…15…

 

 

 しかしそんな季紗の願いもむなしく、時間は春の雪解けよりも早く季紗の隣をすり抜けていく。渾身を込めた作品はすでに手元を離れ、審査の時を待つばかりになっていた。

 候補生の中には、一足早く寮を引き払う者も少なくなかった。提出期限から展示会までは半月ほどの猶予があり、春からの働き口が決まっている者たちにはその時間を無駄に過ごすことが出来ないのだろう。次々に荷が運び出され閑散とした学舎で、季紗は名残惜しくも落ち着かない日々を送っていた。
  胸にはぽっかりと風穴が開いてしまったような、何とも空虚な気分である。提出日当日はぎりぎりの刻限まで粘り、筆を入れ続けていた。不思議なことに前日の夜には「もうこれで十分だろう」と納得しても、翌朝になれば「まだここが足りない、こちらにももっと手が加えられるはずだ」と欲が出てしまう。

 染め絵はろうけつ染めの手法で行われる。まずは地染めの終わった布に主線を描き、それに色を乗せていく。そのあと湯通しして主線のろうを洗い流し、新たに金や銀を混ぜ込んだ染料で白く残った線をなぞっていくのだ。ひとつとしてやり直しのきかない作業であり、だからといってあまりに手控えていれば味気ない仕上がりになってしまう。
  見極めの頃合いが難しいのは当然、しかも様々な原料の混ざり合った染め粉は時として扱う者が予期していなかった新しい効果を見せてくれることもある。しかし、恐ろしいことにはその全く逆のことも当然のごとく起こりうるのだ。

 季紗自身は提出した作品の評価が出るまで引き続きこの学舎に留まるつもりだった。後に続くことを先延ばしにしたところで結果が変わらないことは重々承知しているが、それでも残された時間を何も思い煩うことなく静かに過ごしていたかった。

 ―― わたくしは、ただ流れていく一枚の枯れ葉。

 想いの全てを修了制作の一枚に託してしまえば、あとは抜け殻の自分だけが残るのだと信じていた。だが、それならば、未だに残るこの胸の疼きは何だろう。他には何もすることもなく、少ない道具や身の回りの品を行李にまとめてみてはほどくことを繰り返していた。そして、何時も放せない一枚の端布を手にする。

 自分をずっと支えてくれていた二本の筆は、未だに手元にあった。他に代えようのない特別な品であることは、実際に扱った人間ならば容易に想像が付くことである。この地を去れば最後、再び巡り会うことの叶わぬ存在。だからその前に返さなければと思うのだが、なかなかそれが上手くいかない。
  彼もまた、他の候補生同様にこの地で成すべきことは全て終えた人間だ。やはり提出作品の展示を確認してから里に戻る予定にしている様子だが、その傍らには四六時中べっだりと寄り添う女子がいる。いつ何時その姿を遠目に視界に入れようと、それは変わらない。
  そして、思う。運命の歯車はすでに回り始めているのだと。この先に何を望もうと、あらかじめ決められた結果以外が自分にもたらされることはない。だから、諦めるほかないのだ。

 静かな、長い時間。季紗の心は冬の日の湖面のように透明に澄み渡り、深く沈めたはずの想いまでがすっきりと見渡すことが出来た。いくら肉眼ではっきりと確認できようと、水底に沈むものを手にとって眺めることは出来ない。それが唯一の救いであり、たとえようのない悲しみでもあった。

 

◆ ◆ ◆


 その朝は、普段の日よりもさらに早く目が覚めた。
  否、正確に言えば前日の晩はほとんど眠れないまま過ごしてしまった気がする。外が白み始めた刻限には、もう待ちきれずに身支度を始めていた。
  用意されていた朝餉もほとんど喉を通らず講堂へと足を向けると、他の者たちも考えることは同じだったのだろう。辿り着いた先は、すでに真っ直ぐに歩けぬほどの混雑ぶりになっていた。

