辺りが晩秋の色に染め変えられる頃、季紗が学ぶ訓練校の構内もにわかに騒がしくなってきた。春先に提出が迫った修了制作に本腰を入れて取り組む候補生たちが増え、それまではただ楽しげに振る舞っていた者も目に見えて顔つきが変わって来る。今や、講義室にも作業場にも緊張感が溢れていた。 もちろん、季紗は自分の得意とする布染めは色粉の選別から配合まで自力でこなすつもりでいた。素人目にはそう変わらぬように見える地染めも、本格的に仕上げるためにはかなりの技術を要する。不得手な絵付けではどうしても遅れを取ってしまう分、最初の染めで出来る限りの点数を稼ぐ必要があった。
「あら、珍しい方にお会いしましたわ」 久しぶりに廊下で声をかけられた。振り向くと声の主はあの麻未である。相変わらず美しい色目の衣を着込み、髪も丁寧に結い上げてあった。持ち合わせている技術こそは平凡なものであったが、この娘の色彩に対する見立てが際だっていることは面と向かうたびに思い知らされる。 「この頃の季紗様は作業場にこもりっきりで、講義室の方にはほとんどいらっしゃらないのですもの。お目にかかれなくて寂しく思っていましたわ。そろそろ里では新年の支度などもあるでしょう、そのようなお話もご一緒にしたいと思ってましたのに」 彼女が自分を見る目が、どこか以前とは違う色をしているような気がしていた。こうして近くに寄ったときだけではない、遠目に視線を感じるときにも何か鋭いものを感じられる。しかし、それはたぶん季紗の心の中にやましい想いがあるからだろう。それ以外に思い当たる節はない。 「そうですか、でも……わたくしは年末もこちらに留まるつもりですし」 わざわざ告げるまでのこともないと思ったが、とはいえこのまま立ち話が続くのも面倒だ。今の自分の頭の中は作品のことでいっぱいで、余計なことを考える隙間など残っていない。そのことをきっぱりと伝えるつもりだった。 「ま、まあ……っ! そのようなおつもりでしたの」 しかし、麻未は季紗の言葉に必要以上に強い反応を示した。本当に信じられないというその視線には、少なからずの非難の意を含んでいる。 「まさかそのような薄情な真似をする方だとは思いませんでしたわ! 里のご家族の方もどんなにかお困りでしょう、新年の行事は一族にとってことのほか大切なものなのに。もちろん凱と私は年末は早めに作業を切り上げて戻るつもりでおりますわ、それが次代を次ぐ者としては当然のことでしょう」 そんなこと、わざわざ言われなくても分かっている。一体、何としたことだろう。もともと少しばかり引っかかる物言いをする女子だとは思っていたが、最近は顔を合わせるたびにめざとく近寄ってきてしつこいほどに食い下がってくる。 ―― もしや、監視されている? そんな風に感じ取れるのは、さすがに自意識過剰というものだろうか。こと修了制作に関しては、候補生同士がおのおのの作品について詮索し合うことも厳しく禁じられていた。 「いえ、今年は特別ですから里の両親もわたくしの考えを快く受け入れてくれましたわ。ですからその期待に応えるためにも出来る限りの努力を惜しまないつもりですの」 事実とはかけ離れたことを告げるのは、さすがに胸が痛んだ。しかしそれも大事を成し得るためには必要な手段と思うしかない。 「まあっ、……それはさすがのお言葉ですこと! でもそのようになさったところで、凱には遠く及びませんわ。近頃の彼は人が変わったように真剣ですもの。私はそんな彼を心から誇りに思っておりますの、この勝負絶対に負けませんわよ」 そう言い放った麻未の視線が、自分の髪やほんのり化粧を施した顔に向けられていることにも気づいていた。それでも季紗は全てを知らぬ振りでやり過ごそうとする。 「作品は勝ち負けを競うものではありませんわ。もちろん、結果として点数がつくことには変わりありませんけど……少なくともわたくしはそこに重きを置いてはおりませんから」 目の前の女子の髪も確かに美しい。時間をかけて手入れをし、しかも色とりどりの飾り紐で結ばれている。でも、それほどのものを前にしても今の季紗はひるまなかった。 今、自分の輪郭を縁取っている金の髪は飴色に美しく輝いている。南峰の民が誇る金の髪も、よくよく眺めてみれば色味がいくつかに分かれるのだ。季紗の一族には過去に西南の血が混じっているに違いない。だから丁寧に手入れを施すことで、この上ない深みのある艶を出すことが出来るのだ。 そして、ひとつの決心が季紗に新たなる勇気をくれた。今まで感じていた負い目がひとつ消えることで、どんなにか心が晴れ晴れと透き通っていくことだろう。びくびくと人目ばかりを気にしていた自分、誰かと比較しては勝ち目がないと落ち込んでいた自分、そうすることで無駄に遠回りを続けていたのだ。 