…14…

 

 

 久しぶりの日差しが目に痛かった。
  頬を切るほどの冷たい気が季紗の長い髪をなびかせ、金色の残映をいくつも作っていく。まだまだ物足りない、もっと長い時間作品と向かい合って過ごしたいと願ったが、そうしているうちに気持ちよりも身体の方が先に参ってしまった。
  衣を一枚多く羽織り、裏庭に出る。そこにはかつての色鮮やかな風景はなく、ただどこまでも枯れ野が広がっているばかりであったが、ひなびた色に包まれた大地からは柔らかく春を待つ息吹も感じられた。手をかざせば、冬本番を迎えた荒野の日溜まりも暖かい。
  ふと思いついて足を伸ばしてみたが、山道の入り口には木製の柵が作られ「立ち入り禁止」の札が揺れていた。荒れ狂う気から逃れ必死の一夜を過ごしてから、とても長い時間が流れた気がする。あのような恐ろしい経験を二度としたいとは思わないが、それでも心のどこかではまだ断ち切れない想いが疼いていた。

 朝に夕に、気の遠くなるほどの時間をひとつの作品と向かい合って過ごす。それはまた自分の真の姿と対面することでもあった。そして、とうとう気づいてしまったのだ。心の一番奥深い場所に隠していた紛れもない真実を。
  他の誰は騙せても、自身の想いを偽ることは出来ない。あの嵐の一夜から、否それよりももっと以前から。あるいは初めて彼の作品に対面したときから、それは始まっていたのだ。
  一筆一筆塗り重ねるごとに、指先に感じる鈍い痛み。着々と完成に近づいていく自分自身の心の内面図。たとえようのない渇きが身体を駆けめぐり、どうしようもない気持ちになる。それでもなお、筆を動かし続けるしかないのだ。

  ―― 願うことなど、初めから出来るわけもないと分かっているのに。

 人にはそれぞれ、己の進むべき道がある。決まり切った進路を決して踏み外さぬように歩いていく、それこそが「生きる」ということだ。だからあとには何も残らなくていい。自分の中にあるものは、全てこのたびの作品に捧げよう。そして何もかもがなくなって空っぽな自分になれば、何の未練もなく里に戻れる。
  彼ともう一度、ゆっくり言葉を交わしたいと思った。それが無理ならば、遠くからその姿を認めるだけでも良い。その存在が、自分を揺り動かす力になる。ほとばしる想いが、新たなる色を染め絵の上に重ねていくのだ。そうしていく過程で生まれる痛みを、誰にも知られる訳がない。そんな風にして、最後まで隠し通す自信が季紗にはあった。

 ―― 人を、ひとつの命を、ただ一心に想い続ける力。

 それが今、己の中にあるのは決して嘆かわしいことではなかった。この先、一生抱き続けることも可能だ。ありきたりの言葉では表すことの出来ない心が、胸の中で大きな渦になる。ただ一夜に感じたぬくもりが、絶えず季紗の胸を締め付けた。それはあたたかなやさしい言葉だけでは言い尽くせぬ、心の芯が感じる疼きである。

 年の暮れも新年を迎える上での様々な行事も、今年は全く関係のない出来事だった。もちろん里からは帰郷を促す文が幾度も届いたが、詫びを告げる返信も味気ないものになってしまうほど心がそちらに向かない。余計な声を聞いて心を揺らしたくなかった。自分自身を上手く操作できるほど、人間が出来ていないのだ。

 作品制作もいよいよ佳境に入り、この先大きな山を越えなくてはならないことは必須だ。そのような追い詰められた状況にあって、さらにこの想いは深く重くなっていく。作品を通して、自分自身を見つめ続け問いただし続ける過程で、どんどん逃げ場がなくなっていくのが分かる。
  しかし、考え方を変えればこうも言えるのではないか。自分の心を写し取った鏡のような作品を永遠に残せることはとても幸せである。作品に秘められた想いを誰にも伝えることが出来なかったとしても、いや出来ない方がさらに妖しく美しくその輝きが増すような気がする。

 いつの頃からかかたちもなく色もなくもやもやと胸の奥に浮かんできた想いが、自分の作品と真正面から向き合うことで次第に明らかになっていく。それはぞくぞくするほど恐ろしく、しかし同時に底知れぬ甘美な時間だった。
  染め絵師の一族に生まれ、その才が抜きんでていた彼が自分に託したものは、己の命とも指先とも言い換えられる二本の筆。その厚意に対する礼も未だに告げる機会がない。季紗や他の候補生と同様に、彼もほぼ一日中自分の小部屋で作品制作にいそしんでいるはず。それでも通路ですれ違う瞬間すら、ふたりには訪れていない。
  たぶん、そんな縁の薄さがふたりの運命を位置づけているのかも知れない。決して触れ合うことのなかったふたつの心。一瞬でもしっかり繋がったと思ったことが、むしろ幻だったと言えよう。

