…18…

 

 

 そこは真っ白な世界だった。

 あれだけたくさんの色を重ね想像にも出来ぬほどの深い場所まで飛ばされたと思っていたのに、結局最後に辿り着くのは命の源の色。それがとても不思議で、しかしその一方で驚くほどすんなりと納得して受け入れることが出来た。
  暖かくて心地よくて、このままずっとこの場所に留まっていたい。季紗は未だかつて味わったことのない安らぎに包まれて、ぼんやりと過ぎる時間を楽しんでいた。目覚める前の意識が少しだけ潜った状態、真の幸福とは、このようなことを言うに違いない――

「……っ!」

 何かの異変が額の上をかすめて通り抜け、ハッとして瞼を開く。障子戸の向こうから注ぎ込む朝の光。滑らかな気に満たされた部屋が目前に広がっていた。少し遅れて、自分が几帳奥のしとねではなく、その表の板間にいることに気づく。そして蘇る昨夜の全て、胸をつうっと冷たいものが通り過ぎていった。

 ―― ああ、わたくしは何てことを……!

 我が身を通り過ぎていった全てを悔いるつもりはない。だが、それならばこの先、どのようにしてこの胸の痛みと共に過ごしていけば良いのだろう。己の真に行き着きたい場所をはっきりと知りながら、諦める他に方法はない。それは、自らの手で死を選ぶよりもよほど辛いことであった。しかし、それでも耐えるしかない。何もかもを覚悟の上で決めたことなのだから。

「……ん……」

 そのとき、背後で自分のものではないもうひとりの声を聞いた。あまりの驚きに声も忘れて振り返る。自分の髪がその動きに少し遅れて続き、寝乱れた金色が美しく弧を描き出した。そして視線の向こう。その者の姿を確認してもなお、季紗はそれを現実のものとして受け入れることがどうしても出来なかった。

「……やあ、すっかり夜が明けてしまったようだね」

 ゆっくりと起き上がって、彼は大きく伸びをする。身体に掛けていた衣が腹の辺りまで落ちて、逞しいその胸元が現れた。その場所に顔を埋めてまどろんでいた自分を想像するだけで、恥ずかしすぎて溶けてしまいそうである。

「なっ……何故……」

 一方の自分は、このように動転した中でもしっかりと胸元を隠している。でも一体どうしたこと、全てが終わったらここを出て行ってくれるよう初めに約束したはずだったのに。この人もきちんと同意してくれたじゃないか、だからこそ限りある一夜を共に過ごす覚悟を決めることが出来たのだ。

「嫌だな、そんな怖い顔をしなくてもいいじゃないか。俺たちはもう、普通の関係ではないのだから」

 あの、花野での朝から。柔らかい笑顔が再び自分に向けられる瞬間を、長いこと夢見ていた。そしてようやくそのときが訪れたというのに、心から喜ぶことの出来ない自分がいる。

「そっ、そんな寝ぼけたことを! ま、待って、……ええと今、何か手はずを考えるから―― 」

 確かに自分も迂闊であったとは思う。あまりにも行為に夢中になりすぎて、その終わりが何時であったのかの記憶すらない。しかし、だからといって言い訳など出来るはずもなかった。ああ、どうしたら良いのだろう。今こうしている間にも気が動転して泣き出してしまいそうだ。

「もう、……まだそんなことを言う」

 難しいことなど何も知らぬような顔をした男は、余裕の微笑みで手元に流れ着いた季紗の髪をもてあそぶ。だが違う、そんな風にしていて良いはずもない。もしもこのことを家の誰かに気づかれたら大変なことになる。長い間、厄介者のように扱われてきた自分には、頼れるあてなどどこにもないのだから。

 そして、そのとき。渡りの向こうから、いくつもの荒々しい足音が聞こえてきた。季紗の動きが、また止まる。

「どうしたのだ、季紗。こんな日に寝坊するとはけしからん。あと一刻ほどで婿殿がご到着する、のんびりしている暇などないのだ。早くここを開けなさい」

 よりによって、先陣を切ってやってきたのはあの父であった。言うなれば、ここにいる男を敵(かたき)とも思っているその張本人。今、この状況を見られてしまっては、一体どのような惨事になるか恐ろしくて想像することも出来ない。

「はっ、……はい! ただいま……!」

 季紗は慌ててそう返事をすると、震える手元で素早く衣をまとった。かなり見苦しい着付けになってしまったが、そこは致し方ない。そして、床のそこここに散らばる男物の衣を全てかき集めると、それを背後の者へと放り投げた。

「寝所の奥に、塗籠(ぬりごめ)があるの。あまり広くない場所だけれど今はまだ物も少ないし、しばらく身を隠すことは出来るわ。……お願いっ、早く! 絶対に、見つかっては駄目……!」

