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「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 そこに広がるのは、生まれて初めて見る「夢現(ゆめうつつ)」の世界であった。

 細心の注意を保って扱わなければと幼心にも分かるほどの丁重な造りの巻物は、優美な細紐を解き広げると一枚の長い長い錦絵になった。大広間の端から端までの長さもありそうな上質の和紙に天から見下ろしたような構図で描かれているのは、遠き都の風景。繊細な筆遣いで生き生きと表現される人々の姿は今にも動き出しそうで、先ほどと位置が変わっていないか何度も確かめてしまう。
  中でも一番のお気に入りは、「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」という独特の手法で描かれた竜王様の御館内部の様子。屋根や天井などを取り払ってしまったような描写方法はそこに暮らす人々の生活ぶりを余すことなく教えてくれる。繊細に彫り込まれた柱や調度品、どれをとってもこの世のものとは思えぬほどの素晴らしさであった。

 いつの頃、どこの誰にもらった品であったかは定かではない。だが、日がな一日寝所の奥に籠もったままで飽きもせずに見入っていると、次第に自分自身までが錦絵の中に入り込んでいるような気分になっていった。普段の生活では縁のないきらびやかな装束、いつか自分にもこんな衣をまとう日が来るに違いない。何も知らぬ頃の私はそう信じて疑うこともなかった。

 

◆◆◆


  西南の集落、その中でもここは特に恵み多く豊潤な地と言われていた。今の御領主は雷史様と仰る。人望厚く畏れ多くも都の竜王様とも懇意にしているという方で、若き頃は治めている領地の娘たち全てを虜にしていたとか下世話な噂もあるほど。
  もちろん私などがおいそれとお目に掛かる機会などある訳もないが、実際に領主の館に上がったことのある父や兄たちの話からその噂がそう外れたものでないことは知っていた。

 その領地でも西方の外れに位置する場所に我が父の館はある。遠く美しい連峰を臨み、周囲は見渡す限り畑と田んぼばかり。そんな中に忽然と現れる場違いな建物は西への街道を行く旅人たちの度肝を抜くに十分な代物であった。
  贅沢の限りを尽くした外装。屋根瓦は遠く南峰の地からわざわざ取り寄せた土で焼かれたもので、天の輝きがひときわ眩しくなる昼間には目がくらむよう。とても凝視できるものではない。しかも敷地内には所狭しと季節の花が植えられ、手入れした先から新しい枝が突き出すので家人が庭歩きをするのも大変なほどだ。
  何代か前の家主がすぐ側を流れる河の水門の鍵を預かったことが始まりで、さらに商才のあったご先祖が船を使う荷運びの仕事を始めたらしい。お陰で今では地方豪族と呼ばれるのが当たり前になった。貴族の称号も持たぬ庶民としては、この上ない身の上だと思う。
  河の使用料を地主様にお支払いしても、まだまだ使い道に困るほどの銭が残る。父の代になってからも、屋敷の裏手には大きな倉がいくつも増えた。

 そんな家に生まれたのが幸い。私は幼い頃から住む場所はもちろん、食うものにも着るものにも不自由した記憶がない。欲しいと思えば大抵のものは手に入れることが出来たし、気軽な身の上故で野歩きなども比較的自由に出来た。身分のある姫君などは年少の頃から人目に付かない奥の対などに押し込められていると聞くから、それに比べたらどれだけマシか知れない。
  私の母は父の三人目の妻。前の奥さんが亡くなって後釜に座ったって奴ね。もちろん贅の限りを尽くし我が世を楽しむことを生き甲斐としている父には、決まった妻の他にも幾人かの側女(そばめ)を常時侍らせていた。だから末娘である私には、両手両足を使わないと数え切れないほどの兄君姉君がいる。
  すでに長兄が跡目についていた。他の兄姉も独立したりお嫁に行ったりして未だ独り身で残っているのは女子では私だけ。まあ昨春に裳着を迎えてようやく大人になったばかりだし、当然と言えば当然よね。父はあれこれと婿殿の品定めをしているみたいだけど、私自身としてはまだ当分はのんびりしていたい。

 それに……私には「野望」があるんだもの。姉君たちみたいに、父の見栄っ張りな性格を満足させるため名ばかりの貧乏貴族の家に大人しく嫁ぐなんてまっぴら。まあ、思っていても口に出して周囲に知らしめるような馬鹿はしないけど。私はこう見えて、それなりに賢い女子(おなご)なのよ。