「……あら」

 ちらりと覗いた濃紺の衣。華やかなクチナシの色を差しの薄物に用いて、控えめながら優美な地模様を際だたせている。どうしてこの者にばかり、遭遇するのだろう。たまに野歩きを楽しもうと思ったら、とたんにこうだ。

「麻未様」

 以前から、この女子のことは好かなかった。それは多分、相手もまさしく同じ気持ちだろう。しかし、別にこの者と競い合うこともないのだ。初めから勝敗は分かっている、彼の元で一生連れ添うことが出来るのは自分ではない。

「どうしましたの、珍しいお顔を見てしまいましたわ。もしや、どなたかと待ち合わせなのですか。……まさかね、あなた様には決まった御方がいらっしゃるのですから、そのような軽はずみな真似をするはずもございませんもの」

 とても作業中とは思えぬ、美しい指先。紅を引いた口元も淡く染まった頬も、その全てが幸せの象徴のように見える。
  同じことならば、巡り会わなければ良かったと思う。彼にではない、この女子にだ。もしも最初から決まった相手がいると知っていても、その本人を知ることがなければもっと心安らかに過ごせたはずだ。こんな風に数えきれぬほど目の当たりにすれば、もう逃れようがなくなる。
  嫌みな言葉の数々も、静かな微笑みでやり過ごすことが出来る。可哀想な女子だと思う、彼のためにと考えた方法ではあるのだろうが、こんなやり方で人の心を乱すことが出来ると考えているなんて本当に愚かだ。だいたい、初めから諦めている勝負に言いがかりを付けられたところでどうなることもない。

「そうそう、季紗様にもお聞きするわ。半刻ほど前から私の凱の姿が見えないの、まさかと思うけれどご存じないかしら? 今日中に取り決めて里へ返事を出さなくてはならないことがあるのに。本当に、何もかもを私に任せて、困った人だわ」

 その言葉にも、ただ首をかしげて見せただけだった。深く思うことはない、このようなこともただの挨拶のようなものだ。誰の言葉にも傷つかない、誰の言葉にも乱されない。今必要なのは、いかに自分自身と向かい合い、作品と向かい合うか、のみである。

「本当にあなたって分からない人ねっ。でも、まあいいわ。そんな風に落ち着いていられるのも今のうちでしょうから。私の凱の完成作品を目の当たりにすれば、あなたの形ばかり取り繕った張りぼてな心は跡形もなく崩れ去るはずよ」

 ―― それよりも、あなたの作品を見せて欲しいわ。

 つい口を突いて出てきそうになった言葉を、季紗はかろうじて飲み込んだ。何故、この女子は訓練校に入校したのだろう。最愛の人の側を片時も離れず過ごしたかったから? でも、始終一緒にいなくても心が通じ合って入れば心配になることもないはずなのに。せっかく恵まれた環境にありながら、それを生かし切れずに過ごすとは信じられない。入りたくても抽選に漏れてしまった者も少なくないと聞くのに。

「さあ……それはどうでしょうか」

 きっと彼の作品は想像も出来ぬほど素晴らしい仕上がりになると思う。地染めがあれほどに上手くいったのだ、その喜びをもって臨めば彼自身の得意とする染め絵は今までに類を見ないほどの出来映えとなるだろう。
  しかし、それをこの目にしたときに、どうして自分の心が砕け散る必要があるだろう。美しいものを美しいと思う気持ちがあるならば、素晴らしい出来映えを前にして素直に賞賛の心が湧いてくるはずだ。
  でも、そのことをいくら目の前の女子に伝えても無駄であろう。彼女の中にあるのは勝ち負けだけだ。彼の作品が一番素晴らしく、その他のものは敵でもない。きっとそう信じているのだ。

「……ま、まあいいわ。私はあちらを探すから! あなたもこんなところでゆっくりしている暇はないのでしょう。だいぶ作業が遅れているって聞いているわ、そんな風でいて期日通りにきちんと仕上がるのかしら? もっとも、私などが心配して差し上げる必要もないでしょうけど……!」

 つんと肩をいからせながら学舎の方へと去っていく背中、自分とは全く違う心の持ち主を季紗は静かに見守った。ただ穏やかに過ごしたいと思う、怒りからは何も生み出せるものはない。静かに自分と向かい合い、作品を仕上げていこう。きっとその先に見えてくるものがある。

 ……そう、思いつつも。
  やはり寄り添う心がないままに不安に過ごすのは辛い。ましてや、すぐ側で幸せな姿を見せつけられては、胸奥の痛みに歯を食いしばって耐えるほかなくなる。これが「試練」なのか、抱いてはいけない心を見つけてしまった己自身を諫めるための。