「わ、分かったようなことを仰って! でもっ、あなたなどに凱が負けるわけはないわ。それだけはご承知下さないと」 ―― だから、誰と競い合う話でもないと何度も申し上げたでしょう。 喉のところまで出かかった言葉をかろうじて飲み込む。この者と言い合ったところで埒があかないのは分かっている。最初から目指すところの全く違う人間なのだから、意見を合わせようとしたところで上手くいくはずもない。しかも双方では置かれている立場も全く違うのだ。 「急ぎますので、……失礼いたします」 まだまだ言いたいことがたくさんあると顔に書いてある娘の横を、季紗はさらりと通り過ぎた。そして先ほどまでよりいくらか早足になりながら、気を入れるために開け放たれた窓の外を見る。色とりどりに染まった遠くの山々が、そろそろその色を白く変えようとしていた。 もしもどこかに揺るがぬものがあるのなら、そう思う日もある。いくら誰と競うものでもないと自分に言い聞かせたところで、次々と襲ってくる不安を全て拭い去ることはとても困難だ。だから、いっそ自分ではない、何か大きなものを信じることが出来たらいいのに。そうすればもう、いたずらに思い悩むこともなくなる。何もかも忘れて、作業に没頭したい。 しかし、それもまた正しい道ではないとすぐに思い直す。 何もないところから、ものを創り出すという作業。そこで「自分らしさ」を求めようとすれば、始終自分自身に問いかけ、悩み、苦しまなければならない。もうこの辺でいいだろうと見限った瞬間、それ以上の努力をする術もなくなるのだ。最後の一瞬まで走り続けるためには、誰にも知られぬところでもがき苦しむことを続けて行かなくてはならない。 布染めの作業場からすぐ外に出た干し場では、たくさんの布がはためいていた。 ふと、干し場の一角に目をとめる。どうしてその場所に惹き付けられたのかは分からない、だが確かに今までにない胸の高鳴りを感じた。 ―― たぶん、彼の染めた作品なのだわ。 あの日以来、とんと姿を見せなくなってしまったあの男。その連れである麻未の方は執拗なほどに自分をつけ回すのに、当の本人はそれまでの親しげな様子が嘘のように側に来なくなった。もちろん、あのようなことがあった後では、気まずく思うのも当然である。忌まわしい一夜を忘れるために、今は顔を見るのも嫌だと言いたいのだろう。 「あなたなどに凱が負けるわけはないわ」―― と、麻未は言った。そして彼女がそう言わずにはいられないほどの気迫が、彼自身の中にあるのだろう。からからに乾いて長いこと置き去りにされた端布たちは、彼の苦悩をそのまま示していた。 ―― でも、これでも十分なのではないかしら? 一体どれくらい高いものを目指しているのか。その華やかな外見に反してかなり生真面目な性格であるとは思っていたが、ここまで意固地であっては自分といい勝負である。そろそろ観念したらいいのに。同輩たちの中には早くも地染めを終えてそれを専門の仕立てに回し、絵付けに入った者もあると聞いている。なのにまだこのような初期の段階で足踏みしていては、最後に時間が足りなくなってしまうだろう。 幾枚もの布の中から、季紗は薄桃の一枚を手にした。染め上がったその色を見れば、どのような染め粉をどんな配合にしたのかがだいたい分かる。他の色のものと比べて枚数が格段に多いことからも、彼がこの色を極めたいと思っているのは容易に分かった。 ……もしや、これは。 その布を手にしたまま、季紗は急いで自分の部屋に戻った。そして、行李いっぱいに詰め込まれた過去の試し布を広げてみる。どれにも日付と配合が詳細に記されていて、あとから見ても自分の作業の軌跡がすぐに分かるようになっていた。 ―― これだわ、間違いない。 半月ほど前の日付のものを布の山の中から引っ張り出す。まだ完成していない今一歩だった染め、そしてそのあとに自分が加えた染め粉も全て覚えている。刹那、指先がちりと痛んだ。
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―― どうしよう、本当にこのようなことをしていいのかしら。わたくしはもしかして、とんでもない見当違いなことをしでかしているのでは? 自分の決断が正しいものであるのかどうか、直前まで来てまた迷いが生じてしまった。だが、あまり悩んでいる間はない。こんな風にしているところを誰かに見られたら、何をしているのかと疑いの目を向けられてしまっても仕方ないのだ。 急いでその場を立ち去ると、季紗は何食わぬ顔で自分の釜の前へと戻った。そして地染めの最終調整のために、再び釜に火を入れたのである。
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