…9…

 

 

 たとえようのない熱いものが、身体の内側からほとばしり溢れてくる。

 暗闇に堕ちる直前、見上げた瞳に映った自分の姿は怯えてはいなかった。何かに吸い込まれそうになる刹那の、恍惚とした心地。それを取りこぼしなく全て描くためにはどのような色が必要だろう。

「……あ……」

 唇に感じていた熱が、やがて頬から顎を伝って首筋へと降りてくる。しかしそれを振り解くことなど、どうして出来よう。自分が何故、そのような心地になるかも分からぬまま、季紗は大きなうねりの中に身を委ねた。
  遠く近く気の叫び狂う音が聞こえる。でもそれは、今の季紗にとって別次元の出来事でしかなかった。はだけた胸元に次々と落ちていく熱を余すことなく感じ取ることだけが全て。

「…………」

 やがてこぼれ落ちた膨らみに、彼の手が震えながら伸びる。そのわずかばかりの間合いが、もどかしくて仕方なかった。ここに触れたいなら、指先に感じる躊躇いの気持ちなどすぐにうち捨てて欲しい。つい先ほどまでは凍えていたはずの身体が焼け付くように熱くなっている。このままでは気が狂いそうだ。

「……っ……!」

 未だかつて味わったことのない感覚に、その瞬間身体が大きくわなないた。柔らかな場所は長い指を受け入れ、そのかたちを変えていく。何だろう、このどこかに深く堕ちていくような心地は。自分の意思とは全く関係のないところで無理に引きずり込まれようとしているのに、それに対する躊躇など全く感じられない。
  何かが大きく動き始めている、外側からだけではなく内側からも自分が変わろうとしているのが分かる。橙色の炎に照らし出されるふたつの命が、漆黒の闇の中で美しく輝いていた。
  吐息が落ちたその場所は今度は熱を求め、ようやく熱を得た身体はまた次の場所へと新たなる刺激を求める。素肌を通して感じるのは、言葉にはたとえようのない互いからほとばしる想い。外気に肌を晒しても、寒さなど少しも感じなかった。それどころか、今は内側からの熱をどうにか逃したくて必死になっている。

「……季紗……」

 ほとんど音にならない声で自分の名が呼ばれ、次の瞬間には口を塞がれ強く吸われる。どうしてこのようにしているのか、その理由を訊ねることなど出来なかった。今の自分たちは、存在のない大きなものにせき立てられている。互いが互いに正気を失っているからこそ、こんな狂った真似が出来るのだ。もしも何かのきっかけで我に返ってしまえば、そこで全てが終わってしまう。

 ―― でも、それだけは嫌。

 彼がくれるものなら、何もかも余すことなく全てが欲しい。もしも自分に与えられるものがあるならば惜しげもなく全てを与えたい。求めれば求めるほど、さらに身体は疼き新たな熱を渇望する。今、ふたりが互いに同じものを求めているのなら、そこへ行き着くことこそが真実のかたちだ。
  身体は冷たい地面に横たえられ、少しでも堅い衝撃から避けさせようとしてくれているのか彼の腕が背に回る。顔の右半分だけがくっきりと浮かび上がった表情が、たとえようもなく美しい。乱れた金の髪が汗で頬にべったりと張り付いていた。

「……ああっ……!」

 自分の中の何かと激しく戦うように、彼はくぐもった呻き声を上げる。切ないほどの響きが季紗の心の底まで届き、そこからまた新たな疼きが生まれてくるのが分かった。

「……凱……」

 その名は、彼を表現するのに他にふたつとない相応しいものに思えた。強く抱きすくめられると、最後に残る躊躇いまでがどこかに消えてしまいそうになる。互いの胸を打ち付ける心音は、やがて大きく共鳴し合い、この先どうなることが自分たちにとって一番正しいことなのかを問いただしているようだ。

 ―― このまま、ひとつになってしまいたい。

 彼の手が季紗の腰に回る。やがて探し求めていたものにたどり着いた指先が細い紐を引いたとき、ようやく泡沫の夢が終わった。

「……駄目、それ以上は」

 その言葉を発することは、季紗にとって命を削り取るほどに辛い行為だった。身体も心も、決してそうすることを望んではいない。それを知りながら、あえて口にしなければならないのは拷問にも等しいことだった。

