静かに開いた障子戸のすきまから、凱がするりと中へ忍び込んでくる。心に浮かび上がったかたちのない不安に、季紗は慌てて後ずさりしたが、幸いなことにふたりの距離がそれ以上縮まることはなかった。元通りに戸は閉められ、表からは何もうかがえなくなった。 「……話が終わったら、元通り出て行ってもらうわ。最初にそれだけは約束して」 そうは言っても。いくら言葉を重ねたところで、この期に及んで事態が急に好転するとは到底思えない。それどころか心がふたつ寄り添うことで、さらに後に残る傷が深くなるような気もした。 「これが明日にも婿を迎える花嫁の顔か。だいぶ美しく装ったものだな」 はっきりそうと分かる皮肉めいた色を乗せて、それでも会いたいと夢にまで見た人の声は表情は季紗の心を大きく揺り動かした。 「……」 彼が指し示しているものが、自分の頬にある無数の涙のあとだということは分かっていた。あなたには全く関係ないものよ、とはっきりと言い返せないことが口惜しい。 「まさか麻未があそこまで意地を張り続けているとは思わなかったんだ。君のこともずいぶん脚色した話で聞いていた、里には心の通じ合った相手がちゃんといるんだとね。だから君の真の幸せを願うなら、この想いを封印することも仕方ないと諦めていた。……諦められるのだと、あの瞬間までは本当に信じていたんだ」 全てが終わってしまった、と言うことを改めて思い知らされる。もしもあの時に、自分の心をもっと強く信じることが出来たなら、どんな迷いも蹴散らすことが出来ただろうに。そうしなかったのは自分の弱さ、だからこのたびの結果にも素直に従わなければならない。 「いいの、もう。悔やんだって始まらないんだから」 静かに首を横に振ると、金の髪が自分の周りで踊る。少しでも美しい姿で彼の脳裏に留まりたかった。 「君が里に戻ってしまったと聞いたときには、全てが遅すぎたかと諦めかけたんだけどね。人間は最後まで希望を捨てちゃ駄目だ。そう思い直すことが出来たのは展示場に一枚だけ残されていた俺の衣を見たときかも知れないな。二枚揃っていなければあの絵は完成しない、でもだからといって他の男と幸せになる君に俺の気持ちを託すことは出来なかったんだ。 でも全ては遅すぎた、今ふたりの間に漂っているのは数え切れない後悔の念だけだ。あのとき、またあのときはこうするべきだった、ああするべきだったといくら嘆いたところで始まらない。他の誰を恨むわけにはいかない、もっとも呪うべきは自分自身の声に素直に従えなかった己の弱い心である。 「君の心が染め上げた布に、俺の絵を乗せてみたい。そのときに広がる世界を想像しただけで、気持ちが走り出しているんだ。あのときめきを永遠に封印する日が来るなんて信じたくない。俺は……まだ君を諦め切れなんだ」 自分も全く同じ気持ちだ、と季紗は思った。この人の絵を乗せるために、そのためだけに一枚の布を染め上げたい。それは何と素晴らしい満ち足りた時間になりうるだろう。互いが互いのために支え合って生きていく、想い合うことでさらに高く向上することが出来る。こんな相手にはもう二度と巡り会うことは叶わないだろう。 「その言葉を、……聞けただけで十分だわ」 あの学舎で、すっかりと一人前になった気でいた自分たちだった。だがしかし、年若い身での立場はあまりにももろく儚い。大人たちの思惑の上では、自分の真心などあっという間に吹き飛んでしまうのだ。季紗の父は、婚儀の話を渋り始めた娘に向かって一度は本当に刃を抜いた。どうしても言うことを聞かぬのならこれでお前を突き刺して私も果てるぞと言われたら、それ以上どうすることも出来ない。 分かっていたのだ、初めから。何も始まることのないふたりだったことくらい。 「もうこれでお終いにしましょう。心からあなたの幸せを祈っているわ、麻未様とどうぞお幸せにね」 すんなりとその言葉が口元からこぼれ落ちたときに、心から安堵した。大丈夫、この先もちゃんと生きていける。心にしっかりと根付いた想いがあるならば。 そしてゆっくりと立ち上がり、愛おしい人の脇を通り抜ける。障子戸に辿り着いたらそこを開き、彼を表へと導くつもりだった。 「分かったような口をきくなよ、何が『お終い』だ! 君はそれでいいのかも知れない、でも俺は違う。こうしてやってくることだって、かなりの覚悟の上だ。それなのに、このまま手ぶらで戻れというのか……!」 最初に掴まれたのは、寝着の上からかけた薄物だった。袖を通していないそれは、するりと素直に床に落ちる。でもそれだけでは済まなかった、いきなり足下に広がった滑りやすい布に季紗は足を取られる。そうして床の上に投げ出されたとき、その好機を逃すものかという勢いで凱が上に覆い被さってきた。 「……なっ……!」 慌ててもがいたところで、力の差は歴然としている。淡く差し込む天の光だけに照らし出されたその顔は深く陰影を付け、真剣な眼差しをさらに際だたせていた。 「君はいつもこんな風にして俺の腕をすり抜ける。あのときはそれでも仕方がないと諦めたよ、でも今度は違う。この想いを遂げるまでは、絶対に戻らないからな。悪いけど、俺は本気だ」 背筋の凍るような冷たい言葉だった。しかし、不思議と恐ろしさも不安も感じられない。きつく二の腕を掴む力も、今にも襲いかかってきそうな彼の全ても、愛おしくてならなかった。 