「―― やっと、退散したか」

 沈んだ気持ちのままぼんやりと立ちつくしていて、すぐ傍らにある人の気配にも気づけずにいた。腰の高さほどある植え込みが、がさりと動く。そこから現れた人影に、季紗は目を見張った。

「……どうして……」

 その声には、いくらかの非難の色が見えていたと思う。ずっとこの場所に潜んでいたなら、今のやりとりも皆聞こえていたであろう。それなのに、このように悪びれもせずいるとは、たいした神経の持ち主だと呆れてしまう。

「とにかくうるさいんだ、あいつ。何だかんだと追い回されるから、すっかり嫌気が差してしまってね。一体、どういうつもりなのか、訳が分からないよ」

 もしも、今の自分たちの姿を少し離れた場所からのぞく第三者がいたとしたら、何とも滑稽に映るだろう。同じ集落出身である金の髪を持つ者が、それぞれの思惑で立ち動いている。同郷の者同士なら心も通い合うというのは幻想でしかない、かえって似たような姿であるからこそ余計ないがみ合いの種を見つけてしまうのだ。

「そのような……あの方に失礼ではありませんか。あんなにあなたのことを想ってくれているのに」

 姉のように諭す自分が、とても愚かしいと思った。人に誇れるような何も持ち合わせていないのに、偉そうな物言いなど出来るはずもないのに。しかし、彼はその言葉を静かな笑みをもってやり過ごした。

「作業、進んでる? かなりの出来映えになりそうだって話を聞いたけど」

 急に話題がすり替わり、ホッとしたような置いてけぼりをくらったような複雑な想いが季紗の胸に広がる。一体自分は、この人にどんな風に受け答えをして欲しかったのだろう。このように落胆しているのは、願望と異なる結果が出たからに相違ない。

「ご親切な方が力を貸してくださったから、どうにかやっているわ。でも、当のご本人は大丈夫なのかしらと心配になったりもするけれど」

 わざと突き放したような言い方をしてしまう自分が悲しかった。素直に礼を言えばいいのに、そうすることが当然なのに、どうしても出来ない。

「それは君の杞憂だと思うよ? それより、最高の道具を使いこなすだけの技量が君にあることを今は祈りたいね」

 思わず声の方向を振り向いてしまった季紗の見たものは、燃えるような挑戦する瞳。それが真に伝えようとする想いを、もう少しで受け取れそうな気がする。だが、伸ばしかけた見えない心は、すぐに力なくしぼんでしまった。

「そうね、……わたくしもそうであることを心から願っているわ」

 彼の瞳は、まだ食い入るように自分を見つめている。その輝きが示す意味を、どうかすると自分に都合のいいようにすり替えてしまいそうな気がした。いくら目の前にもうひとりの人間がいるとしても、その者が自分と同じ想いでいる確証などどこにもないのに。

「このたびの作品には、自分の全てを託すつもりだから。それを、是非見てもらいたい人がいるからね」

 ふたりの視線は、未だ絡み合ったままであった。気に揺れる金色が、互いの間で揺れている。腕を伸ばせば容易に届くその距離は、まるでそこに見えない河が流れているかのように縮まりそうにもない。

「もちろん、それはわたくしも全く同じ気持ちだわ。きっと、他の候補生の方も皆一様に思っていらっしゃることでしょう」

 本当にそうであることを信じたかった。たとえそれが力の加減の分からない若輩者が夢見る幻想であったとしても、あらん限りの想いをひとつの作品に込めることが叶えば何かが変わる、確かに大きく変化していくはずだ。

「それを聞いて、作品展示会の当日がとても楽しみになったな。そこまで自信に満ちた言葉を聞かせてもらえるとは思わなかった。―― 本当に、嬉しいよ」

 彼の口元は微笑んでいた、だから季紗も負けじと笑顔を返す。それ以上のこともそれ以下のこともなかった。

 ただひたすらに自分の作品に情熱を注ぎ込み、限界を超えてもなお立ち上がり己の道を究めんとする。遥か先を行く名手たちが歩んだ道からは遠く及ばないかも知れないが、今の自分を残す手段を見つけたからにはどうにかしてやり遂げる他ない。
  再び求めることは出来ない指先のぬくもり、その心の熱さに触れることも二度と叶うことはない。でも、それでも自分はもう一度だけ、彼の真の心と向き合うことが出来る。―― そして、それからあとのことは今は何も考えずにいよう。

 新しい年を迎えた今、花の季節はそう遠くない。だが、季紗はこの夢の時間が少しでも長く続くことを祈らずにはいられなかった。

 

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