 先のことなど、何も考える余裕がなかった。でも、どうにかしてこの場をやり過ごす他はない。大丈夫、彼はとても機転の利く男だ。少しの隙さえあれば、人目に付かずに逃げ出すことも出来るだろう。そして全てを忘れて、この先は幸せな人生を歩んで欲しい。
  昨夜は誰にも邪魔をされずひとりきりで夜を過ごしたかった。だから、表からはすべて施錠された対にいると知りながらも、さらに内側からしっかりと錠を下ろしていたのだ。それを、朝になってやってきた使用人が不審に思ったのだろうか。戸の向こうから声を掛けてくれれば良かったのに、わざわざ父を呼びに行くとは始末に負えない。

 まずは、彼を中に残した寝所への襖をしっかりと閉ざしてから。若草色の衣装を飾った表の間を足早に過ぎ、木戸の錠を外そうとする。手元が大きく震え、なかなか上手くいかなかったが、幾度か試みるうちにどうにか成功した。

「どうしたのだ、ずいぶんと寝乱れている様子だな」

 こちらが手を掛ける前に、勢いよく開かれた扉。目の前に現れた父は、蔑みの視線を自分の娘である季紗へと向けた。今朝はまだ、髪に櫛を入れていない。そのような姿で人前に出るなど、古い考えの人々には想像もつかぬことなのだろう。その背後には母がいて、さらに後方に幾人もの使用人が控えている。それらの皆もまた、父と同じ考えである様子だった。

「も、申し訳ございません」

 季紗はすぐさまその場に膝をついて、無礼をわびる姿勢を取った。でもそれは、何も両親や使用人たちに対して礼を尽くそうとしたわけではなく、ただただ背後の部屋にいる男を安全な場所に隠すための時間稼ぎのためにしたまでである。

「すぐに急ぎ支度をして参ります、それまでどうぞあちらの対でお待ちくださいませ」

 ここより中には決して入らせてはならない、そう思ったから必死だった。だが、そんな願いも虚しく、父はひれ伏す娘の脇をすり抜け部屋の中へと進んでいこうとする。まさか、何か異変に気づいたのであろうか。そう思って怯える心をかろうじて抑えつつ、季紗はその動きをどうにか押しとどめようとした。

「お、お待ちください……! ここより先はご容赦くださいませ。ただいま、奥はとり散らかって大変見苦しくなっております。すぐに片付けますから、それまでは……!」

 自分でも信じられないくらい強い力が出た。上背が自分よりもある父の前に回り、大きく頭を振って行く手を制する。さらに今まで上げたこともないような大声まで出た。この声が、奥の部屋にいる男まできちんと届くようにと願いながら。

「―― どうしたのだ、今朝のお前はいつもと違うな。……まるで奥に何か大層な隠しものでもあるようではないか」

 何故そのように察しが良いのだ、本当に何かをこの人は知っているのではなかろうか。ああ、もう平気だろうか。これだけ時間を稼ぐことが出来たのだから、彼はもう奥に隠れてくれた頃だ。これ以上、父の行く手を制していることは不可能。……もう、これ以上は無理だ。

「隠しものなど、……わたくしがそのようなものを持ち合わせているわけがございません」

 心で強く願いつつ、ゆっくりと奥へのふすまを開く。しかし、ようやく中が覗けるほどの隙間が開いたところで、季紗の手はぴたりと止まった。

 ―― どうして……っ!?

 そして、次の瞬間。娘を突き飛ばすほどの勢いで、父がその場所に立った。荒々しく音を立て開かれたその向こう、きっちりと衣を整えた男が悠然と控えている。その髪も寸分の乱れなく後ろでひとくくりにされ、きりりと精悍な面持ちをさらに際だたせていた。

「……なっ、何者だ……!?」

 さすがに予期せぬ出来事であったらしく、父もすぐには状況を把握できなったらしい。どうにか荒々しく声を出すことには成功したが、その足下は未だおぼつかぬままである。
  そしてその者がゆっくりと面(おもて)を上げたとき、一家を取り仕切る男はその顔のしわも伸びきるほどに驚愕の面持ちへと変わっていった。

「まっ、……まさかお前は……」

 あまたの奇異の目にさらされながら、凱は少しも臆することもなかった。自分の姿に何かを悟った家の者たちに対して、再び深く頭を下げる。

「―― お初にお目に掛かります。川向こうの絵師が息子、凱にございます」

 一同がしんと静まりかえった中に、凛とした声が響き渡っていく。驚きと恐ろしさを遙かに超えてしまった季紗の心は、彼の姿の他の何も感じ取ることが出来なくなっていた。だから、次の反応が少し遅れてしまったのである。ハッと気づいたときには、父の手に懐刀がしっかり握られていた。

「おっ、おのれっ! 曲者……っ! このような場所で何をしておるっ、ここがどこであるか承知の上で踏み込んだのであればこちらも容赦しない。あのような文を幾度も送りつけただけでも許し難いというのに、人を愚弄するのもいい加減にしろ! ええいっ、すぐさま斬り殺してみせようじゃないか!」

