…8…

 

 

 南峰の民が誇る金の髪も、ひとたび手入れを怠れば瞬く間にその輝きを失い、白く粉を吹いたように変わり果ててしまう。渓底から吹き上がる気に踊り狂う幾重もの帯。それこそがかつてこの上なく美しいと褒められたものの残骸だ。

「……え……」

 凱の発した言葉は、驚くほどすんなりと季紗の心に落ちてきた。あまりにも思いがけない提案。告げられている内容はすぐに理解できる、だがそれを素直に受け入れることなどどうして出来よう。

「気が進まないのは分かる、でもここまで来ると死活問題だ。悪いけど、こんなところでくたばりたくはないからね」

 どうにかして強がりを口にしようとしている様子だが、その語尾は歯も噛み合わぬほどに大きく震えている。互いに互いが、言葉を伝えることも辛いほどに冷え切った身体を持て余していた。自らがそうであるから、相手の気持ちも痛いほどよく分かる。

「最後は人肌で温め合うしか方法がないんだ。……とは言っても、俺も本当にそうしたことは今までにないけどね。ただ、情報として最善の策だと聞いている」

 刹那、地獄絵のような記憶が蘇る。あんな恐怖を再び味わうなど、とても耐えられそうにない。

 借りた衣を今こそ突き返してみようか―― 一瞬はそんな想いも浮かんだが、すぐに考え直す。指先が、耳が、素足の上に草履を重ねただけの足先が、気が狂うほどに凍えている。こうしているうちに、今に心までが凍てついてしまうのではないだろうか。そのようなことが起こるはずはないと信じたいが、正直なところ自信がない。

 ……どうしたら、いいの。

 今更ながら、突然現れた目の前の男を恨みがましく思った。その口が何と告げようと、軽い気持ちで情報を伝えてしまったことに責任を感じたからこそこのような山奥まで分け入ってくれたのは承知している。でも、もしも彼がそのような無謀な真似をしなければ、自分はひとりこの場所で朽ち果てることも叶ったはずだ。
  少しばかり先に生きながらえたところで、希望が持てるような幸せな未来は待っていない。それどころか、再び足を踏み入れるのもおぞましい場所へと連れ戻され、心も身体も受け入れることを拒否する相手としとねを共にすることになるのだ。その時期が近づけば近づくほど、恐怖がさらに大きくなる。それならいっそのこと、と今までどうして一度も考えなかったのか、今となっては不思議で仕方なかった。

 しかし、置かれている現実は残念ながら望んでいたものとは大きく異なる。今、目の前には自分と同じくらい苦しんでいる相手がいるのだ。自分が求めても求めても決して手に入れることが叶わない才を持ち合わせているその者を、どうして見殺しになど出来よう。

「……そう」

 荒れ狂う気の音に、頼りない声はすぐにかき消されてしまう。しかし、どうやら聞き届けてくれたらしい人がこちらに向き直ったとき、季紗は意を決して告げた。

「そうすれば、わたくしたちは助かるのかしら」

 何に対して挑んでいるのか、自分でもよく分からなかった。だが、今はもう迷っている時ではない。

「必ず、とは保障できないけど……多分」

 躊躇いがあるのは彼の方も同じなのだと分かっていくらか安堵した。結局は互いに望まないことなのだ、そう思えば気が楽になる。

「分かったわ」

 強く唇を噛みしめたのは我が身に襲いかかる冷気に耐えるためか、それともこれから起こることへの恐怖に立ち向かうためか。季紗はゆっくりと立ち上がると、焚き火に照らされた地を踏みしめた。目の前に広がるのは墨色に沈んだ夜の森。大きく広がった枝々が、今にも我が身に斬りかかってきそうだ。

 ―― わたくしは、どうなっても構わない。

 今一度、自分に言い聞かせるように心の中でそう呟く。これから自分が成そうとしていることは、あくまでも人助けである。想像を遙かに超えた過酷な状況、夜が明けるまでは救助の者も踏みいることが出来ない場所。そこにいて、生きながらえる方法が他にないのだとしたら。

 男はそんな自分を黙ったまま見上げている。何事にもなびかずにいた強突張りがいきなり操りの人形のように素直になったのがそんなに信じられないのだろうか。目が合うのがどうしても嫌で、意識して視線をそらす。彼までのわずかな距離は永遠とも思える長い道のりに思えた。

「こちらの方が、風の当たりが幾分柔らかかも知れないわ」

 緊張を悟られぬように注意して言葉を発することは、かなり大変だった。互いの肩が触れ合うほど近くに腰を下ろすと、無意識のうちに衣の前をたぐり寄せてしまう。

「そうだろうな」

 驚くほど、彼の声が近い。そう思って顔を背けた季紗の目に映ったのは、自分の肩に回される大きな手のひらだった。

「冷たい、……こんなに凍えていたんだ」

 次の瞬間、強い力で招き入れられたのは男の懐。どういう魔術を使ったらそうなるのかは分からない。導かれた身体が羽根のように軽くて頼りなく、そこに持ち主である季紗の意思など微塵も存在しなかった。

