…13…

 

 

 その日も、季紗の作業にはひとつの進展も見られなかった。何度も何度も繰り返し試し布に描く線が、いつまで経っても思うような曲線を描いてくれない。どんなに腕に指先に神経を集中させ息を詰めてみても、結果は同じだった。

 ―― そんな馬鹿な、早く次の段階に進まなければならないのに。

 ようやく図案が決まり、湖東老師の許可も下りた。いよいよ、主線を染め上げた絹に乗せることになる。それは全ての制作過程の中でも、他のどれよりも気が張る難しい作業だった。特に染め絵に苦手意識を持っている季紗にとってはなおさらのことである。
  頭の中では生き生きと描き出されている完成図、しかしそこに辿り着くための最初の一歩も踏み出せないでいた。仕方がないじゃないか、どんなに時間を掛けて繰り返して練習したところで能力には限界がある。今このときの自分に出来る精一杯を示せばいいはずだ。何も最高級の仕上がりを求めることはない。
  分かっているのに、頭ではそう分かっているはずなのに、どうしても諦めがつかなかった。あと少し、もう少しだけでも細くしなやかな線を描くことが出来ないだろうか。祈るような気持ちで繰り返してみても、結果はいつも同じだった。

 いつまで歩き続けても、辺りは真っ暗闇で出口などどこにも見つからない。もしやこのまま、永遠に袋小路で彷徨うしかないのか。あてもなく闇雲に求めたところで、希望の光に辿り着くことはない。
  見えない壁にぶち当たる経験は、この訓練校に入ってから幾度かあった。泥に足を取られて、進みたくても進めないもどかしさ。いつ終わるかも見当の付かない沈黙の時間に、決まって頭を過ぎるのは今まで自分が歩んできたかつての道のりの記憶だった。
  誰からも相手にされず、その存在すら否定され続けて来た幼い日々。草木も枯れる凍えた大地にたったひとりでぽつんと佇んでいる、小さな子供の姿が見える。伸びかけの金の髪を荒々しい気にさらし、途方に暮れた瞳で遥か遠いどこかを見つめていた。

 ―― 求めても手に届かないものばかりならば、せめて己の心の中でだけ大切に育んでいこう。

 心に焼き付いた風景、胸躍らせる豊かな色彩。出会うたびに大切に、胸の中にひっそりとしまい込んだ。道ばたの小さな石も天高く羽を広げて飛ぶ渡り鳥たちの姿も、同じくらい遠い存在。奪われるものがないかわりに、与えられるものもない。ひとりきりの時間が、一番安全だった。
  初めは何かを強く求めていたのかも知れない。しかし、気の遠くなるほどの時を過ごす中で、いつの間にかそれを忘れていた。一度失ってしまったのだから、もう再び戻ることはない。そう思って、諦めかけていた。
  しかし今自分は、長い間溜め込んできたひとりだけの秘密を、不特定多数の視線の前に晒そうとしている。何と愚かで、そして恥ずかしいことか。ひとつの作品を自分だけの手で創り上げると言うことは、己の内面を余すところなく取り出さなくてはならないのだ。適当なところでやめてしまえば、結局中途半端な仕上がりにしかならない。
 
  ―― やはり、わたくしには成し得ることの出来ない大業なのではないだろうか。

 進みかけては戻り、戻りかけてはまた思い直す。このままどんな絵を描いたとしても、自分が思い描くような仕上がりにはならない。それならば、いっそのこと何も描かない状態で提出してしまおうか。むしろその方が、高く評価してもらえるかも知れない。たとえそれが、未完成で終わるものだったとしても。
  このまま突き進んで全てを台無しにするよりも、ここで踏みとどまった方がどんなに被害を少なく済ませることが出来るか。それくらいのこと、深く考えるまでもなく分かる。
信じたとおりに進めば全てが上手くいくのだよ―― と、湖東老師は仰った。だがしかし、こうも言えるのではないか。自分の真の心が先に進まぬことを望むなら、その声に従うことも「己を信じる」と言うことと相違ない。

