「……すごい」 辺り一面が、白い花で埋め尽くされている。花弁や葉の一枚ずつに朝露が輝き、さらにむせかえるような花の香に満たされている。さながら、夢の空間。人の手を借りずに自然が造り上げた世界には、想像を遙かに超えた神々しいほどのきらめきがある。 「一輪ずつは本当に小さな花なんだ、それなのにこんな風にたくさん集まることでここまで素晴らしい景色を創り上げることが出来るんだね。それにこの香りはどうだろう、自分が今どこに立っているのか分からなくなってしまうほどだよ」 深い森の中にも、朝の光は漏れ注いでくる。無数の飴色の帯がゆるやかに天から降りてきて、辺りを美しく染め上げていた。 「……っ……!」 生きて再び巡り会うことの叶わない、今このときだけの情景。消えてしまう前に、どうにか留めて置きたいと願うのに、今の自分にはどうすることも出来ないのだ。しかしここで諦めることなど何故出来よう。時間がないのだ、自分には「明日」も「翌年」もあり得ない。今このときだけに全てを賭けなければならないのに。 口惜しい、という想いが堰を切って溢れだしてきた。 力不足と言われればそこまで。自分には望むべき夢に辿り着くだけの能力がなく、今からそれをのばすだけの時間もない。少しばかり持ち合わせているもので、どうやらここまではやってきたが、この先はもう限界と板挟みになった状態で進んで行かなくてはならないようだ。 「大丈夫か?」 そう声がかけられるまで、もうひとりの存在のことをきれいさっぱり忘れていた。混乱した心を必死に立て直そうとする。この者の前で、二度と弱い自分を見せるわけにはいかないのだ。 「平気よ、何でもないわ」 どうやら応えてはみたものの、やはり声が大きく震えている。傍らの男はそれに気づいたのだろうか、それでもしばらくは次の言葉を発することもなく静かに佇んでいた。 「……難しいよ、この風景の全てを一枚の紙に描きとめることなんて出来るはずないと思う」 その声が聞こえてきたのは、どれくらいの時が過ぎてからだろう。結局、季紗が広げた紙には何も描かれておらず、どこまでも続く白に途方に暮れるばかりだった。 「こういうときは一度目を閉じてみるんだ。そして一瞬前までの風景を脳裏に描き出してみる。どうにかかたちになったと思えたら、もう一度目を開いて眺めてみる。それを幾度か繰り返していると、いつの間にか記憶の中にしっかり焼き付けることが出来るんだ」 それはまるで、彼が己自身に言い聞かせている言葉のように感じ取れた。何も自分の意見を季紗に押しつけようとしているわけではない。それなのに告げられる一言一句が、抵抗なくしっとりと心に染みこんでいくのだ。 「……難しすぎるわ」 その言葉も、決して誰かに問うたものではなかった。ましてや、応えを求めるものでもない。静かに、あるがままの姿で佇む白の情景。二度と戻れない、永遠の時がここにはある。 「気の済むまで眺めていればいいよ」 彼の方もすぐに立ち去る気にはなれないようだ。さもあろう、これだけの風景を目の前にしてあっさりと通り過ぎることの出来る者などいるわけもない。恐れも不安も一瞬のうちに消え失せ、心を真っ新な色に染め上げる。言葉では到底説明のつかないような、不可思議な世界。自分は今、まさにその中に立っている。 無意識のうちに動かした指先が、傍らの人に触れた。その場所が、じんと熱くなる。心のどこかで、強く何かを求めている自分がいた。しかし、どんなに願ったところでそれが再び起こることはない。胸がつれるような痛みが、再び襲ってきた。たぶん、自分はこの先もずっとこれに耐え続けて行かなくてはならないのだ。
その先の下り坂は足下を気にする必要もないほどなだらかで、周囲の風景を楽しむことも出来るほどであった。それでもふたりは互いの手を離そうとはしない。どちらから求めたわけでも求められたわけでもない、しかしせめて山を下りきるまではぬくもりを分かち合って過ごしたいと願った。 「……その、差し出がましいこととは思うんだけど」 すっかり無口に戻ってしまった彼が、ようやくそう告げたのはかなりの時間が過ぎてからだった。 「髪、もう少し手入れした方が良くないかな? 忙しくて時間がないのは分かるけど、そのまま捨て置くと取り返しがつかなくなるよ」 急にそんな風に言われても、季紗にはなんと言って応えたらいいのか分からない。自分の髪のことなど、長いこと忘れきっていた。これは忌々しい出来事を思い起こさせる象徴のようなもの。だからこの先もしばらくはそんな日々が続いていくと信じ切っていたのだ。 