「……あ……」 一体、この気持ちをなんと表現したらいいのか。それが分からずに、ただ息を呑む。ああ、何と美しい姿だろう。夢にまで見た光景が目の前に現れるなんて。 「すごい、袖も身丈もあつらえたようにぴったりだ。どう? ……なかなか似合っているんじゃないかな」 流れる袖を見頃の裾を惚れ惚れと眺めてから、彼は静かに季紗へと向き直った。 「君のための衣は、ちゃんと保管している。あれを着て、俺の隣に立ってくれないかな? そうするために作られたものたちなんだから。きちんとその役目を果たしてやらなかったら、申し訳ないよ」 頷くことも、首を横に振ることも出来なかった。この人は、全てを知っている。ふたつの衣が伝えていた確かな言葉たちをもきちんと聞いていた。だから、ここへ来たのだ、ここまで来てくれたのだ。そうに違いない。 しかし、厳かな時間はすぐに破られる。ハッと我に返ったときには、ふたりの背後まで怒りの刃が再び襲いかかっていた。 「……このっ、盗人めが! それに荷担する愚か者めが……っ! ええい、ままよっ! こうなったら、ふたり揃えて成敗してやる! お前たちのような若造に出来ることなど何もないことを、今こそ思い知れ……!」 だが、その刃がふたりの元へ届くことはなかった。次の瞬間、またしても信じがたいことが起こる。 「―― もう、この辺でお止めください」 聞き慣れない静かな声が、一同の耳を再び大きく揺るがした。 「……な……」 その声に、ここにいる誰よりも一番の驚きを持って迎えたのは、他でもない季紗の父であった。彼は未だに信じられない面持ちのまま、声の主を振り向く。他の者たちも、また同様にそのただひとりに視線を向けていた。 「お止めください、あなた。このように取り乱しては、見苦しいではありませんか。ご自分のなさっていることを、ご承知くださいませ。あなたはこの館の主なのですから、相応の振る舞いをしていただかなくてはなりませんわ」 季紗も他の使用人たちも、その光景を息をすることも忘れてただ見守るのみ。何故、どういうことなのだ。今の今まで、他の誰よりも存在感がなくただ父の影のように控えていたはずのその人が、まるで人が変わったかのように毅然とした態度で己の夫に向き合っている。 「……お、お前は……」 何か言葉を発しなければ、どうにかして体勢を立て直さなくては。父の必死な心内は張り詰めた気を漂い、そこここへと流れていく。 「全く情けのうございます。あなたはご自分の娘の真の言葉にも耳を傾けようとはなさらないのですね。そのような方に従って私は今日まで生きてきたのでしょうか」 まさか、そんなはずはない。これは母の言葉などではあり得ない、別の誰かが無理矢理母に話をさせていると考えなければつじつまが合わないと思う。 「な……何を言う、小癪な! いったい何様のつもりだ、よくもまあそのような戯れ言を! お前は今まで誰のお陰でここまでやって来られたと思うのだ……!」 ようやく言葉の戻った父の手には、まだ刃がしっかり握られたままであった。しかし大きく震える手元が煌めかせるその輝きを見ても、母は少しも動じない。それどころか、父をまっすぐに見据えた面差しは豊かな微笑みをたたえてさえいた。 「さあ、……それはどうでしょうか」 これほどに饒舌な母の姿を、季紗はかつて見たことがなかった。今ここにいる者の中では、唯一の部外者である凱だけがその真実を知らない。だが、彼も察しのいい男であるから、皆驚きようからこれが尋常でないことはすでに悟っているであろう。改めて説明する必要もなさそうだ。 「どっ、どういうことだ! 母娘そろってこのような呆れた行動に出るとは、とうとう気が狂ったのか! ―― いや違うっ、そうだ、……そうであったのか。これは……すべてお前が仕組んだことだったのだな。こんなことをして私に対する長年の恨みを晴らそうというわけか、見上げたものだな」 その父の言葉に、季紗の母はひどく忌々しいことに巡り会ったかのように一瞬だけ眉をひそめた。しかし次の瞬間には、何事もなかったように微笑みが戻る。 「長年の恨み、……さて、そのようなものが私にございましたでしょうか」 真っ直ぐな視線で父を見据える母は、今までで一番美しかった。そのことに父自身も気づいたのだろう、だから返事をするのが少し遅れてしまう。 