 恐ろしかった、自分の全てをさらけ出すことが。もう耐えられない、一刻も早く逃げ出したいと願った。やはり自分には無理だったのだ。最初から大それた望みなど、願うべきではなかったのだ。ああ、こんな場所に来なければ良かった。そうすれば、いつまでも小さな世界の中で己のことなどひとつも知らずに一生を終えることが出来たのに。
  いや駄目だ、こんなことでは。どうにかして立ち直ろうと思っても、さらに深みにはまっていくばかり。悩みを打ち明ける相手など見つかるはずもない、今まで誰に対しても心を閉ざしたまま過ごしてしまったのだから。

 狭い小部屋に一日中籠もっていたかと思うと、その次の日は行くあてもなく広い敷地内をさまよった。秋から冬への季節の移ろいは驚くほど早く、遠くの山々は白く色を変えている。ついこの間までは色鮮やかに見えた庭木たちも今ではすっかり葉を落としてしまっていた。
  それでも枯れ枝の重なり合ったその根元に、小さな野花を見つけたりもする。指の先ほどの頼りない花びらが少しでも光を集めようと必死になっていた。時期に遅れて開いても、己の使命だけをひたすらに全うしようとする。今の自分にはこの花ほどの勇気もない。
  そう悟った瞬間に、止めどなく涙が溢れてくる。何故自分はここにいるのか、さっさと里へ逃げ帰った方がいい。もう嫌だ、これ以上恥をさらすのは。この先どんなに頑張ったところで、望むような成果は得られない。もう、これ以上頑張るのは無理だ。
  今の季紗にとって、あの魔物のように恐ろしい男の元へ戻ることもそう難しいことではなかった。先の見えない苦難に立ち向かうのに比べたら、どんなに楽な選択だろう。逃げたい、逃げてしまいたい、楽になりたい。たとえ後に何も残らないとしても、それでいいじゃないか。最初から自分はそれだけの器だったのだ。 気づけば、辺りはすっかりと暗くなっている。また一日を無駄に過ごしてしまった、きっと明日もその次の日も、同じように過ごしていくしかないのだ。

 

 とぼとぼと小部屋の前まで戻ったとき、目隠しに張られた出入りの布の端に何かがちらりと見えた。最初は小枝のように見えたそれは、よくよく確かめれば二本の筆。それもかなり使い込んでいるものだ。自分の道具ではない、それでは誰かが置き忘れたのか。さもなくばうっかりと落としてしまったのか。慌てて辺りを確かめてみたが、今通り過ぎたような人影もない。

「……!?」

 刹那、季紗の指先が大きく震える。そして筆の下に敷かれていた端布に真実を見た。

 ―― 彼だ。

 再び立ち上がり、遠くまでをうかがってみる。しかし灯りもなく静まりかえった学舎には、いくら耳をすませてみたところで物音ひとつしなかった。だから確かめる術はない、いつここにこれが置かれたのか。

 手のひらに乗るほどのささやかな布は、今まで季紗が一度も見たことがないほど美しい色に染まっていた。

 

◆ ◆ ◆


「ずいぶん顔向きが良くなった様子だね」

 翌朝、気晴らしに出かけた布染めの作業場で、担当の老師から声を掛けられた。湖東老師よりはいくらか若く見えるその人は、驚いた瞳で見つめる季紗に優しく微笑みかける。

「良かった、教官室の皆でずいぶん心配していたのですよ。君は物事を真面目に考えすぎるところがあるからね、あまり思い詰めてしまってはと不安でした。そう……でも、もう大丈夫ですね」

 さらに温かい言葉を重ねられても、季紗には何も答えることが出来なかった。ただただ、信じられない問いかけに目を大きく見開くのみ。知らなかった、自分の中にある苦しみなど誰にも理解できることではないと諦めていたのに。

「さあ、残された時間はそう多くありませんよ。どうぞ精一杯、自分の力を出し切ってください」

 こうして静かに遠くから、自分のことを見守ってくれている人がいる。始終側にいて苦しみや辛さを分かち合う間柄ではないとしても、見えない眼差しが手のひらが明るい場所へと必ず導いてくれる。人の世でたったひとりきりで生きていくことなど、最初から願っても無理な話なのだ。