「そりゃ、一番見て欲しいと思う相手が側にいなかったら、意味のないことだと思ってしまうのも仕方ないけど……」 こちらがいつまでも返事をしなかったからだろう、彼は勝手に自分の中で考えをまとめてしまう。しかしその言葉を否定することも出来ず、季紗はただ俯いて唇を噛みしめることしか出来なかった。 ―― この人は、わたくしがあんな男を心から愛していると信じているのだわ。 何と馬鹿げたことだろう、もしも「そんなことはあり得ない」と声を大にして叫ぶことが出来たら幸せなのに。でもそれは、これから進もうとする未来を否定することになる。そんなことはどうしても嫌だ。せめて、自分の中でだけでも納得ずくで行かなくては、憐れでならないだろう。 季紗の手を引きながら少し前を行く男の髪は、朝の光に美しく輝いていた。艶やかなその流れを目で追いながら、新たなる痛みが胸に落ちてくる。自分の着古した衣も染め粉の色が落ちない指先も、その全てが情けなくてならなかった。 「わたくしは技術を習得するためにここに来たのよ。それなのに余計なことに心を砕きたくはないわ」 ―― 時間がないのよ。 最後の言葉は音にならない。そして彼からのそれ以上の言葉もなかった。しかし、どちらからともなく絡めた指先に力がこもる。心を透明なものが静かに通り過ぎていった。
「あ、迎えの者たちがそこまで来ているようだ」 刹那。その言葉が合図になったように、ふたつの手が離れた。最後に指先に残ったわずかな痛みが、やがて痺れとなって季紗の胸まで辿り着く。どんどん先に歩いていく背中を見送りながら、夢の最後にひとり取り残されていた。 「―― 凱っ……!」 と、山道を駆け上がってくる朱色の袖が見えた。金の髪が美しく舞い上がる。 「心配したわ、どうしてこんな無茶をするのっ! 大丈夫、どこか怪我などしてない? 私、……私、もう心配で心配で……」 俯いているその仕草から、遠目にも彼女が泣きじゃくっているのが分かる。当然のことだ、恋人が危険を冒して夜の山に分け入ったとしたら心配するなという方が無理だろう。 「大事はないよ、彼女とも今し方下山道で一緒になったんだ。お互い、運良く昨夜の荒れを避けることが出来たようだ」 何食わぬ顔をしながら作り話を続ける彼には、昨夜のことなど全く記憶に留めていないように思われる。人目を避けた離れた場所から仲睦まじいふたりの様子を眺めながら、季紗は指先に今も残るぬくもりを必死に追い求めていた。
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むろん、里への報告もない。もしも両親にこのたびのことが知れれば、すぐに連れ戻されてしまうはず。それが自分でも分かっていただけに、老師たちの寛容な措置に心から感謝した。 「自分ひとりの身勝手な考えで行動すれば、このように周囲に迷惑をかけることになります。せめて誰かに行き先を告げるべきでしたね、君は決してひとりではないのだから」 候補生たちの世話役である湖東老師は、大変な失態を犯した教え子に対してもいつも通りの柔らかな対応をしてくれた。こちらを気遣ってくれる、その思いやりの心がかえって季紗を苦しめる。どうせなら、頭ごなしに罵られた方が気が楽だった。それなのに老師はわざとわざと隙間を作り、季紗自身に考える猶予を与える。 どうすれば良かったのか、そしてこの先はどうすれば良いのか。 自らの道を自分で決断することが、季紗にとっては何よりも難しく恐怖すら覚える道のりだった。誰かに決められてしまった人生を歩んでいくことが得策だと信じ切っていたのに、この学舎ではそれが通らない。謹慎期間には自習をすることも禁じられている。他の候補生たちが出払ってしまった寮の一室で、季紗は一日中自問自答を繰り返すしかなかった。 ―― 今の自分の力を精一杯出し切った、世界にふたつとない作品を創り上げたい。 最後に行き着く答えはいつも一緒だった。そして、少なくともあの日山に分け入る前の季紗にとってはそれだけで十分だったのである。最初から決められている一年という期間に、自分の精一杯を確かなかたちにして残すこと。それこそが、自分の成し得ることの出来る最大の成果だと信じていた。 窓の外はいつの間にか茜に染まっていた。 ふと思いついて、季紗は自分の物入れから埃をかぶった行李を取り出した。こぶりのそれは膝の上に乗るほどささやかなもので、片手でも持ち上げられるほどに軽い。そして中には、荷造りをした頃に放心状態のままで適当に詰めたあれこれがそのままに並んでいた。 そのとき季紗の胸に落ちたのは、本当にささやかな勇気だった。
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