「……わたくしも、それで構わないわ」 だから、とても素直に次の言葉が出た。しかし彼はそれを全く予期していなかったらしく、とても驚いている。そうであっても、腕を掴む力の強さを緩めることは決してなかったが。 「後悔していたの、あの夜からずっと。……あの場であなたのものになってしまえば良かったって」 そうしたとしても、未来が変わるとは到底思えない。でも、お互いの想いが深く心に残っていくための糧となるならば、決して間違った選択肢ではなかったと思った。 「でも本当に、これだけにして。……終わったら、すぐに出て行くと約束して」 何て悲しいふたりなんだろうと思う。始める前から、終わったあとのことを取り決めなくてはならないなんて。でも、それはとても大切なことだ。全ては彼の身を守るため、もうこれ以上の危ない橋は渡って欲しくない。 「もちろん、君を悲しませるようなことはしないよ」 その声は、耳元のすぐ側で聞こえた。驚くほど近くに凱の顔がある。真っ直ぐに自分を見つめる眼差しに、しっかりと向き合うことが出来た。最初で最後の夜、この一瞬を永遠の記憶として心に焼き付けたい。 「本当に後悔してくれたの? ……そんな素振り、全く見せてなかったと思うけど」 拗ねるような言葉までが、新たな熱を運んでくる。板間に転がされていても、冷たさも痛みも感じない。どうにかして彼の起こしてくれる波を受け入れたい、ひとつも取りこぼさず全てを自分のものにしたいと願った。 「そんなの、嘘よ。いつもいつも、必死で想いを押しとどめていたんだから」 上手に隠し通せていた自信はない。凱の方も分かっていながらわざと見過ごしているんだと思っていた。他に想い人がいるならそれも致し方ない。許嫁に対して誠実な気持ちでいてくれることが、かえって嬉しいくらいだった。 「だったら、……俺ももっと自分の気持ちを露わにしてしまえば良かったのか」 胸元から脇を通って、さらに下へ。敏感な部分を彼の唇がかすめていくたびに、季紗の口元から甘い声が上がった。こんな風に乱れてしまう自分が恥ずかしくてならない。でも感じたままの全てを伝えることで、自分の気持ちを分かって欲しかった。 「そうね、……そうなっていればわたくしたちもあるいは……」 とっくに止まっていたと思っていた涙が、その瞬間にほろりと頬を流れた。決して後悔などすまいと誓ったのに、それでもやはり辛くて仕方ない。彼の全てに溺れてしまいたくても、終わったあとのことを今から考えてしまう。 「駄目だよ、もう余計なことは考えないで」 記憶の一夜よりも、さらに深く甘い時間が流れていく。戸惑いも不安も、いつの間にかどこかに消えている。全てを脱ぎ去ったふたりには互いを求めたかめあうことしか残っていなかった。 「……はぁっ……!」 愛しさがしずくになって次々と流れ落ちる場所を、彼が探り当てる。迷いのない指先に翻弄され、にわかに湧き上がりそうになった恥ずかしさもどこかへ吹き飛んでしまった。 「綺麗だ……本当に、こうして君を手に入れることが出来る日が来るなんて信じられなかった。ああ、どうしたらいいんだろう。気持ちが止まらない……!」 足を大きく開いて全てを凱の前に晒しながらも、季紗は底知れぬ喜びに浸っていた。こうなる前から、何も知らないうちから、この人には何も隠すことが出来なかった気がする。もっと自分を知って欲しい、深い部分で感じて欲しい、ずっとそう思い続けてきた。 「……ああっ、……凱……っ!」 粉々になってしまいたかった、全てが砕け散ってしまえばその欠片のいくつかは彼の中に残ることが出来るだろう。重ね合わせる身体が、時間が、新しい色を次々に運んでくる。季紗は自分が一枚の布になり、彼の思うままに次々に色が乗せられていく様を想像していた。 「季紗、……君は、どうしてこんなに……っ!」 突き立てられた熱さに一気に貫かれるときに、季紗は自分の生まれてきた本当に意味を知った。そう、今このとき。この人と、こうしてひとつになるために自分はこの世に生を受けたのだ。そうに違いない、もしも誰かがそれを否定したとしても絶対に頷くことは出来ないだろう。 ―― この人と、ずっと一緒にいたかった……! そのまま一気にふたりでたかみに押し上げられても、そこで全てが終わることはなかった。互いの情熱は果てることなく、すぐに新しい炎が燃え上がる。じっとりと汗ばんだ肌をさすられながら、その一瞬に新たに感じる疼きに飲み込まれていく。繋がりが解けても、凱が欲しくて仕方ない。そして、彼も自分に対してそう思ってくれることを願った。
二度と訪れることのない切な夜、だからこそこんなにも必死なのか。いや、それは違う。自分たちは初めからこうなる運命にあったのだ。途中で大きく掛け違ったとしても、もう修復が不可能なところまで行ってしまったとしても、それでも決して想いが途絶えることなどあり得なかった。 「……ああっ……!」 最後は全ての世界が吹き飛んで、何もかもを手放していた。 意識の途絶える刹那、ふたりは何度も何度も互いの名を呼び続けた。その果ての世界まで、決してはぐれることなく共に行き着こうと。
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