それきり、しばらくは静かな日々が過ぎていった。 「いえ、わたくしはこちらに残るつもりはございません」 再三にわたる有り難い申し出にもただ首を横に振り続けるしかなかったが、そうしながらも不思議と以前のような卑屈な気持ちが消えていた。自分のことを評価してくれる、そのことに心からの感謝の意をもって応えることが出来る。そんな自分の中の変化が不思議で、そしてとても嬉しかった。 ぼんやりしていると、あっという間に二日三日と何も手に付かぬまま過ごしてしまう。そしてまた同じ夕暮れの風景に出会い、何ひとつ進んでいない自分の愚かさに握りしめた手のひらに冷たい汗をかくことになるのだ。季紗は焦っていた、ここからが本当の勝負なのだと承知しながらもなかなか前に進む勇気のでない自分自身に。 ―― まだ、ひとつに決められない。本当に、どうしていいのか分からない。 その日も幾枚かの素描を手に、暗い気持ちで教官室へ向かっていた。染め絵の図案を決定するまでにはかなり苦労するとは思っていたが、これでは想像以上である。何度足を運んでも「これではまだまだ」と突き返され、もうこんなことでは永遠に作品が仕上がることがないのではないかとあきらめの境地に入り始めていた。 一日中野山を足を棒のようにして歩き回ったところで、たいした収穫があるわけではない。描き損じの紙ばかりが増えていき、そのたびに大きな溜め息がこぼれた。 老師たちの控えの部屋は、長い渡りを過ぎた突き当たりになる。そこに辿り着くまでには美しい中庭を通り抜けることになり、四季折々の風景を堪能することが出来た。もしも心が豊かに満たされているときであれば、ゆっくりと眺めるゆとりもあっただろう。しかし行き場のない焦りに追い立てられた季紗には、目の前に広がる全てを楽しむことが出来なかった。 ねっとりと濃度を増す、夕刻の気。長い髪を揺らしながら足を進めていると、自分の行く手にちらりと人影が見えた。どうも先客がいたらしい。早く通り過ぎてしまおうと伏せ目がちにまたいくらか歩き出したところで、ハッと息をのんだ。 ―― 彼だ。 しばらくは遠目にも見たことのなかったその立ち姿が、自分でも信じられないほど懐かしく思える。だが、ここはどうしたものか。先日自分のしでかしたことが、ちらりと頭を過ぎる。一体どんな顔をしてすれ違えばいいだろう。彼はあのことを迷惑に感じているのかも知れないのに。 ああ、あのようなこと。途中で思い留まれば良かったのに……! 何事もことを起こす前から諦めてしまうような性格で長い間を過ごしてきた。だからやらなくて後悔したことはあったとしても、やり過ぎて悔やむことには慣れていない。 泣き出しそうな気分になりながらも、季紗は意を決して再び歩み始めた。さらに重くなった気が髪に絡みついて、何とも動きにくい。しかし指定された面会の時間も迫っている、だから躊躇っている暇などないのだ。 「やあ、久しぶり」 無言で通り過ぎるものだとばかり思っていた男が口を開いたのは、ちょうどお互いの肩が触れ合うほどに近づいたそのときであった。ぴくり、と身体が反応する。しかし、短い返事もすることが出来なかった。 「これから湖東老師のところへ行くんだね。持っていくのは染め絵の図案かな?」 気の置けない候補生同士であれば、当然のようにかわされる会話である。だが、その言葉の響きの中に妙によそよそしい感じを受け、胸奥がまたちりっと痛んだ。 「……ええ」 かろうじて絞り出すことが出来たのは、それだけだった。伝えたいことはもっと他にいくらでもあったはずなのに、今の瞬間には頭の中が真っ白になってしまっている。 「そう。制作の方は順調に進んでいるみたいだね、そろそろ仕立てが終わって戻ってくる頃なんじゃない? 俺の方は今日やっと出したところだからな、しばらくは作業の手が止まってしまうよ」 そう言いつつも、余裕すら感じられる雰囲気だ。さもあろう、この男にとってはこれから先の染め絵の作業こそが得意の分野なのである。図案も早くから決まっているだろうし、早く仕事を始めたくてわくわくしているのではあるまいか。……なんて、羨ましいこと。やはりこの者と同じ土俵に立つことなど出来る自分ではないのだ。 「いえ、そんなに上手くいってないわ」 確かに地染めは納得のいく仕上がりになった。だがこの先の作業をしくじれば、自分にとって唯一の切り札も台無しになってしまう。それが恐ろしくて仕方ない、だから前に進めない。目の前の男のように楽しみながら進めることなど出来っこないのだ。 あのときの、ぬくもりが。 忘れていたはずの感情が浮かび上がりそうになるのは、頬を染める夕焼けの温かさのせいだろうか。流れの中に紛れた細かい粒が、光を反射してキラキラと輝いていた。あんな風に、軽やかに自分の全てを解放することが出来たなら。―― 否、そのようなこと出来るわけもない。 「そんなことを言って。まだ時間はたっぷりあるんだ、気の済むまで悩んでみればいいと思うよ。このたびの制作は簡単に仕上がるものではないんだからね」 その言葉は、季紗に向けられているというよりも彼自身の心の中に言い聞かせているように感じ取れた。誰もが多少の差はあってももがき苦しんでいる現状にある。それそれの目指す頂点は違っても、歩み続ける過程の辛さは同じだ。 「そうね、……そうするしかないと思うわ」 何かが心の中で暴れ回っている、しかしその正体が全く分からない。ぐるぐると堂々巡りを続ける感情を、一体どうしたら良いものか。