…終…

 

 

 春霞の天の色を季紗は眩しく見上げていた。しばらく伏せっているうちに、季節は野山の風景を手早く塗り替えていったらしい。流れる気は心地よく、自然と足取りも軽くなっていく。
  懐かしい御方をお出迎えするためにせめて門先まで出てみようと思ったのだが、沸き立つ好奇心がその場所に留まらせてはくれない。もう少し、もう少しと欲を出しているうちに、ずいぶん遠くまで来てしまった。昨日までは一日中奥の対に引きこもって病人の様だったのに、心がけ次第でこんなにも変わるのだから現金なものである。

「……あ……!」

 雑木林の向こう。ちらりと見えた人影に、季紗は思わず声を上げていた。はやる気持ちについ早足になってしまいそうになり、ハッとして踏みとどまる。いけない、いけない、こんなことでは。未だにひとつのことばかりに夢中になって、他の何もかもを忘れてしまうことがある。家人にも繰り返したしなめ続けられているではないか。

「やあ、久しぶりですね。元気そうでなによりです」

 相手も遠目にこちらを確認したのだろう、記憶の中にあるのと同じ澄んだ声が真っ直ぐに投げかけられる。ああ、そうだ。あの頃、永遠とも思われる暗闇の中で、いつもこの声に導かれてきた。再びお目にかかれる幸運を与えられ、どんな言葉を尽くして出迎えようかと色々考えていたが、実際その場に立ってみると用意していた何もかもが色あせて見えてくる。

「こちらこそ、ご無沙汰しております。湖東老師、このたびは遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございました」

 数年を経てしっとりとした物腰が身についたかつての愛弟子を、老師は優しい眼差しで見つめている。

「本来ならば、こちらから出向くのが筋というものですのに……本当に申し訳ございません」

 しっかりとした足取りもあの頃のまま、七十も半ばを過ぎた恩師のお健やかな姿には安堵したが、それでもこのような場末まで呼び立ててしまったのは心苦しいばかりだ。もちろん、このたびのことは老師の方からの申し出であったのだが、当然のことながら自分たちはとんでもないとすぐにお断りしたのである。その後も文のやりとりでは話し合いがつかずにずいぶん気を揉んだが、結局は老師の粘り勝ちとなった。

「何を言いますか、こちらから送った修士生たちが立派に仕事をしていることを見届けるのも私たちの大切な役目ですからね。それにこのような楽しみを、どうして人任せになどできようか。こうしてあなたとも卒業以来、ようやく再会を果たせたではありませんか」

 春の早い南峰の地は、今がまさに花の盛り。絵の具箱をひっくり返したかのように、色とりどりの草花が野山を隙間なく染め上げている。その鮮やかな色彩に、染め絵の達人である老師が心を奪われぬわけがない。

「これはまた、……噂以上の美しさですね。君たちの原点を見せつけられた気がします」

 それから彼は再び季紗の方へと向き直り、その顔色を注意深く確認した。

「……もうお加減はよろしいのですか?」

 その言葉にハッとして、季紗は自分の頬を両手で包んだ。

「いっ、いえ! 別に病と言うほどのものでもないのですから。すみません、老師にまでご心配をおかけしてしまうなんて……!」

 このことについては自分でも情けない限りである。腹に子が出来るのは何も初めてのことではないのに、何故か最初のしばらくは決まって体調を崩してしまう。それがちょうど工房の忙しい時期に当たったときなどは、横になっていても作業の進行が気になって気になって仕方ないのだ。

「何を言いますか、これは女子にしか出来ぬ大切な仕事ですよ。そう思って、どっしりと構えていればいいのです」

 さすがに年期を積んだ人の言うことは違う。その後もあれこれと近況を報告し合っているうちに、建てられて数年が経つ作業所が見えてきた。

「ほほう、これはまた、立派なものですね」

 老師のその言葉は、目に映ったどこまでを指し示したものなのだろうか。大水が出てもびくともしないほど頑丈に造られた橋が広い川面を横切り、そのこちら側に作業所が、そして橋の向こう側にはこぢんまりした館があった。
  今では当たり前のように周囲の風景にとけ込んでいるこれらであるが、未だにふと夢の世界の幻影でしかないのではと不安になってしまうことがある。自分には決して叶わぬことと、想いをすべて封印しようと決めたあの夜から、何もかもがすべて変わってしまった。そのことを思うたび、不思議でならない。