 それは、あなただって同じじゃない。

 自分よりはいくらか多く着込んでいるはずの衣も、その内に包まれた生身の身体も、想像していたよりはずっと深刻な状態に陥っていた。男子であるなら逞しくあって当然だなどとうそぶいていたが、結局は芸術肌の人間なのである。日頃から野良仕事で鍛えている者たちとは互角に渡り合えるはずもない。
  それでも遠慮がちに背に回される腕が、頬を押しつけた胸板が、自分とは違うもうひとつの体温を教えてくれる。予期していたほどの恐ろしさもなく、それどころか懐かしいような切ないような不思議な感覚が泡のように次々と胸に溢れてきた。
  互いの身体は今このときも小刻みに震え続けている。しかしそれは我が身の凍えに耐えているからではない、すぐ側にあるもうひとつの魂にすがりつこうとする本能がそうさせているのだ。こうしていれば、あるいは上手くいくかも知れないという期待が恐怖に凍り付きそうだった心を次第に和らげていく。

「悪いな、無理をさせて」

 全てが己の責任であると決めつけている言葉が、耳元で申し訳なさそうに弾ける。あるいはこうしていれば、いつか余計な行為などひとつも必要なく互いの心が余すことなく全て通じ合うことになるかもしれない。そんな予感までしてくる。

「いいえ、これくらいのこと何でもないから」

 また、冷たいものが胸に溢れそうになる。自分以外の誰かのぬくもりを直に感じることさえ、久しくなかった。どんなに自分の心が貧しかったのか、今はっきりと思い知らされる。

「そうか、なら良かった」

 返事の代わりに、季紗は彼の背に腕を回して額をその胸板に強く押し当てた。そうすることで、じんわりと温もりが伝わってくる。芯まで冷え切った身体がすぐに元通りになることなどないが、それでも少し前までの追い詰められた心地とは比べものにならぬほど安らいでいた。
  今はただ、この者を生きながらえさせなければならない。そのために自分までが助かってしまうのは残念であったが、どちらかを捨ててどちらかを選ぶことの出来ない状況では致し方ないと思う。死を覚悟するほどの過酷な場面では、時として思考を司る神経がやられてしまうこともあると聞く。そうなることも避けなければならない。

「不本意なのは分かってる、でもどうにかして君を助けなければ。目の前で苦しむ人を見殺しに出来ないって気持ちももちろんあるけど、それよりも……そうだな、もう二度と目の覚めるような新しい色彩を見ることが出来なくなるのはどうしても耐えられない。そんなことになったら、一生自分自身を呪い続けることになりそうだ」

 背に回された腕に力がこもる。次の言葉を発することは、彼にとっても大きな決断であるようだ。

「求めても求めても、どうしても辿り着けない場所がある。そのことを教えてくれた君を失いたくはないんだ」

 季紗の心に、何かの欠片がはらはらと舞い降りてきた。それは捉えようのない輝き、降り積もるごとに鮮やかに内側からきらめき始める。でも、それを感じたのも一瞬のこと。すぐに元の通りの暗闇が戻った。

「わたくしは、……あなたの染め絵こそが手の届かない遠いものに思えてならないわ。いいえ、課題で描かれた素描ですらそこには命が宿っている気がする。どうしたらあんな線を描けるのか、わたくしにはどうしても分からない」

 自分の存在など、取るに足らないもの。どこでどう生きながらえようと、大した功績を挙げる機会もなく生涯を終えることになるのだ。期待したら、自分自身に裏切られることになる。だから、最初から全てを諦めてしまった方がいい。

「そうかな、……でも正直なところ自分でも分からないんだ。絵を描いているときには心がどこか別の場所に飛んで行ってしまっている気がする。どういう風に描こうとか細かく考えなくても、自然に筆が進むんだ。でも、こういう感覚って、君自身の中にもあるんじゃないかな。少なくとも俺にはそう思えてならないんだけど」

 しっとりとした温もりを互いで共有することにも次第に違和感がなくなりかけていた。耳元を通り過ぎていく気も、今ではすっかりとどう猛な牙を潜めてゆるやかなものに感じられる。
  どうしてこんな不思議な話をしているのだろう、と信じられない心地でいた。普通に生活していたら、ゆっくりと言葉を交わす機会など訪れるはずもない相手。彼の周りにはいつもたくさんの仲間たちで溢れていて、その賑やかな様子を見ているだけでさらに自分とは違う存在なのだと言うことを見せつけられる思いがした。

「わたくしには……よく分からない。それに染め粉を配合しているときには想像も付かなかった色に染め上がることはいつものことだし。これはというものに辿り着くまでには、あなたもご存じの通り気が遠くなるほどの失敗を繰り返しているわ。何かの法則があるのかとも思うけど、そればかりでは解決できないことも多いし……本当にただ無駄に回数を重ねているだけよ」