 ―― 最優秀の作品は、どこへ飾られているのだろうか。

 それは一番奥の間であろうと、察しを付けた。自分に向かって押し寄せてくるように感じられる人波を必死でかき分けて先へ進んでいく。中には家の者や友人知人を伴ってやってきた候補生もいるらしく、普段の数倍の人数がひしめいている。いくつもの集落の者たちが集まり、その髪の色も肌の色も様々だ。しかし季紗は、そこここで揺れる艶やかな色にも惑わされることなく、ただひとつを目指して進んでいた。
  それは一目見ればすぐに分かるはずの―― 美しい薄桃に染まった衣。これだけ繰り返し心に焼き付けてきたのだ、他のものと見まがうことは万に一つもあり得ない。
  あれほどの色に染め上がった地に、一体どのような染め絵が施されたのだろう。幾度となく思い描いてはしてみた、彼が描くならばそれは素晴らしい仕上がりになるはずだ。でもいくら予想などしてみたところで甲斐はない。あの者の実力は、いつでも自分の想像を遙かに超えた場所にある。

「……あ……!」

 急に人が切れ、ぽっかり空いた場所へと押し出される。床に強く叩き付けられた身体。ざわめきが遥か上空から響いてくる気がして、その一瞬は我を忘れてしまった。―― そして。

「ほらほら、あまり展示に近寄ると危ないですよ。どうしましたか、そのように慌てずとも作品は逃げないのに」

 床に膝をついたまま顔を上げれば、そこにあったのは優しい微笑み。あの苦しい制作の日々に絶えず励まし勇気づけてくれた人が柔らかな眼差しで季紗を見つめていた。

「しかしここが一番の特等席でもありますね。―― さあ、ゆっくりとご覧なさい」

 湖東老師がすっと身を引いて指し示したその先には、どのような言葉を用いようとも決して語り尽くせぬ夢幻の世界が広がっていた。

「……どうして……」

 初めは一体何が起こったのか、全く分からなかった。

 そこに飾られていたのは、季紗が想像した一枚だけではない。絵柄が美しく現れるように大きく広げられて壁に掛けられた薄桃の左隣に、もう一枚若草色の一枚が寄り添うように並べられていた。

 どちらの作品にも片翼を美しく広げた鳳凰が大きく一羽描かれている。一枚一枚の羽の細部まで今にも気に乗ってこちらへ漂ってきそうに繊細に再現され、対になった二羽は翼を閉じた方の肩先を恥ずかしそうに寄り添わせていた。
  その上には滑らかな放物線を描いた香り草の枝が幾重にも枝を重ねながら奥へ奥へと続いている。純白の羽と白い花びらが画面いっぱいに漂い、ふたつの異なるはずの世界はまるで示し合わせたかのように壮大な一枚絵に仕上がっていた。

「甲乙付けがたいとは、まさにこのことを言うのですね。本当に驚きました、君たちは互いに話し合った素振りも全く見えないのにどうしてこのような結果に成り得たのでしょう。講師の中にはふたりがあらかじめ示し合わせたのだと疑う者もありましたが、私はそうは思いませんでした。―― 君たちが互いに多くの苦難を乗り越えてこれらの作品を仕上げたことを、ちゃんと分かっていましたからね」

 その声を、とても遠い場所で季紗は聞いていた。周囲のざわめきも、全く耳に入らなくなっている。あまりの驚きに胸が痛い、目の前の全てが信じがたく心が大きく乱れていた。

 ―― 嘘、どうしてこのようなことが。

 一度きつく目をつむり、再び開いて目前に広がる世界を確かめる。若草色の一枚は、気の遠くなるほどの長い間向かい合ってきた己の渾身の一作だ。もう二度と、ここまでのものは作り出せないと思う。そう思い切れるほど、身体中の全てを絞り出して仕上げたのだ。
  しかしそれでも、提出のそのときがきてもなお、何かが足りないと感じていた。確かに自分に出来るのはここまで、これ以上のものはどうしても無理だと分かっている。焦って余計な筆を重ねては、せっかくの世界が味気ないものになってしまう。何事においても過ぎたるは及ばざるがごとし、なのである。

 それが、どうしたことだろう。今、自分の前にある衣は、この手を離れたときにはなかったはずの深みを見せている。隣り合ったもう一枚があることで手に届かなかった世界まで辿り着けた気がした。