「さあ、こちらへどうぞ。皆が老師のご到着を今か今かと首を長くして待っております」

 納期が間近に迫り、今は最終の手入れで大忙しだ。でも、ちょうど良いときにお越しいただいた、皆の成果を存分にお見せすることが出来る。そう思って微笑んだ季紗の口元は、満ち足りた幸せに彩られていた。

 

◆ ◆ ◆


  許嫁であった男の決着は、あっけないほど簡単についてしまった。季紗と凱、ふたりの訓練校でのめざましい成果は今や集落を越えて広く伝わっており、本人たちの知らぬところで数々の噂がまことしやかに囁かれていた。

「都よりお迎えの使者が来ていると聞きましたが」―― 最初にそう切り出されたときには、本当に腰が抜けるかと思った。そのようなことがあるはずもないのに。もともと王族の方々は刺し文様の装束を身につけるのが決まり、今は時代が変わってきたとはいえお抱えの染め師や絵師など必要であるわけがない。
  そして自分の目前にやってきた相手が対の衣の片割れを手がけた者だと知ったとき、彼は明らかに安堵の表情となった。そのまま季紗の家に養子にはいることにも異論はなく、主に得意とする帳簿関係を担当していきたいと言う。

  恐れていたような混乱が何ひとつ起こらないばかりか、己がはっきりと自分の進みたい道を決めたことで周囲までが上手く回り始める。二月後に執り行われた祝言の席では、互いのために仕上げた衣に身を包んだふたりが招待客すべての目を釘付けにした。
  その頃には双方の家を隔てていた長年の因縁も氷解しており、今後は季紗の家で染めた布を用い凱の家で絵柄を施し反物として仕上げるという理想的な関係を築いていこうとの話がついていた。そして、今日までそれは滞りなく続けられている。ふたつの家はますます発展し、互いの作業場を増築するまでになっていた。

 そして、新しく夫婦となったふたりの方はと言えば。それぞれの実家の工房の手伝いをしながらも、全く新しい試みを始めようとしていた。

「工房は広く造りたいと思うんだ。職人たちが住まう場所も近くに造って、方々から腕の立つ若い者たちを集めようかと考えてね。―― 実はもう、その話はつけてあるんだ」

 季紗がそうであったように、やはり講師として訓練校に残ることを強く求められていた凱。しかし彼はその話を断る代わりに、ある提案をしていた。
  訓練校にて基礎を身につけた者たちの中からさらに多くを学びたいと思う人材を集め、実際に売り物になる作品を仕上げつつより高い技術を身につけてもらう場を造りたい。志の高い者たちが集まれば、ひとりひとりが個別に頑張るよりも数倍数十倍もの成果が生まれるはずだ。
  彼はそれを信じ、今まさに実行に移している。郷里から遠く離れた場所で腕を磨く若者たちを影から支えるのも、季紗の大切な役割のひとつとなっていた。
  もちろん彼女に与えられる仕事は、それだけに留まらない。毎年新たに送り込まれる者たちに己の持つ技術のすべてを伝えて行く必要がある。自らが手がけるのと、その手順をわかりやすく伝えるのでは勝手が違い、気を揉むことも多い。もともとが人見知りなたちであったことも災いしているのであろう。ついつい泣き言を言いたくなり、そのたびに夫となったその人にたしなめられてきた。

「俺たちに一番大切なのは、何があろうと決して諦めないと言うこと。それから、……ひとりですべてを抱え込まないようにするということだよ」

 双方が職人気質であるから、すぐにおのおのの世界に閉じこもりがちになってしまう。相手の想いを大切にしようとするあまり、距離感の掴み方が分からなくなってしまうこともある。
  だがそこで、ただ手をこまねいているだけでは駄目だ。たとえ手探りであっても自分の出来ることを見つけ出し、共に支え合って行けばいい。ひとりではどうにもならないと思うことも、ふたりならどうにかやり遂げることが出来る。その奇跡を忘れることなど、決してあってはならない。

 幸せを自らの手で作り出すこと。それがこの数年で季紗のやり遂げてきたことの全てだ。

 

◆ ◆ ◆


「―― 季紗! どこへ行ったのかと探していたんだよ」

 作業所の入り口にたどり着いたとき、中から勢いよく飛び出してきた人影ともう少しでぶつかりそうになってしまった。慌てて数歩後ずさりすると、相手もこちらの姿を見つけてやはり立ち止まる。洗い立ての作業服に身を包んでいるのは、季紗にとって誰よりも身近な存在であるその人だ。

