やはり、伸ばした指先に触れるものは何もなかった。 その事実を目の前に突きつけられてもなお、季紗は自分の中にある確かな想いをかき消すことが出来なかった。それでも帰郷のときは迫る。小さな荷と共に進む道のりは果てしなく遠く、そして辛く感じた。 疲れ果てて舞い戻った娘の苦悩になど全く心を留める気配もなく、両親はすぐ先に迫った婚礼の支度へと季紗を追い立てた。こちらが輿入れするわけではない、婿を取るのだからそれほどの準備もいらぬだろうと思ったのは間違い。建物の修繕から衣装や調度の準備、短い時間にやらなくてはならないことは数えきれぬほどあった。 どうして、何故と、訊ねるあてのない言葉ばかりが宙を舞う。 それなのに……何故、彼はひとことも残すことなく自分の前を去ってしまったのだろう。仕上がりを楽しみにしていると言ってくれたではないか、とんでもなく残念な結果に終わったと言いたかったのか。いや違う、そんなはずはない。あの者はこの身が受けたのと同じだけの衝撃を確かに感じ取ったはず。それでもなお、再び互いに向かい合おうとは思ってもらえなかった。 始まるはずのなかったふたりであると、分かっていたはずだ。それならば、何かを悟ったとしても気づかぬ振りをして通り過ぎることが最善の策であるのだろう。だがしかし、その事実を未だに受け入れることが出来ないでいる。 今は遠き西南の学舎よりも、この南峰の地には新しい季節が早く訪れる。春の声を聞くのも待ちきれぬように咲き競う花々。日々の仕事に追われてほとんど手入れをする暇もない敷地内で唯一美しく整備されている中庭は、来る祝いの日を今か今かと待ちわびていた。
「……」 また深い溜め息をついていた。こんな風にしたら、部屋の表にいるはずの番人にこちらの様子を聞かれてしまうかも知れない。使用人たちの間で、いろいろと詮索され噂をされるのは嫌だった。他に娯楽のない彼らは、主の家の些細なほころびも見逃してはくれない。 季紗の視線の先。寝所の表にもう一間取られたその場所には、壁一面を覆うほどに大きく広げられた衣装が掛かっていた。それは、若草色の―― 全ての想いと気の遠くなるほどの時間を掛けて仕上げた渾身の一枚である。しかし、すでに懐かしさすら感じられてるその衣と向かい合っても、心が晴れることはなかった。 「学舎の者たちの話では、この衣には対になるもう一枚があったとか。そちらもどうにかして手に入れたいと思ったが、すでに持ち帰られた後だった。残念なことではあるが、仕方ない。これに見合うようなもう一枚を婚礼の当日までに間に合わせよう」 父からその話を聞かされたときには、我が身がふたつに裂けるほど悲しかった。両親はこの衣を婚礼の衣装として使うつもりなのである。つまり、夫となるあの者が袖を通すということではないか。何故、そのような残酷なことを思いつくのだろう。この衣に袖を通して欲しい相手は、この世にひとりしかいないのに。 出来ることならば、今すぐにでもこの衣をずたずたに破り捨ててしまいたい。さもなくば、火をつけて燃やしてしまいたい。あの者にまとわれるくらいだったら、その方がどんなにいいか。 ―― もう、逃げることは出来ない。 自ら望んで舞い戻った場所なのに、後になってこんなにも悔やむ結果になろうとは思わなかった。絶望の谷底へと突き落とされてしまった身でありながら、なおも諦めきれない想いに苦しめられることになろうとは。 ことん、と渡りの方から物音がする。そのあと、控えめな声が続いた。 「お嬢様、それでは私たちは今夜はそろそろおいとまをいただきます。すぐに夜の守が中庭より参りますから、ご安心くださいませ」 表からしっかりと錠をかける音がした。あちらの出口は固く閉ざされたと言うことが分かる。 「分かりました、お休みなさい」 静かに渡りを進んでいく足音。そしてまた、静寂が季紗を包んだ。 明日からはこの部屋にもうひとりが加わるとしても、この空虚な気持ちは決して塗り替えられることはないだろう。