吐き出すあては何処にもない、でもこのままでは苦しくてどうにかなってしまいそうだ。 「―― そうだ、聞きたいことがあったのだけど」 これで会話は終わるのかと思った刹那、彼が躊躇いがちに切り出した。 「あれは一体、何?」 それは、他の者には通じない、ふたりだけの暗号とも言えるような言葉だった。季紗の心も素早くそれに反応する。そして、このとき初めて向き直って彼の顔を真正面から捉えた。 「西の集落で作られている染料よ、その地方だけで採れる山苔(やまごけ)が原料になっているんですって」 種明かしをしてしまえば、他愛もないことである。あっという間に伝えることの出来る事実が、とても軽々しいものに思えた。 「苔が……そんなものもあったんだ」 染め粉の材料とされるものは数えきれぬほどある。身近なところで草木を使ったもの、岩から採取されるもの、特殊な薬品を利用して色味を変える方法も広く用いられていた。 「でもいいの? そんな貴重なものを俺に渡してしまって」 やはり気づいていたのだ―― それを承知したときに、季紗の心の中には不思議な感情が芽生えた。今までうずくまったままでいた不安な気持ちが、それでも少しは楽になったような気もする。「何か」が確かに伝わったのだと分かれば、それだけで嬉しかった。 「別に、あれはもうわたくしには必要のないものだから。使わないままで無駄にするよりはいいと思ったのよ」 強がりを言っているわけではない、本当にその通りだったのだ。いつか必要になるかも知れないと持ち合わせていたが、このまま何の役にも立たないのは残念なことではないか。そう思う気持ちが新たな勇気になり、しっかりとした口調で次の言葉を伝えることが出来た。 「それに、いくら良い材料を手に入れたところで使いこなす腕がなかったらどうにもならないでしょう。あれはかなり癖のある品だったはずよ、わたくしだってコツを掴むまではとても大変だったもの」 季紗の問いかけに、彼は口元を緩めた。かすかな表情の変化から、全てを読み取ることが出来る。きっと全てが上手くいったのだ―― はっきりした返事として聞かなくてもそう確信できた。 「敵に塩を送るとはね、君の行動はやはり予想が付かないよ」 ―― いえ、あなたは「敵」ではないわ。 喉まで出かかった言葉を、季紗はかろうじて飲み込んだ。そして次の瞬間、絡み合っていた視線を静かにほどく。すぐ側にあるはずのぬくもりが、今はあまりにも遠かった。
◆ ◆ ◆
面談室には大きな机が置かれている。その向こうに立つ湖東老師は季紗を笑顔で迎えてくれた。この人はいつでも温かい、そして決して否定的な言葉は使わない。行き先も告げぬままに山奥へと迷い込んで皆に迷惑をかけてしまった自分のことも、身を盾にして庇ってくれた。 「いえ、それが……とても上手くいっているとは言えません」 今日、ここへ来ることも正直気が重かった。自分自身が納得できるような図案がどうしてもまとまらない。描き出したいものの全体像は頭の中にはっきり浮かんでいるのに、それを思い通りに表現することが出来ないままなのだ。 「そうか、それは困ったね。あれだけの地染めが出来たのだから、上に乗せる絵も相応のものでなくてはならないのに。……ああ、またこんなに何もかもを詰め込もうとして。君の持ち味であるはずのおおらかな線が完全に死んでしまっているよ」 以前から何度も同じことを注意されている。描きたい素材が多すぎて、その全てを表そうとするから散漫とした絵になってしまう。分かってるのだが、このたびは今までの集大成とも言える終了課題だ。どうしても肩に力が入ってしまい、上手くいかない。 「ああ……そうだね。では、このように考えたらどうだろう」 老師はゆっくりと目を細めると、広げられた幾枚かの図案の中から一枚を手にした。そしてそれをおもむろにふたつに折ると、向きを変えて季紗の方へと差し出したのである。 「この先に続く空間を生かす、と考えるのはどうかな? そうすれば、大きな絵が描けるようになるだろう」 優しい指先が、半分の絵が消えた箇所を辿っていく。一体これはどういうことだろうか、謎解きのような言葉に季紗としては首をかしげるしかない。そのような学び子の姿をどう見たのか、湖東老師は更に言った。 「君もすでに承知しているであろうが、限られた空間に図案を乗せるのはかなり難しい作業だ。しかも人が身につけて初めてその威力が発揮されなければならない。だから独りよがりでは駄目だ、時には多少無理をしてでも大胆に一部を切り取って見せる必要があるのだよ」 そうは言われても、やはり合点がいかない。季紗が描いていたのは、香り草の花園の中で寄り添うつがいの鳳凰だ。二羽が揃っていなければ、絵は完成しない。それなのに片方をなくしてしまえとは、何と乱暴な話だろう。 「本当に描きたいものは何なのか、それをもう一度良く考えてご覧。そうすれば、答えが見えてくるはずだ。決して欲張っては駄目だ、そんなことをしたらもう一方までを失うことになる」 季紗はハッとして顔を上げた。その視線の先には、いつもと変わらない柔らかな笑顔がある。 「大丈夫、信じたとおりに進めば全てが上手くいくのだよ。案ずることなど何もないはずだ」 ようやく霧が晴れた。目の前には、真っ直ぐな道がどこまでも続いている。しかし、本当の試練はこれからだった。
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