「全く、少し目を離すとこうなんだからな。染色釜の前にいないから、貯蔵庫の方かと思ったらそっちでもないし……きちんと休んでいないと、あとで辛い思いをするのは君自身なんだからね」

 少し怖い顔をして見せるが、それでも柔らかい眼差しがこそばゆい。そうしているうちに、今度はその脇から小さな足音がすり抜けてきた。

「あ〜、母さま! 今日はおねんね、いいの?」

 いきなり足に絡みつかれては、身動きが取れなくなってしまう。突然のことに、一体何からどうしたらいいのか分からなくなっていた季紗の足下で、その後ろを不思議そうにのぞき込む菫の瞳が輝いた。

「……おじいちゃん、どなた?」

 その声で、凱もようやく季紗がお連れした御方に気づく。こちらのふたりは年に数回顔を合わせる仲ではあったが、それでも格式のある相手に礼を尽くすのは当然。しかし、丁寧に挨拶を続ける父親を無視して、幼子はさっさと見知らぬ客人にすり寄っていた。

「ほほう、可愛い子だね。こちらが、一番上のお嬢ちゃんかな?」

 差し出された腕に素直にしがみついて抱き上げられ、歓声を上げている。一体誰に似たのか、初めての相手にも全く躊躇しない娘だ。

「あたし、美布(みう)! ねえ、おじいちゃん、いいもの見せてあげるよ! ……こっちのおへや、来てちょうだい!」

 伸びかけた金の髪が頬に当たるのにも、老師は全く気にしていない様子である。そしてふたりが入っていく入り口近くの小部屋に、少し遅れて季紗と凱も続いた。

「ほう、……これは。また懐かしいものにお目にかかりましたね」

 大きく広げられ壁を飾った二枚の衣を、湖東老師はあの朝季紗に指し示したときと同じ眼差しで見つめていた。

「きれいでしょ! でもさわっちゃだめなんだよ、父さまにすごくおこられるから!」

 老師の腕の中で、幼子がお得意のおしゃべりを続けている。その可愛らしい頭をゆっくり撫でながら、老師は背後のふたりの愛弟子を振り向いた。

「こちらは、……遠く都よりも買い付けの使者がやってきたと聞いていますが。とうとう手放すことはなかったのですね。でも、もったいないことですよ。この衣たちがより多くの者の目に触れる機会が与えられれば、あなた方の名声はさらに高いものになるでしょうに」

 その言葉に、凱は少し首をすくめて見せる。今までに何度同じ言葉を違う口から投げかけられたことであろう。しかし、彼の答えはいつも同じだ。

「いえ、……こちらはまだ頼りないばかりの仕上がりでありますから。ありがたいお申し出をしてくださる方々にはいつも申し上げています、同等のものならば幾枚でもお作りしましょうと。しかしながら、こちらを手放すつもりは毛頭ございません。これは自分たちの原点とも言える作品、初心を忘れないためにもいつまでも手元に置いておかなくてはならないんです」

  その言葉には、季紗もまた同感であった。
  数年を経て見るかつての大作は、今になればそこここに至らぬ点もあり、出来ることなら最初の一筆から描き直したいと思うところも多い。いや、その前の布染めの段階から、やり直すことが出来たならいいのに。そうすれば、もっと納得のいく仕上がりになるはずだ。
  ―― しかし、そうであっても。小ぎれいに仕上がった新しい作品が、この一枚にすべての面で勝るとは到底思えない。あのときの気持ちはあのときだけのもの。不安定であったからこそ表現できることの出来た感情を、再び描くことは不可能だ。

 自分たちは作家ではない、あくまでも職人なのだ。客を相手に商品を売るのであれば、いつの時にも一定の水準で提供しなければならない。もしかすると、魂を揺さぶるほどの作品というものは、一生涯のうちにそう何枚も手がけることは出来ないのではないだろうか。

「さあ、そろそろ我々の新作をお目にかけましょう。このたびもなかなかの力作でありますよ、西南でも名の知れたご領主様が跡目殿の婚礼の御衣装としてお使いになるものですから。金に糸目を付けずに済むというのは、誠に楽しいことですね。皆、贅の限りを尽くしましたよ」

 凱が恩師を工房へと案内していく。皆のあとを少し遅れて続きながら、季紗は今一度小部屋を振り向いた。

 

 若草と薄紅の衣が、どんなときにも優しく見守ってくれている。明るい眼差しで進めば、必ず道は開ける。今までがそうであったように、きっとこれからも。

 春の色に染まった指先が、ふたつ寄り添えば。

了(091211)
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