そこに広がるのは、生まれて初めて見る「夢現(ゆめうつつ)」の世界であった。 細心の注意を保って扱わなければと幼心にも分かるほどの丁重な造りの巻物は、優美な細紐を解き広げると一枚の長い長い錦絵になった。大広間の端から端までの長さもありそうな上質の和紙に天から見下ろしたような構図で描かれているのは、遠き都の風景。繊細な筆遣いで生き生きと表現される人々の姿は今にも動き出しそうで、先ほどと位置が変わっていないか何度も確かめてしまう。 いつの頃、どこの誰にもらった品であったかは定かではない。だが、日がな一日寝所の奥に籠もったままで飽きもせずに見入っていると、次第に自分自身までが錦絵の中に入り込んでいるような気分になっていった。普段の生活では縁のないきらびやかな装束、いつか自分にもこんな衣をまとう日が来るに違いない。何も知らぬ頃の私はそう信じて疑うこともなかった。
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その領地でも西方の外れに位置する場所に我が父の館はある。遠く美しい連峰を臨み、周囲は見渡す限り畑と田んぼばかり。そんな中に忽然と現れる場違いな建物は西への街道を行く旅人たちの度肝を抜くに十分な代物であった。 そんな家に生まれたのが幸い。私は幼い頃から住む場所はもちろん、食うものにも着るものにも不自由した記憶がない。欲しいと思えば大抵のものは手に入れることが出来たし、気軽な身の上故で野歩きなども比較的自由に出来た。身分のある姫君などは年少の頃から人目に付かない奥の対などに押し込められていると聞くから、それに比べたらどれだけマシか知れない。 それに……私には「野望」があるんだもの。姉君たちみたいに、父の見栄っ張りな性格を満足させるため名ばかりの貧乏貴族の家に大人しく嫁ぐなんてまっぴら。まあ、思っていても口に出して周囲に知らしめるような馬鹿はしないけど。私はこう見えて、それなりに賢い女子(おなご)なのよ。
「……まあっ、お嬢様! 何ですか、お行儀が悪い!」 目の前の障子戸が荒々しく開け放たれ、そこに仁王立ちの侍女が現れた。目をつり上げて重そうな巨体を揺する姿は、さながら鬼のよう。小菊という可憐な名前からは到底想像できない有様だ。 「もう昼餉も近いというのに、まだお召し替えもお済みでないとはどういうことです。いつまでもそのように寝着(やぎ)のままごろごろと寝そべって、およそ年頃の女子様のなさることではありませんね。さあ早くお支度なさいませ、本日は昼餉の後に御髪を洗う予定でしょう。明後日にはまたお客様を招いての宴がございます、このたびはとくに念入りにお支度せよと御館様よりのお言葉です」 取り散らかった机の上や衣装をしまった行李の辺りを乱暴に片付けていく彼女の姿も、あまり誉められたものではないと思う。それに、仮にも主である私の部屋にずかずかと乗り込んでくるその態度こそ「お行儀が悪い」と評されるのではないかしら。 「あ、ちょっと待ってよ。まだ途中なんだから……」 夢中で見入っていた大切な巻物までが彼女の手に掛かりそうになり、私は反射的にそう叫んでいた。 「何を仰るのです、いい加減になさいませっ!」 それなのに、強情な侍女は私の希望をぴしゃりとはねのける。本当に失礼しちゃう、冗談じゃないわ。 「ほらほら、お前たちも急ぎなさい。無駄口を叩くなら後でも出来るでしょう、全く気の利かない者ばかりが集って仕方ないこと……!」 いつの間に控えていたのだろう、五六人の年若い侍女が表から騒々しく立ち入ってくる。皆近隣の村々から集まった垢抜けない者ばかり。表向きは「行儀見習い」とか言って、その実は父上や跡目に決まった兄上のお手つきになることを希望しているのは丸わかり。その証拠に、どいつもこいつも浅ましい面構えの奴らだ。 「ささ、貴子様。お急ぎくださいませ」 あー、面倒。正月明けで天候の安定しない寒空の頃に、何でわざわざ髪を洗わなくてはならないのかしら。なかなか乾かなくてイライラするのは目に見えてるのに。 父上のお客? ああ、また元はどこぞの官僚だったとか言う中年男に決まってるわ。しかも暴飲暴食がたたって袴の帯も結べなくなったようなでっぷりお腹のおじさんばかり。ひどいと私よりも歳のいった子供がいると言われたりする。 何だかんだと騒がしい、落ち着かないばかりの毎日。でもそのときの私はまだ、一発逆転の可能性は十分あり得ると考えていた。どうしてそんな自信が持てるのか、その根拠も説明できないけど。とにかく絶対に大丈夫って信じてた。 うん、きっといつか。夢は必ず叶う。
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その日の夕刻のこと。急な知らせを耳にしたときの私は、四方八方を侍女に取り囲まれ全く動けない状態だった。 身丈に余る髪を洗うのって、本当に大変。侍女が五人も十人も集まって、それでも半日がかりの大仕事なの。板間に油紙を敷き詰めて、その上に髪をまっすぐに広げていく。上から見たら丁度扇が開いたように見えるでしょうね。 別にお姫様みたいにここまで髪を長くする必要はないと思うのね、正直なとこ邪魔なだけだし。だけど、父上がどうしてもとこれ以上に短くすることを許してくれない。これって絶対に男の勝手なエゴに付き合わされてるのよね。ああ、可哀想な私。 「ええそれが、ただのお客様ではないご様子。早馬の知らせを受けて、御館様もいつになく慌てていると向こう対の侍女が教えてくれました。まだ詳しいことは分かりませんが、楽しみですね〜お嬢様っ!」 話を伝えてくれたのは私と変わらない年齢の木の葉という侍女。先ほどの口うるさい小菊はいつの間にか部屋から姿を消していた。若い者ばかりになった気安さで、部屋の中は一気に盛り上がってくる。 「一体どのようなご身分の御方でしょう? きっとお付きの方も幾人かおられるに違いないわ。ああ、どうしよう。間違ってお声など掛けられたら、何と応えたらよいのやら……!」 皆、明らかに混乱している。衣を多く重ねるのが正装? 確かにそうかも知れないが、その場合は間違っても分厚い上掛けを二枚一緒に着込んでは駄目だと思う。妙に肉付き良く見えてしまうだろうし、実際歩きにくいし。私はただ奥の間に一日中かしこまっていればいいお姫様とは違うのよ。ああいう方々は箸よりも重いものを持たないとか言うじゃない。一緒にされちゃ、たまらないわ。 方違えっていうのはね、自分の向かうべき方角が凶であると出た場合にいったん別の道を進んで災いを避けることらしい。場合によっては、予定外の場所に一夜の宿を借りることもあるとか。だけど、誰彼構わずそんなことをするはずもない。少なくとも、我が父上のレベルではあり得ないわね。ここまで回りくどいことをするのはかなりのご身分がある方に決まってる。 ……ふうん、これはちょっと期待しちゃっていいかな。 私は仮にも館主の娘。軽々しくおしゃべりに興じている下々の者たちとは立場が違う。自分の気持ちをわざわざ表に出したりはしないわ。そうは言っても、ここまでの幸運はなかなか訪れない片田舎。ようやく一人前と認められて客席にも出られるようになったんだもの、この機会を逃す手はないでしょ?