永遠に物思いは続いていく。それでは自分も相手も、全ての人を不幸にするだけだ。分かっている、……分かってはいるが、だからといって心を無理矢理に入れ替えることは出来ない。 季紗は自分の両の手を広げてみた。色粉が全て落ちて美しく戻った指先が、どこまでも寂しく見える。訓練校での全課程を終え腕を上げて戻ってきた自分に、両親はなお仕事を与えようとはしなかった。新しく迎える婿殿に遠慮する気持ちもあるのだろう。女子の方に優れた才があると思えば、伴侶となる男が面白くない気持ちになるのは当然だ。 ゆっくりと立ち上がると、季紗は表の間に置かれていたいくつかの灯りを消して回った。それから今まで控えていた奥の寝所に戻り、そちらの灯りも全て闇に返す。せめて今夜は、暗闇の中で最後の夜を過ごそうと思った。眠りなど訪れるはずもない、どんなに身体が悲鳴を上げようとも意識だけははっきりと残ってしまう。 そっと探る懐、そこから取り出した一枚の端布。障子戸越しに天の輝きが届く場所まで出て、それを懐かしく眺めた。こんなことはもう止めにしなくてはと思っても、やはり手放すことが出来ない。同じく持ち帰った二本の筆と共に、かの人を永遠に心に留めるための糧になってくれたらと願った。 「……っ……!」 今夜はいくらでも泣いて許される、だから涙の涸れるまで袖を濡らそう。他の誰にも邪魔されることなく思い出に浸れる最後の夜、あまりに美しい天の輝きが心に突き刺さる。
そして、またどれくらいの時間が流れたのだろう。頬を染めるまばゆさにハッと我に返れば、障子戸の向こうに灯りと人影が見えた。 ……「夜の守」が到着したのだわ。 すぐにそう合点がいったが、別にその者に声を掛ける必要はないと判断した。婚礼前で気持ちが高ぶっている娘を心配して、両親がつけた見張り番。豪族の姫君であるならいざ知らず、一介の職人の娘に対してここまでのことをするとはあまりにも仰々しい。また物笑いの種にでもなりそうな気がするが、これもまた仕方のないことなのだ。 しかし、季紗に再び心を落ち着ける暇などなかった。番人であるその人が、障子戸越しにこちらに声を掛けてきたのである。 「……眠れないのかな?」 短い問いかけにぴくりと身体が反応してしまったのは、予期せぬ出来事に驚いたからだけではない。その声が、確かにどこかで聞いたことのあるものだったからだ。 「驚いたよ、話には聞いていたけどここまで厳重に警備されているとはね。鼠一匹入り込めない状況とはこのことか。ずいぶんといろいろやったみたいじゃないか、何度も家を抜け出そうと試みたんだって? 終いには何の道具もなく河を泳いで渡ろうとしたって……まあ、君ならやりかねないかとも思ったけどね。そこまでしたら、さすがに家の人たちは慎重になるだろうな」 そんなはずはない、こんなことはあり得ないと何度も自分に言い聞かせた。 使用人たちの話では、夜の守は近所の家の者たちに手間賃を払って引き受けてもらっているらしい。まだ春先で野良仕事も楽な時期であるから、思わぬ臨時収入に皆喜んで飛びついてくるのだとか。季紗の家の者たちも、素性の知れた近所の者なら間違いはないと思っているようだ。 「……ど、どうして……」 何故彼がこんな場所までやってくるのだ、しかも今夜を選んで。気持ちがあまりにも混乱して、訊ねたい言葉がなかなか出てこない。 「どうしてもこうしてもないよ、だいぶ話がすれ違ってしまったみたいだ。俺も最初は君をずいぶん恨んだよ、こっちの言葉を聞かずにさっさと里に戻ってしまうんだからね。そのつもりなら勝手にしろって、半分ヤケになっていたんだ。そこで無駄な時間を過ごさなければ、もう少し早く手を打つことが出来たんだけど」 話の筋がまったく掴めていない。どういうこと、こっちの言葉を聞かずにって。自分は何か彼から言付かっていただろうか、否そんなはずはない。言葉を交わす間などふたりにはなかったのだから。それに……勝手に里に戻ってしまったのは、そっちの方じゃないか。