「……あ……」

 夢から醒めたのは彼もまた同じだった。一瞬前までのうつろな眼差しが消え、深い菫の瞳が幾分怯えて見える。

「ごめん、……その、こんな……」

 慌てて覆い被さっていた身を剥がし、彼はそそくさと乱れた衣を整え始める。少し遅れて季紗も身を起こすと、愚かな抜け殻をどうにか体裁よく繕った。
  しかし、この先どうしたものか。正気の戻った身体には外気は冷たすぎる。しかし再び彼の胸に戻ることが出来るものなのだろうか、それは想像するだけであまりにも危険すぎた。

「そうだ、君にはもう決まった人がいるのだからね。こんなこと、していいはずはないのに」

 恥ずかしさのあまり彼に対して背を向けてしまった季紗の背に、投げかけられる言葉。その瞬間、頭のてっぺんから足の先まで憎悪が駆け抜けていった。
  一体どこでそんな噂話を耳にしたのだろう。まあ、それも仕方ない。交流を絶ったとはいえ一本の河を挟んだだけの同郷の者なのだ。回り回って情報がもたらされることは大いにあり得る。

「それは……あなただって同じだと思うわ」

 振り向いた自分の目は、いったい何を映しているのだろう。あの麻未という娘こそが、この者の生涯の相手となる女子だ。愛される喜びに満たされ己を疑うことなく信じ切っている女子を幸せにするのが彼の役目ではないか。大切な使命がありながら、寄り道など出来るわけもない。
  しかし、目の前の男は季紗の問いかけには何も答えなかった。その代わりに、再び腕を広げてくる。

「もう、何もしない。そのことを山の神に誓うから、もう一度だけ信じてくれないか。ごめん、……本当に俺はどうかしてた」

 ―― この人は、自分のしでかしたことに後悔している。

 当たり前の真実に辿り着いたとき、季紗は唇をぎゅっと噛みしめていた。そうしていないと、身体の奥から湧き上がる感情を抑えることが出来ない気がしたから。
  己の欲望に我を忘れようとしたことを大いに悔やみながらも、それでもまたぬくもりを分かち合おうとするのはどうしたことか。そうか、この者はやはり生きて戻ることを望んでいるのだ。生きて再び人の住む里に戻り、愛しい人と再会するために。……そこから、そもそもふりだしの場所から違っていたふたりなのだ。

「……分かったわ」

 忘れてしまえばいいんだ、と自分自身に言い聞かせていた。たった今、我が身を通り過ぎた全ても最初から起こらなかったこととして記憶から抹殺してしまえばいい。そうすることでお互いの心に平穏が戻るのならばそれこそが一番の策ではないか。

 しかし。互いに距離を縮めて再び胸を合わせたとき、最初の気持ちに戻ることなど不可能だと悟った。切ない疼きが、次々と胸奥から溢れ出て止まらない。「何故」「どうして」と答えの出ない問いかけばかりを自分の中で繰り返し、そのたびに新たな痛みが胸を刺す。どうにかそれを押さえようとすると、今度は身体が大きく震えだした。

「ごめん、……その、本当にあんな風にするつもりはなかったんだ。だから、その……本当に、ごめん」

 彼の身体もまた、大きく震えていた。でもそれは自分とは全く別の感情が起こしているもの。はっきり分かっているだけに、胸が苦しくて仕方ない。

「もう……謝らないで。お願い、これ以上は謝らないで」

 季紗にはそれ以上を口にすることは出来なかった。ただただ、彼の口から出る謝罪の言葉を止めたい。そうされることで、自分がさらに惨めになってしまうことが分かっているから。

「……でも」

 彼はなおも躊躇い口を開こうとする。だから、季紗はそれを断ち切るように大きくかぶりを振った。

「お願い、……お願いだから、やめて」

 いつか頬を温かなしずくが伝っている。しかしその意味を自身で悟ることはあえて避けた。止めどなく溢れるものが隠しようのない真実を告げているのに、それを隠すことでしか己を守り切れない。
  分かち合うぬくもりは変わらずにあたたかであるのに、今はそれがとても遠いもののように思える。自分には決して与えられるべきものではないと思い出してしまった瞬間に、全てが壊れてしまった。だから、後に残る真実など何ひとつない。