 胸元にそっと隠しているのは、昨夜拾い上げた二本の筆。そしてそれに添えられていた端布である。あのまま心の霧が晴れたような心地で寮へ戻り、夜もぐっすりと休むことが出来た。まだこの道具を試してはいない、でも必ず上手くいくという自信がある。
  どうしてこれが自分の手に託されたのか―― その答えは、改めて考えるまでもなく分かっている。正直、人の心を探るなど出来ることではないだろう。だが目には見えない手で触れることも叶わないその理由は、過日自分の胸に湧いたひとつの望みと同じ色をしているような気がしてならない。

 

◆ ◆ ◆


 その日は昼前に全ての雑用を済ませ、午後の全てを作業に当てられるようにした。
  ようやく両腕が伸ばせるほどの広さで仕切られた小部屋は、隣の者の出す物音も吐息もはっきりと聞こえてくる。ただ幸いなことに季紗の両隣の小部屋の住人たちはそれほど熱心な候補生ではないらしく、在室していることは稀であった。もしかすると、最初からそのようなことまで考慮して部屋割りをしているのかも知れない。

 これひとつを広げるだけで小部屋がいっぱいになってしまう作業台。たすきがけをして身支度を整えたあと、まずは扱いやすい無垢の絹を広げた。目の詰まったなめらかな生地であるから筆の滑りも良い。普段の練習用ならば惜しげなく使える綿や麻を用いることが多いが、このたびはその必要もないと思った。
  主線用の色粉は専用の液で溶いたあともねっとりと糸を引くほど。あらかじめ適当な量を筆先に含ませるようにしないと、途中でかすれたりあるいは思いがけずに太くみっともない線になってしまったりすることもある。細心の注意を払いその加減を見極めると、季紗は大きく一度深呼吸して気持ちを一点に集中させた。
  腕を大きく使い、左から右へと長い一本の線を引いてみる。筆を手にしたときの感触にもまず驚かされたが、実際に動かしてみたときの信じられない軽さには心が半分浮き上がるような気がした。

 ―― なんてこと、……これは一体。

 信じられない面持ちで、再び筆を返し今とは逆の向きへと戻してみる。手首を返しながら進んでいくのは扱い慣れた道具でも難しく、なかなか思うようにいかないものだ。だが、今は違う。まるで心の中に自由に描いていくように、どこまでも素直な線が描ける。一体、どうしてしまったのだろう。昨日までの自分からはとても考えつかない。
  こうなると、もう自分の意思とは関係なく勝手に身体が動いていく。瞬く間に目の前にはかつて一度も思い描けたことがないような美しい情景が描き出されていた。最後の一線を描き上げたところでようやく筆を止め、一息つく。何事が起こったのかも判断できないままに、季紗は己の中から湧き上がった新しい感情に魅了された。

 ―― このまま行けば、わたくしは最後までやり遂げることが出来るかも知れない。

 他人から見ればまさかと思うような小さなきっかけで、世界の全てが塗り替えられるような出来事が巻き起こることがある。まさにそれが今、自分の目の前で起こっている奇跡ではなかろうか。何故、ここまで羽のように軽く扱いやすい道具が存在するのだろう。特別の魔力でも秘められていると考えなければ、説明が付かない。

 その日は辺りがすっかり暮れて食事の時間になってもまだ、作業を終えることが出来なかった。こんなに楽しいのに、何故手を止めなくてはならないのか。勢いづいた心が、前へ前へと急ぎ進もうとする。時間の感覚もなくなっていた、疲労など少しも感じなかった。ただただ、自分の内側から溢れてくるものを急ぎ描きとめる、それ以外になすことは何もない。

「……あ……」

 ようやく一息ついたとき、東の空が白々と明けかけていた。

 