「このふたつの作品は、揃いでなければ成り立ちません。―― 君も、そうは思いませんか」

 そっとのばす指先に、今咲きほころんだばかりの花の香が触れる。音のない、美しい情景。永遠とも思える静かな時間。そう―― ここはあの朝の花野に違いない。ああ、遠く高い場所から自分を見下ろす木々の枝のこすれ合う音まで感じ取ることが出来る。

「―― ちょうど、同じような顔をしていましたよ?」

 未だにぼんやりとして現実に戻れないままでいる季紗に、老師は急に何かを思い出したように言った。

「……え?」

 にわかには何のことか分からず、ただ聞き返す。穏やかな眼差しは、やはりそこにあった。

「彼、ですよ。凱はここが開くのと同時に勢いよく飛び込んできました。そして真っ直ぐにこちらに向かい……しばらくは何を話しかけても全く聞こえないような状態でしたね。そのあとすぐにどちらかに飛び出して行きましたが、―― 君はもう彼の口からその話を聞いていたのかな」

 季紗はゆっくりと頭を横に振った。……彼が、すでにここに来ていた? そんなことは知らない、私はあの者に出会ってもいない。だが、―― 彼の「声」は確かに聞いた。目の前にある、物言わぬはずの衣から。
  彼もまた、自分のことを強く必要としてくれている。もしもそれを彼自身が言葉で否定したところで、ここまで明らかになっていることを隠しようがないだろう。

 ……やはり、途切れてはいなかったのだ。心はきちんと繋がっていた。片時も離れずに寄り添っていてくれた、だからここにふたりでひとつの世界を創り上げている。

「求めても求めても、どうしても辿り着けない場所がある。そのことを教えてくれた君を失いたくはないんだ」

 あの嵐の夜、彼は腕の中の季紗に向かってそう言った。しかし、今はもう違う。彼はついに目的の場所に辿り着いた。そのことを、彼自身もはっきりと悟ったはずだ。……そして、自分自身もまた同じ。

 ―― 会わなければ、今こそきちんと向き合わなくてはならない……!

 季紗はそれまでの放心状態が嘘のように、迷いなくすっくりと立ち上がった。そして湖東老師へ礼を告げるのもそこそこに、今来たばかりの人波の中へと飛び込んでいく。早く、一刻も早く彼の元へと行きたい、そのことだけを願い続けて。

 

◆ ◆ ◆


 しかし、これだけ広い構内。一体どこをたずねたら彼に巡り会えるのか、全くもって分からない。ただやみくもにあちらこちらを探し続けたところで、徒労に終わるばかりだった。
  それでもやはり諦めきれない、もう一度最初の場所から始めてみよう。そう思って、展示会場の講堂の前までやってくる。そしてそこで、またしても出会いたくないその人と顔を合わせてしまった。

「あら、ずいぶんとお急ぎのようね。如何いたしました?」

 わざとらしく話しかけてくるその口調の鋭さにも構っている暇はなかった。この者がここにいるのなら、彼もすぐ側にいて当然。ならば、もう程なく会えるのではないか。

「あのっ、麻未様。凱は、……彼はどこにいますか。その、わたくし、どうしても彼に話さなくてはならないことがあって―― 」

 一体自分がどのような表情でこの話をしているのか、全く分からなかった。身体の奥から突き抜けてくる感情が胸を強く震わせる。この息苦しさをどうにかして止めたい、早く楽になりたかった。
  しかし、目の前に立ちはだかる女子は、勝ち誇った目で季紗を見つめる。つんと取り澄ました口元がもったいぶったように開かれた。

「まあ、残念ね。それはいかようにも出来ない相談だわ」

 すでに何かを承知している、でもそのことを口にするつもりはない。そんな声にならない決意をその表情に見た。

「私の凱は、先ほど里に急ぎ戻りましたの。何しろ、あちらではいろいろと準備がありますし……わざわざ馬を借りて参りましたのよ、何と頼もしいことでしょう……! もちろん、これからすぐに私もあとを追うつもりですわ、私がいなくては話が先に進みませんものね。これであなたとももう二度とお目に掛かることはないでしょう。どうぞお元気でね、季紗様」

 手入れの行き届いた艶やかな髪がそれみよがしに翻り、勝者の女子は静かに季紗の前を通り過ぎて行った。

 

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