 その怒りに燃える瞳は本物であった。この十五年もの間、親子として過ごしてきた季紗にはそれがはっきりと分かる。しかし、目の前にいる幸せな男にはそれが分からぬのかも知れない。無理もないことだ、愛されて守られて生きてきた人間に、憎しみの心を教え込ませることは難しすぎる。いくら言葉で説明しようとしても無理な話だったのだ。
  だいたいこのように女子の寝所から出てくるなど、自分たちの行ったことをわざわざ皆に知らしめるためのやり方としか思えない。

 ―― もしや初めから、この者は逃げる気などなかったのではあるまいか。

 ようやくそのときが来て、季紗は初めて悟っていた。どうしてもっと早く、この者の本心に気づくことが出来なかったのか。そう言えば、昨夜話してくれた気がする。彼自身やその父親が幾度となく面会を求めたが、それが受け入れられることはついになかったと。しかし、この期に及んで直談判など通るわけがない。それくらいのこと、少し考えれば分かりそうなものを。

「それがあなた様の出された答えだと仰るのなら、有り難く頂戴するまで。こちらに何の異論がございましょうか」

 大きく振り上げられた刀を真っ直ぐに見つめて、凱はこの世のものとは思えぬほどの澄み切った美しい笑みを見せた。

「あなた様のお言葉が聞きたいと思っておりました。その願いが叶ったのですから、これほど嬉しいことはございません。この先はどのようなことでも全てお受けいたしましょう」

 一体、何を言わんとしているのだろうか。誰もがその成り行きに言葉も忘れて静まりかえる中で、ただひとり朗々と話し続ける男がいる。このままでは本当に大変なことになってしまう。彼の大切な命をこのようなことで散らすことは出来ない、そして自分の父が人を殺めるなんてあってはならぬことだ。

 怒りが憎しみを呼び、そして憎しみがさらなる怒りを呼ぶ。そんな風にして今日まで生きてきた憐れな父親である、それでも―― この人は自分にとってはこの世にひとりしかいない大切な父親なのだ。

「そっ、そのようなっ……! 無駄口を叩けるのもここまでだ! お前は人の道に外れるようなとんでもない真似をした、そのことに対しこの家の主である私が制裁を加えることに誰が異を唱えることが出来よう……!」

 何て美しい朝だろう、まばゆいばかりの光を艶やかな表面に集めて、鋭い刃がゆっくりと弧を描く。しかし、季紗の目が確認できたのはそこまでだった。次の瞬間には、知らず身体がふたりの間に飛び出す。

「やっ、やめて! 駄目です、父上っ! この人を傷つけないで……!」

 すぐそこまで、刃が迫っていた。でもそれ以上に恐ろしい光景を目に映すよりはよほどいい。ここにいる他の誰が認めなくても、こんなやり方は間違っている。少なくとも、自分自身はそう思う。

「何をしておるっ、そこをどけ! どかぬというなら、お前も一緒に斬り捨てるぞ! いいのかっ、それで……!」

 力任せに懐刀が振り回され、周囲の者たちが怯えて後ずさりをする。しかし、季紗はそのような状況にあっても一歩も引くことが出来なかった。駄目だ、どうしても。自分はどうなっても構わない、でもここにいる男は違う。共に生きることが出来ぬのならば、せめてこの人の幸せだけは願いたい。いつも、いつのときもそう思っている。

「いいですっ、構いません! この人がいなくなった世界に、どうして生きていられましょう。わたくしの命なら差し上げます、ですからこの人を奪わないで……!」

 最初からそのつもりだった、それで父の気が済むのなら人柱になることだって厭わなかった自分だ。己の幸せなど、初めから諦めている。でも、そんな中でもただひとつ願う夢はあるのだ。

「おい、季紗! やめろ、早くここをどくんだ!」

 背後から肩を強く掴まれても、季紗の身体は石のように動かなかった。自分はこの人の盾になる、今このときに人の道から外れようとしている父であっても、自分の命をもって正気に戻して見せよう―― そう強く願って。

「おっ、おのれ―― 」

 大きく振り下ろされた刃が、季紗の袂を少し外れた板間に突き刺さった。そして血走った怒りの目をした人が、再びそれを手にしようと腕を伸ばした刹那。
  強い力が背後から季紗を抱きしめ、そのまま若草色の衣装へと飛びかかった。そしてその場に季紗を下ろした後、怒りを含んだ瞳で振り向く。

「いい加減にしろよ、君は何も分かっていない! それならば仕方ないな、これ以上その命を粗末に出来ないよう、俺が思い知らせてやる……!」

 ひらり、と春の香を乗せた衣が舞い上がる。大きく弧を描いて翻ったそれが再び静かに落ち着いたとき、季紗も、そして他の者たちも、そこから目が離せなくなった。

 

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