それなのに、こちらに全ての非があるように言うなんて間違っている。 「―― あいつも、根は悪い奴じゃないんだけどな。思いこみが激しいというか……いつもあんな調子だから。俺も迂闊だった、いくら慌てていたとはいえ言付けを頼む相手を完全に間違えたよ。あの朝、里に戻る前に麻未に君に伝えてもらうよう頼んだんだ。何があってもここに留まって待っていて欲しいって、俺が再び戻ってくるまでは絶対に里に戻らないでくれってね」 そんな馬鹿な、彼女の口からはそのような言葉は何もなかった。それどころか、絶望的な言葉まで浴びせかけられて。でも、どうして。何故、この人はそのような言葉を自分に伝えようとしたのだろう。 「ここ、開けてもらえないかな? 中からも錠が掛かっているんでしょう、そう聞いてきたけど」 そこで一度言葉を切って息を吐いたあと、彼は再び口を開いた。 「俺には河の向こうもこちらも関係ないからね。近所の奴らとは昔から分け隔てなく皆顔なじみなんだ。だから話は早かったよ、みんな俺に同情してここまで辿り着けるように計らってくれた。もちろん、二刻で他の奴に変わるから、それまでの猶予しかないんだけど」 唇が大きく震えて、なかなか声にならない。いや、口元だけには留まらない。季紗はすぐに自分の全身が恐怖に震えていることを知った。 「……駄目よ! そんなこと、出来ない、出来っこない……! こんなところにいては駄目っ、見つかったら大変なことになる。父のことだから何をしでかすか分からないわ、あなたの素性を知ったら刃だって向けかねない……!」 他の誰かがこの言葉を耳にしたら、何て大袈裟なと笑い飛ばすかも知れない。でも、少なくとも季紗自身にははっきりとした確信があった。川向こうの染め絵師一家を深く恨み続けていた父、このたびの婚儀を急いだ理由のひとつにも「あちらに遅れを取ってはならない」という意地があったようだ。 「こうして、声を聞けただけで十分。だから、私はもういいの。……これ以上のことは、望んではならないのよ……!」 この男が聞いた話は全て本当だ。もう一度だけ、ひと目だけでもこの者に会いたくて、幾度となくこっそり家を抜け出そうとした。しかし、川を渡る橋までは遥か遠く、そこまで辿り着く前に見つかって連れ戻されてしまう。それならばと身ひとつで川越えをしようとしてみたが、このときはもう少しで溺れて流されるところだった。もしも使用人たちが異変に気づくのが遅れたら、今生き延びていることも出来なかっただろう。 「―― 嫌だっ、そんな分からないことを言っていると、大声でわめき立てるぞ。そうすれば、今は休んでいる者たちも慌てて飛び起きるだろう。そうなったって一向に構わない、俺は命なんて惜しくない。最初からその覚悟があったから、ここまで来たんじゃないか。どうにかして、君をここから連れ出して……」 それは無理だ、出来っこない。この者だって、本当はそのことを分かっているはずだ。いくら夜の守の何人かに話を付けたとは言っても、そのほかに昔から家に仕えている使用人たちの存在がある。彼らは決して季紗を敷地の外には出さないだろう。この男だって、雇われた守のひとりだと思われているからこそ簡単にここまで来られたのだ。 「こ、声を出すのはやめて! そんなことしたら、本当に大変なことになるから……!」 元を正せば、自分の父の異様なまでの嫉妬心が端を発したことだと言い切ってしまってもいい。羽振りの良い川向こうの絵染め師一家のことを妬むことでしか自分を奮い立たせることの出来なかった父。しかしどんなにもがいたところで情勢が変わるはずもなく、憎しみの心はさらに彼を追い詰めていった。 「じゃあ、開けろよ。これ以上、ことを荒立てたくないんだったら」 他に選択の余地はない。季紗の震える指先が、頑なに閉ざされていた表への錠をゆっくりと外した。
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