「こっ、この期に及んでそのような……! 分かっておる、すべて分かっておるのだからな! 人を馬鹿にしおってっ、ええい、目にものを言わせてやる……!」 かろうじて口だけは達者であるものの、身体の動きがそれに全くついて行かない。一歩前に踏み出そうとした父は自分の袴の裾に足を取られ、もう少しで転びそうになった。 「何をおっしゃいます、何も分かっていらっしゃらないのはあなたの方ですわ。何ですか、いつもいつも相手のことを邪推してばかり。そのようにねじ曲がったものの見方をしていては、今に誰からも相手にされなくなりますよ。いったい何時それにお気づきになるのかと、長い間お待ちしておりました。でも、もう我慢なりませんわ」 足の動かぬ父に代わり、母がゆっくりと歩み出てふたりの距離を縮めた。やがて互いの袖が触れ合うほどに近づいたとき、母は再び口を開く。 「あなたはご承知くださらないでしょう、私が真にお慕い申し上げているのが誰であるのかを。幾度となくそれをお伝えしようとしましたが、その機会もございませんでした。全く情けないにも程があります、どうしてこのような御方に今まで付き従って来たのかと思うと……」 普段から質素な身なりで過ごしていた母であるが、その肌は未だに瑞々しく髪も同世代の女子に比べ豊かであった。父といくつも年齢が変わらないとはとても思えない。長い間あのように蔑まれ貶められてきたというのに、母の心根は実は少しも歪んではいなかったのだ。 「―― 季紗」 と。母は急にこちらを向き直った。そして、怒りと畏れに打ち震えたままになっている父を横目に、凛とした声で呼びかける。 「あなたは決して道を違えてはなりません、自分の信じた道をひたすらに進むのです。私もかつてそうしようと誓ったはずでした。でも、こういうことは一方だけがいくら努力しても始まらないのですよ。私も、長い時間をかけて、ようやくそのことに気づきました。心の中でいくら念じたところで、相手に届くことはないのです。きちんと向き合って、常に自分の気持ちを伝え続けなければならかったのですね」 優しい言葉で諭す母の背後で、情けない声が上がる。 「おっ、おい! 何を言う、いい加減なことを申すでない……! このような盗っ人に大切な娘をくれてやれるものか、もう程なく婿殿がご到着なさる。それなのに、どうやってこの場を取り繕えば良いというのだ……!」 確かにその言葉はもっともなことであった。婿殿に決まっていた男との約束はすでに数年来のこと。そのために彼は相応の勉強もして、布染めの一族の長としての人生を歩み出そうとしているのだ。今更都合が悪くなったからお引き取り願いたいなどと、どうして言えよう。 「あら、よろしいではありませんか。婿殿さえよろしければこのままこちらに留まっていただいて、あなたの跡継ぎとなっていただきましょう。そしてお似合いの女子と娶せれば良いではありませんか。それほど難しいことでもございませんわ」 たくさんの言葉を、そして想いを。母は長い間心の中に溜め込んでいた。それを誰かに告げる機会も与えられず、ただひたすらに堪え忍んできたのだろうか。しかし、それももう終わる。母の中で何かが大きく動き、その生き方を変えさせることになったのだ。 「なっ、何を言う! そのような勝手は許さぬぞ。どうして我が娘を、憎い一族の元にやれるものか! ……そ、そうだ! 凱とやら、どうしても娘が欲しいなら、己が家を捨てて私の元へ来るのだ。それくらいの覚悟がなくてどうする、出来ぬと言うなら即刻ここを立ち去るがよい……!」 話はいよいよ混乱してきた。一度お開きにして皆が頭を冷やした方が良さそうな気もするが、それには時間が足りない。急に話を振られた凱は、一瞬ものを聞き取れなくなったような面差しになった。それも当然だ、彼は染め絵師の一族にとって、ただひとりの跡目。そもそもあちらが手放すはずがないではないか。 「―― いえ、残念ながらそのお言葉には従うことが出来ません」 当然といえば当然の言葉に、それでも季紗は少しばかり落胆した。しかしそのことを決して周囲の皆に悟られてはならない、そう思ったからつとめて平静を装おうとする。そして床の上でぎゅっと握りしめた手を、凱の手が素早く覆った。 「でも、この人を我が一族に迎えることも考えていません。