、きちんと言葉にして評価してくれる。それが好ましい相手であってもそうでなくても、扱いを変えることは決してない。そんな真っ直ぐな態度が周囲の者たちにも好意的に受け止められているのだろう。

「あなたこそ、分かってないじゃない。染め絵の仕上がりが素晴らしければ、下染めがいくらかそれに及ばなかったとしても十分に補えるもの。そうなってしまっては、わたくしなど全く歯が立たなくなってしまうわ」

 思わず口をついて出てしまった言葉に、季紗は口惜しく唇を噛みしめた。分かっている、どんなに努力をしたところでこの男に勝ることは出来ないのだ。最初から負けることが分かっている競争をするなんて、何て愚かなんだろう。
  ここにいる男と自分とか今年の候補生たちの中で好敵手であることは周囲の誰もが認めていて、今更それを覆すことも出来ない。寝る間を惜しんで努力してみたところで、結果は見えているのに。皆もそれを承知の上でせき立てているのではないだろうか。

「ふうん、本当にそんな風に思っているの」

 涼しげな眼差しが、真っ直ぐに自分に向かう。一体どうしろと言うのか、こちらが挑発に乗って感情を露わにするのを望んでいるのだろうか。

「でも……そんな風に言うってことは、君も少しは俺のことを認めてくれているって思っていいのかな」

 谷底から吹き上がってくる気はますます強く、また冷たさを増していた。大きく空いた袖口や胸元の袷から、冷気が容赦なく入り込んでくる。身を切るような感覚に、それでも季紗はかろうじて耐えていた。

「そ、そりゃあ……あなたの染め絵の素晴らしさは今更わたくしなどが言うまでもないでしょう」

 素直に認めてしまうのは口惜しくてならないが、かといってここで自分の方が優れているなどとは口が裂けても言えない。それこそ自身の美意識を疑われることになるだろう。

「ああ」

 男の顔が、その瞬間にパッと華やいだ。

「それって、褒め言葉として受け取っていいんだよね。やっぱり嬉しいものだな、こんな風にきちんと評価してもらえるとますますやる気になるよ」

 全くおめでたいにも程がある。こんな取るに足らない存在の言葉ひとつに、あそこまで喜ぶこともないのに。だからこの男の行動は芝居じみていると思えてならないのだ。
  どうにかして負の感情をぶつけてみたい、そうは願っても前歯の噛み合わぬほどの寒さには勝てない。今の季紗に出来ることは、ただ身を固くしてこの状況をやり過ごすことが出来るよう祈ることだけだった。

「―― だいぶ、冷えてきたな。これじゃ、いくら火を焚いたところで追いつかないぞ」

 季紗よりも森側にいる男にも、やはりこの冷え込みは辛いものがあるらしい。それに彼は上着一枚をこちらに貸し出しているのだ。当たり前の作業着姿では、この寒さをしのぐのは無理だろう。

「そのっ、……こちらをお返ししましょうか?」

 借りた上着の下には頼りない肌着一枚しか身につけていない。しかしそうであっても、これはもともとこの男の持ち物だ。当の本人が寒そうにしているのに、このまま貸してもらうことは出来ない。

「いや、大丈夫だよ」

 彼は即座に首を横に振って、季紗の動きを制した。

「今その上着を脱いだら、君の方が凍えてしまうだろう?」

 それは全くの正論であった。この状況を他の誰かが見ても、同じように言っただろう。しかし、それでも季紗は自分の意思を曲げることは出来なかった。

「そんなことを言って、あなたの身体に何かあったらどうするの」

 この男も自分同様にひとり子である、他に替える者のない跡目なのだ。先日の湖東老師とこの者とのやりとりからも、里の一族が彼の帰りを待ちわびているのは分かる。まだ秋も深まる時節ではなかったが、それでも山の気候は予想が付かない。これから先、何が起こるか分からないのだ。

「俺は男だ、それに君よりもずっと体力はある。だから大丈夫だ」

 そうこうしているうちにも、荒れはますます酷くなる。ほどけたまま垂らしている季紗の髪は辺りが大きくうねるごとに大きく揺らめき、それを押さえようとする指先も今にも凍り付きそうだ。

「―― おい」

 そう呼びかけた彼の唇が、紫色に変わり始めている。もしかすると自分のそこも同じ色になっているかも知れないと季紗は悟った。

「もう少しこちらに寄らないか。このままだと……ふたりともどうなるか分からない」

 その瞬間にも、気は容赦なく季紗の背に吹き付けて来る。夜更けまでもまだまだ遠い頃だった。

   

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