 特別なことをしているつもりはなかった。この地にいる限りは時間もある程度自由になるし、幾度も試行錯誤を繰り返す心の余裕も持てる。未だ修了制作に向けての色は完成していなかったが、だいぶ自分の望むものに近づいて来た。
  ただ、その上に絵を乗せなくてはならないと思うと、新たな不安でいっぱいになる。もちろん初めての写生の頃よりはいくらか見られる作品になっては来た。だけどまだ、とても十分とは言えない。

「嫌だな、そんな風に簡単に言い切られるとこっちは腹が立つよ。君は何も気づいていないから、……それとも全てを承知の上で知らぬ振りをしているのかな。どちらにしても好ましくないことだね」

 どきり、と胸が大きく波打った。そのことを悟られるのだけは嫌だったが、この状況では身体を遠ざけることも出来ない。

「いいえ……本当に、何もないの。自分でも情けなくなるくらいちっぽけな存在。それが、わたくしがここに来て思い知ったことだわ。……もういいでしょう、これ以上言わせないで」

 何もかも捨てて、殻に閉じこもってしまいたい。ひどく落ち込むたびに、心からそう願ってしまう。これ以上の屈辱を味わうくらいなら荷をまとめて里に戻ってしまおうか、そう思い詰める日もある。だが、それでも自分はまだここに留まっていた。どうしても思い切れない、最後の理由がある。

「そんな風に、自分を貶めて楽しい? それとも何かな、そう言う姿勢を見せることで周囲からの同情を買おうとしているとか? だったら、思い上がりもいいところだ。だいたい、誰かと比べてどうとか、そんなこと関係ないじゃないか。いつだって自分が望む最良の出来にすること、その結果を周囲の者がどう言おうと、俺たちにとってはどうでもいいことだ」

 その言葉は弱った季紗の心を斬りつけるには十分すぎるものだった。しかし自分を包み込むもうひとつの温もりからも、耐えきれぬほどの痛みを感じる。言葉を発する瞬間、彼自身も己の心を刻んでいるのだ。そうとしか思えない。

「だからもうこの先は、そんな風に自分を低く捉えるのは止めて欲しいんだ。……そういうのは本当に、嫌だ」

 この人もまた苦しみ続けていたのだ、そう思えたときに季紗の中で何かが弾けた。そして自分の意思とは全く関係なく目元から溢れてくるもの、頬を伝って流れ落ちていく。

 ―― ひとりじゃ、ないんだ。

 もがき苦しんでいるのはいつでも自分ひとりだけだと思っていた。面白可笑しく青春を謳歌している同輩たち。その姿を眩しく目で追いながらも、あんな風に心を解放することは決して出来ないと思っていた。自分の望む段階までどうしても行き着けない、不足することが多すぎていつまで経っても満足出来ない。

「でも……怖いの。今の自分を認めてしまったら、全てがそこで終わりになりそうで」

 ここでの暮らしの終結は、すなわち夢の終わりを意味する。最初から分かっていたはずのたった一年という時間。自分が望まずともその日は刻一刻と近づいてくる、そこで自らの時計を進めることは自殺行為だ。

「終わらない、君はこんなところで立ち止まってしまう人間じゃないよ。俺には分かるんだ、今のままでも十分に素晴らしい作品を作り出せる君だけど、この先はもっと想像も出来ないくらいのすごいものを見せてくれるに違いないって。だから、決して諦めないで欲しいんだ」

 心の根本が深い場所で繋がっている、そう思えてしまうのはどうしてなんだろう。かつて一度もこんな風に考えたことなどなかったのに。この人の苦しみは自分の苦しみ、この人の悲しさは自分の悲しさと同じ。知らぬ間に心が共鳴し合う、何故そう信じられてしまうのだろうか。

 誰よりも遠く、誰よりも憎い存在。それがこの人だったのに。

「君が俺のことをひどく嫌っていることは知っているし、その気持ちを変えてくれとは言わない。そもそも人の心は簡単に塗り替えられるものではないからね。だけど俺は君と出会えて良かったと思っている、なりふり構わず競い合いたいと思える存在を見つけられたことを本当に感謝してるんだ」

 それも、わたくしと同じ。言葉にして素直に伝えることが出来ない自分がもどかしくてならなかった。軽々しくて意に染まぬばかりだと思っていた彼が、誰よりも近くに感じられる。この先何かが大きく変わるとも思えないが、錆び付いていた心の振り子がきしむ音を上げながら動き始めた。

「……本当に?」

 それまでぴったりと寄り添っていた身体をわずかに離し、彼を見上げてしまった瞬間に後悔した。あまりに顔が近い。互いの腕の中にあるのだから当然だと言えばそこまでなのだが、それでも限度というものがある。絡み合ってしまった視線をそらすことが出来ない。いくらそれを心が望んだとしても、もう身体がついて行かなかった。

「……」

 何かを告げようとして開きかけた彼の口元が止まる。そして、そのまま温もりが季紗の唇へと落ちてきた。

 

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