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「やあ、貴子」 入り口で正座して、深く一礼する。膝頭の前に付く手はきちんと指を揃えて、髪が頬に掛かっても決してかき上げない。そして再び面(おもて)を上げたとき、私の目に映ったのは意外な人物だった。 「まあ、お兄様! お帰りなさいませ!」 驚きのあまり、思わず高い声を上げてしまったのも仕方ない。部屋を入ってすぐ、一番下座で私を待っていてくれたのは暁高(アキタカ)お兄様。同腹の母を持つ、とてもお優しい方だ。 「ああ、嬉しい! いつお帰りになったの? お着きになったならすぐに、お知らせくださればいいのに。直接部屋まで訪ねてくれても良かったのよ」 嫌だわ、兄上。こんな風に驚かせるなんて。そう思いつつも嬉しくて、ついついお行儀が崩れてしまう。 「こら、貴子。皆様の前で失礼だよ」 優しいお声でたしなめられてハッとする。ああ、そうだった。今宵は特別なお客様をお迎えしているんだっけ。もうすっかり忘れていたわ。だって、襖を開けたとたんにお兄様がいらっしゃるんだもの。 「急なことだったので、連絡が出来なくて悪かった。でも仕方ないんだ、今夜はお務めでこちらに来ることになったんだから。正月明けだからと言って、まとまった休暇をいただいた訳ではないんだよ」 ……え? それって、どういうこと? その言葉の意味が全く分からずにいる私に、兄上はさらに説明してくれる。でもその声は、周囲の賑やかさにかき消されるほどの小さなものだった。まるでわざと内緒話にしてるみたいに。 「今日は若様のお供でこちらに参ったんだ。ほらあちら、一番上座をごらん。……あ、そんなにじっと見ちゃ駄目だって、失礼だよ―― 」 そうは言われても。 もしもこの状況で、何事もなかったかのようにするりと視線をそらす方法があるなら教えて欲しい。だって一番奥の、さらにひときわ立派な敷物の上にお座りになる貴人は……もう想像を絶するくらいのお美しさだったのだから。 「ええと……その、『若様』と仰ると……」 いつになくもったいぶった兄上の物言いに、ついつい聞き返してしまう。すると、彼は即座に自分の口元に指を当てた。その上で、私をもっとお寄りと手招きする。 「いけないよ、この場でご身分を明かすことは出来ないんだ。急なこととはいえ、我が家などにお招きして良い御方ではない。下々の者に知れたら、大変なことになってしまうからね」 ―― あの御方は、御領主様のご子息・鴻羽(コウウ)様だよ。 こっそりと耳元で囁かれた言葉が、わずかな間合いを置いて胸の奥に落ちてくる。丁度同じ頃、上座にいた貴人がこの上なく優雅な身のこなしで、席をお立ちになる。どうしてあそこまで完璧に隙のない動きが出来るのかしら。その指先の動きつま先の運び、わずかな微動までが鈴の音の如く辺りの気を揺らしていく。 今まで「都帰りの」という肩書きを持つ官人には飽きるほどお目に掛かってきた。だけど、その者たちのいずれも彼の足下にすら及ばない。そうか、御領主様の御血筋と言うだけであんなにすごいんだ。じゃあ大臣様とか王族の方とかさらに上のご身分となったら、一体どんな風になっちゃうんだろう。 「おい、暁高」 気付けば、私たちのすぐ背後に跡目の長兄が立っていた。何しろ目のくらむほどの貴人のお側にいるから、ただ人の彼なんて可哀想なくらい存在感がなくなっている。 「若様が、そろそろお休みになりたいと仰っている。私はすぐにお部屋の準備を確認してくるから、それまで表の間にてお相手を頼む」 慌てて部屋を飛び出していくけど、かなり焦っているご様子。右手と右足が一緒に出ていること、多分お気づきじゃないと思う。 「貴子、お前も来なさい」 暁高兄上に促されて、私も席を立つ。またとない機会の到来に自分でも浮き足立っているのが分かった。でも、ここでみっともない姿を晒してはおしまいよ。そう肝に銘じて、とりあえず足運びだけは間違えないように意識を集中した。
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