ここまで来てようやく分かりました、自分たちにとって何が一番大切であるのかと言うことを」 そこで一度言葉を止めた彼は、まずは季紗をゆっくり向き直った。それから、狭い対にひしめき合う者たちを静かに見渡していく。そして最後に彼は季紗の父に、それから母に正面から向かい合った。 「俺たちは、―― 川に橋を架けます。そしてその橋のたもとに新しい自分たちの家を造るのです。それこそが一番望ましいやり方ではございませんか……?」 若草の晴れ着を未だ羽織ったままの男には、微塵の迷いもなかった。その傍らに寄り添う季紗の肩にも、まるで見えない薄桃の衣が掛けられている気がする。 「な……なんと、お前たちは互いの家を捨てるというのか。そのような親不孝者が……許されるなどと……」 驚愕の面持ちでうろたえる季紗の父に、凱は少しも悪びれることなく微笑んだ。 「いえ、家を捨てるのではありません。―― 家をひとつに戻すのです。間違いがあって長い間ふたつに割れたままになっていた器を元の通りにひとつのかたちに戻す、それこそが季紗と俺に与えられた使命だと思っています」 季紗の手を包む彼の手は、その瞬間も大きく震えていた。それは決して突然の展開に戸惑っているからではなく、ようやく巡り会うことが出来た自分の生きる理由に対する武者震いのように感じられる。互いの気持ちを前もって確かめ合わずとも、この人の言うことはすべて受け入れることが出来ると季紗は思った。 最後の瞬間まで諦めることなく突き進んだからこそ、今このときがあるのだから。 「ええい、なんと忌々しいことよ! このような女子供の戯れ言にいつまで付き合っていられるものか! さあ、このような場所でいつまでも油を売っているわけには行かぬ。皆の者、すぐに本館へと戻るぞ。客人を迎える準備を急がねばならぬだろう……!」 季紗の父は、どうにかこの場を取り仕切ろうとして大声でわめき立てた。そして大袈裟に衣をはためかせ、身を翻す。しかし、渡りへと飛び出そうとした刹那。彼はもう一度足を止め、後ろを振り返った。 「―― その者にもきちんとした支度を用意せよ。こうなった以上、客人に挨拶をしてもらうほかないだろう。さて、そのような大儀が果たせるものだろうか、なかなかの見物であるな」
騒々しい足音が立ち去った後。 その場に残ったのは季紗とその母、そして凱の三人だけだった。ようやく静けさの残った板間に、向き合って座る。 「……まあ、困りましたこと。父上は面倒ごとが起こるとすべて周りに押しつけて済ませようとするのですからね」 口火を切ったのは、季紗の母。この日のためにと新調された衣をまとった彼女は、その口元に今もゆったりと微笑みを浮かべている。 「それで、……これから如何いたします? 一度戻って出直していただいても一向に構わぬのですよ。たまにはあの方にも苦労していただかねばなりませんから」 その言葉に、凱ははっきりした口調で応えた。 「いえ、せっかくいただいたお役目であるなら、立派に果たしてみせましょう。俺たちのことをお許しいただくためだったら、どんなことでも出来ます。このたびはその覚悟で参りましたから」 その精悍な横顔に、季紗は胸の奥から突き上げてくるものを留めることが出来なかった。出会いの瞬間から惹き付けられてやまなかったその人が、こうして側にいてくれる。諦める他はないと絶望に打ちひしがれた夜を越えて、今ここに。 「まあ、頼もしいこと。季紗、あなたは本当に素晴らしい方を見つけましたね。私たちのときもこれくらい情熱的なやりとりが欲しかったわ。何しろ……あの人は、元から決まっていた許嫁と自分とのどちらを選ぶのか私に決めさせたのですからね。十三、四の娘にとって、それはかなり辛いことでしたよ」 そう告げながらも、母の表情は明るい。そして静かに立ち上がった彼女は、最後にもうひとこと付け足した。 「もちろん、そのときの自分の選択を間違っていたと思っていたことは一度もありませんよ。だから私にははっきり分かります、ぎりぎりのところで選んだ道はいつでも一番正しいのです」 さあ、それでは急ぎ着替えを用意させましょう、と言い残して。今朝新しく生まれ変わったかのように見える季紗の母は、生き生きとした足取りで渡りへと消えていった。
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