 

「……まあっ、お嬢様! 何ですか、お行儀が悪い!」

 目の前の障子戸が荒々しく開け放たれ、そこに仁王立ちの侍女が現れた。目をつり上げて重そうな巨体を揺する姿は、さながら鬼のよう。小菊という可憐な名前からは到底想像できない有様だ。

「もう昼餉も近いというのに、まだお召し替えもお済みでないとはどういうことです。いつまでもそのように寝着(やぎ)のままごろごろと寝そべって、およそ年頃の女子様のなさることではありませんね。さあ早くお支度なさいませ、本日は昼餉の後に御髪を洗う予定でしょう。明後日にはまたお客様を招いての宴がございます、このたびはとくに念入りにお支度せよと御館様よりのお言葉です」

 取り散らかった机の上や衣装をしまった行李の辺りを乱暴に片付けていく彼女の姿も、あまり誉められたものではないと思う。それに、仮にも主である私の部屋にずかずかと乗り込んでくるその態度こそ「お行儀が悪い」と評されるのではないかしら。
  そうは思うが、賢明な私は決してこの侍女には逆らわない。下手に口答えするとその十倍は小言が戻ってくるのだ。それだけは絶対に避けたいと思う。

「あ、ちょっと待ってよ。まだ途中なんだから……」

 夢中で見入っていた大切な巻物までが彼女の手に掛かりそうになり、私は反射的にそう叫んでいた。
  全く、雅を知らぬ者はこれだから困る。絵巻物って言うのはね、長い画面の左から右へどんどん舞台を移しながら話が続いているものなの。すでに見終えた左から巻き取って、また右の巻きを開いていく。い草の香りも瑞々しい畳の上でそれを繰り返しているのが至福の時なのよ。途中で取り上げないで欲しいわ。

「何を仰るのです、いい加減になさいませっ!」

 それなのに、強情な侍女は私の希望をぴしゃりとはねのける。本当に失礼しちゃう、冗談じゃないわ。

「ほらほら、お前たちも急ぎなさい。無駄口を叩くなら後でも出来るでしょう、全く気の利かない者ばかりが集って仕方ないこと……!」

 いつの間に控えていたのだろう、五六人の年若い侍女が表から騒々しく立ち入ってくる。皆近隣の村々から集まった垢抜けない者ばかり。表向きは「行儀見習い」とか言って、その実は父上や跡目に決まった兄上のお手つきになることを希望しているのは丸わかり。その証拠に、どいつもこいつも浅ましい面構えの奴らだ。

「ささ、貴子様。お急ぎくださいませ」

 あー、面倒。正月明けで天候の安定しない寒空の頃に、何でわざわざ髪を洗わなくてはならないのかしら。なかなか乾かなくてイライラするのは目に見えてるのに。

 父上のお客? ああ、また元はどこぞの官僚だったとか言う中年男に決まってるわ。しかも暴飲暴食がたたって袴の帯も結べなくなったようなでっぷりお腹のおじさんばかり。ひどいと私よりも歳のいった子供がいると言われたりする。
「是非息子の嫁に」なんて、口ばっか。あれは絶対自分の後添えにしてやろうって魂胆ね。父上も父上よ。同じ家に輿入れするなら相手が父親でも息子でもどっちでもいいって考えてるんだから、本当にひどすぎる。まあそれも亡き母上似のこの美貌が災いしてるってことね。

 何だかんだと騒がしい、落ち着かないばかりの毎日。でもそのときの私はまだ、一発逆転の可能性は十分あり得ると考えていた。どうしてそんな自信が持てるのか、その根拠も説明できないけど。とにかく絶対に大丈夫って信じてた。

 うん、きっといつか。夢は必ず叶う。

 

◆◆◆


「え、方違えのお客様?」

 その日の夕刻のこと。急な知らせを耳にしたときの私は、四方八方を侍女に取り囲まれ全く動けない状態だった。

 身丈に余る髪を洗うのって、本当に大変。侍女が五人も十人も集まって、それでも半日がかりの大仕事なの。板間に油紙を敷き詰めて、その上に髪をまっすぐに広げていく。上から見たら丁度扇が開いたように見えるでしょうね。
  まずは全体をしっとり濡らし、洗い粉を含ませた後にまた何度も水通しをする。良く櫛を入れて乾かしてから、最後に香油をたっぷり塗り込む。その間、私はずっと同じ姿勢を崩すことが出来ないの。