「そうだな、……もうやめたほうがいい」

 ようやく告げられた承諾の言葉も、季紗の心を温めてはくれなかった。それどころか新たなるくさびへとかたちを変えて、胸に深く突き刺さってくる。

「きっと、夜明けはそう遠くないはずだ」

 ささやかな眠りに落ちる瞬間に確かに耳に届いた言葉は、その後も幾度となく季紗の心に蘇ることになる。

 

◆ ◆ ◆


 次に気がついたときには辺りはすでにほの明るく、一面が白い靄に包まれていた。細い煙を一筋残した熾火が、白い残骸となって目の前に広がっている。不思議なくらい静かな、何もない空間だった。

「さあ、そろそろ行こうか。少し歩いてみたけど、足下もそれほど危なくない感じだったよ」

 目覚めたとき、それまで自分を包んでいた生身のぬくもりは消えていた。代わりにずっしりと重いほどの衣が肩から掛けられている。その中には夜通し崖の枝で乾かしていた自分の衣もあり、すっかりと元通りになったそれを素早くまとうと、立ち上がった。

「ええ、……その、いろいろありがとう」

 ―― この人は、どのような想いで自分を包んでいた腕をほどいたのだろう。

 彼の手へと衣を返しながら、礼にもならないような言葉を告げた。こんなとき相手の胸を打つような気の利いた台詞が言えたならいいのに、どうにも上手くいかない。そんなのはいつものことで、今更思い悩んだところで仕方ないのだ。

「いや、こちらこそ。―― さあ、急がないと」

 当然のように差し出された手のひらを、季紗はただぼんやりと見つめていた。すると彼は喉の奥で低く笑う。

「森の中はどうしても足場が落ち着かないからね、山を下りるまで君のことを守らせてもらえないかな」

 ―― 何故、まだそのようなことを言うの。

 しかし、胸をよぎった言葉をそのまま返すことは出来なかった。それ以外の返答も浮かばないままに自分の手をそこに重ねる。しっかりと絡み取られた指が忘れようとしていたぬくもりを再び思い起こさせた。彼は季紗の手を包んでいない方の手に提灯を持つとゆっくり歩き始める。そしてその歩みを季紗に合わせることを決して忘れなかった。

「あら、そちらは道が違うわ。このまま右に折れれば、下山道に繋がるはずよ?」

 昨夜の饒舌なやりとりが嘘のように、早朝のふたりは無口だった。次第に明けていく山道。しばらく歩いたのちに、不意に彼は道を左に折れようとする。見覚えのある風景に、季紗はすぐに異を唱えた。

「ううん、こっちでいいんだよ」

 しかし彼の方は平気な様子でどんどん奥へと進んでいく。片手をひかれている身では従う他はないが、何故このような思い違いをするのか分からない。少し進んだところでいよいよ辛抱できなくなり、季紗は足を止めてしまった。

「ねえ、これ以上行くとまた迷子になってしまうわ。……意地悪はやめて、さっきの場所まで早く戻りましょう」

 そこでようやく、彼はこちらを振り返った。その口元はほころんでいる。

「迷子になんてなるはずないよ、俺にとっては何度も歩いている庭みたいな場所だしね。―― せっかくだから眺めていこうよ、花の盛りを」

 今の今まですっかりと忘れていた最初の目的を思い出して呆気にとられている季紗に、彼は続ける。

「きっと、君も気に入ると思うんだ」

 ひんやりと頬をくすぐる朝の気、魔物のように襲いかかってきた昨夜の荒れが信じられない。目に見えて明るくなる風景に、木々の露がきらきらと輝いている。地上とは全く違う樹木の素顔に季紗は胸の高鳴りを押さえることが出来なかった。
  こんなにも世界は希望に満ちあふれている。それなのに、自分は全てを捨てて闇の中に戻ろうとしているなんて。あまりにも愚かしいこと、……でも何もかもを覆す強さも持てないままではそうする他ないのだ。だからせめて―― 。

「ほら、ごらんよ? 見事なものでしょう」

 急に目の前が開ける。突然現れた花園に、季紗は息をのんだ。

 

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