◆ ◆ ◆


「……何と……! これはどうしたことだろう……!?」

 翌日、身支度もそこそこに湖東老師の元を訪れた。一晩かかって描き上げた素描を広げると、想像を遙かに超えた反応が戻ってくる。

「素晴らしい、……まさか君が、君がここまでのものを描くことが出来るとは……! いやはや、こうなると作品の完成が恐ろしくなるよ。この先、君がどこまで化けるかもはや見当がつかないな」

 この言葉は季紗にとっても驚きであった。
  もちろん、今までで一番褒めていただけるとは思っていた。でもここまで仰っていただけるとは、もったいないばかりである。ここにいる御方は染め絵の世界でも広く名を知られている存在ではないか。もし、この学舎に来ることが叶わなかったら、一生お目に掛かることも無理な尊い方だったのだ。
そう思うと、嬉しさと同じくらい恥ずかしさと恐ろしさがこみ上げてくる。そう広くもない部屋の中にあって出来る限り身を縮ませて控えていた季紗は、師の震える背中を途方に暮れた気持ちで見つめていた。

 何故、自分にここまでの仕事が出来たのか、それが分からない。まるで我が身が目に見えない大きな力に支配されているように、自分の内側から様々な想いが湧き水のごとく勢いよく溢れ出てきた。あんなに自由におおらかな気持ちになれたことは今までに一度もない。真に解放されるとは、まさしくあのようなことを指すのではなかろうか。

 しばらくは無言のままのときが過ぎていった。やがて湖東老師はゆっくりと振り返り、やや落ち着きを取り戻した眼差しで季紗を見つめる。そこにはきらめくような希望がはっきり感じ取れた。

「……ようやく、良い道具に巡り会えたようですね」

 投げかけられたその言葉に、一体何と返答したらいいものか。何も頭に浮かばぬままの季紗は、無言のまま呆然と師を見つめ返すことしか出来なかった。

「君がなかなか思うように行かずに苦しんでいることは分かっていました。すぐに教えてあげても良かったが、やはり時間の許す限りまずは自分自身で考えて欲しかった。可哀想なことをしてしまったと思っています、もしも君がまだ迷っているようなら、今日こそははっきり言ってあげようと考えていたのですよ」

 何か答えなくてはと思う口元が空を切る。そんな季紗を師は優しく見守った。

「たかが道具、されど道具です。芸の道は全てが技量だけで片付く世界ではありません、やはり良い師を得て良い道具と巡り会わなくては。残念ながら、君は己の能力に見合う品をそろえてはいませんでした。道具選びを誤ればせっかくの才能を殺してしまうことも少なくはありません。どうして君ほどの能力があってそれに気づかないのか、私は今までそれが不思議でなりませんでしたよ」

 ようやく何かに思い当たった気がして、季紗は静かに目を伏せた。ああ、やはりそういうことだったのか。以前より薄々は感じていたものの、自分の力ではどうすることも出来なかったために無理矢理にでも思い過ごそうとしていた。結局はそのことが、自身の首を絞める結果となったのである。
  この訓練校への入校が決まったときに里の両親が用立ててくれた所持金は本当にわずかなものであった。それも仕方のないことだと分かっている、全く予期していなかった出費を簡単に捻出できるほど実家は裕福ではない。しかも近く婿を迎えることが決まっていれば、その準備で相当な額が必要になる。苦しい中でもどうにかかき集めてくれた予算の中で、決められた道具を揃えるのはとても大変だった。
  よくよく探してみれば、たまには安くても品の良いものも存在するだろう。しかし、何のつてもなく時間もなかった季紗には、どんなに頑張ったところで今持っているもの以上の品を手に入れることは出来なかった。

「さあ、ぐずぐずはしていられませんよ。思い切り力の限り頑張りなさい、ここまでのものが描けるようになればもう何も怖いものはないはずです」

 

 自分の力だけでは飛び立つことが出来なかったことを、とても情けなく思う。だが、どのような後悔があるにせよ、今は前だけを向いて進んでいくしかない。震える指先を胸に置き、何度も己に言い聞かせる。

 ―― 大丈夫、心の中にある希望を忘れずにいれば。

 

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