  別にお姫様みたいにここまで髪を長くする必要はないと思うのね、正直なとこ邪魔なだけだし。だけど、父上がどうしてもとこれ以上に短くすることを許してくれない。これって絶対に男の勝手なエゴに付き合わされてるのよね。ああ、可哀想な私。
  確かに私の髪は艶やかでとても美しい。実の母上もここまでは素晴らしくなかったし、父上に至ってはすでに髪がかつてどこに生えていたのかも想像できない有様だけどね。西南の民特有の赤毛、燃えるような輝きの中に妖しげな紫が混じる。でも、ここまで長いと手入れが大変なんだもの。朝夕に侍女に梳いて貰うだけでも一苦労、時間が掛かりすぎて肩こりがひどくなる。

「ええそれが、ただのお客様ではないご様子。早馬の知らせを受けて、御館様もいつになく慌てていると向こう対の侍女が教えてくれました。まだ詳しいことは分かりませんが、楽しみですね〜お嬢様っ!」

 話を伝えてくれたのは私と変わらない年齢の木の葉という侍女。先ほどの口うるさい小菊はいつの間にか部屋から姿を消していた。若い者ばかりになった気安さで、部屋の中は一気に盛り上がってくる。

「一体どのようなご身分の御方でしょう? きっとお付きの方も幾人かおられるに違いないわ。ああ、どうしよう。間違ってお声など掛けられたら、何と応えたらよいのやら……!」
「貴子様は必ず客間にご挨拶に上がることになるでしょうね。御衣装はどうなさいましょう、やはりここはぱっと華やかな方がお客様の印象に強く残りますよ。茜と藤紫とどちらにいたしましょうか。ああ、面倒。いっそのこと二枚とも重ねてしまいます? 確か重ねる衣の枚数が多ければ多いほど正装になるんでしたよね」

 皆、明らかに混乱している。衣を多く重ねるのが正装? 確かにそうかも知れないが、その場合は間違っても分厚い上掛けを二枚一緒に着込んでは駄目だと思う。妙に肉付き良く見えてしまうだろうし、実際歩きにくいし。私はただ奥の間に一日中かしこまっていればいいお姫様とは違うのよ。ああいう方々は箸よりも重いものを持たないとか言うじゃない。一緒にされちゃ、たまらないわ。
  まあ、どんな理由であれ特別なお客様がお出でになるのは嬉しい。きっと、今夜は夕餉の膳がとても豪華なものになるのだろう。私の好物も献立に入っているかしら? 川エビの唐揚げとか、出てくるといいな。あれ、粗塩をちょっと付けて食べると美味しいのよね。

 方違えっていうのはね、自分の向かうべき方角が凶であると出た場合にいったん別の道を進んで災いを避けることらしい。場合によっては、予定外の場所に一夜の宿を借りることもあるとか。だけど、誰彼構わずそんなことをするはずもない。少なくとも、我が父上のレベルではあり得ないわね。ここまで回りくどいことをするのはかなりのご身分がある方に決まってる。
  それくらいのことは新入りの侍女だって心得てるから、皆が浮かれたり色めき立ったりするのは当然のこと。相当の地位にあるご主人ならば、お連れするお供の方だって超一流。そして何故か、そう言う身の上の人たちって賢い上に見目かたちまで整っていることがお約束なのね。

 ……ふうん、これはちょっと期待しちゃっていいかな。

 私は仮にも館主の娘。軽々しくおしゃべりに興じている下々の者たちとは立場が違う。自分の気持ちをわざわざ表に出したりはしないわ。そうは言っても、ここまでの幸運はなかなか訪れない片田舎。ようやく一人前と認められて客席にも出られるようになったんだもの、この機会を逃す手はないでしょ?

 

◆◆◆


 侍女たちが寄ってたかって飾り立ててくれるので、今宵の身支度はいつになく暇が取れた。
  もっと紅を上に重ねたいと言う手を振りのけてようやくお客様をお迎えした館中央の広間に辿り着いたときには、もう宴もだいぶ進んでしまっていたみたい。楽しそうな笑い声が、渡りの向こうまで響いている。

「やあ、貴子」

 入り口で正座して、深く一礼する。膝頭の前に付く手はきちんと指を揃えて、髪が頬に掛かっても決してかき上げない。そして再び面(おもて)を上げたとき、私の目に映ったのは意外な人物だった。

「まあ、お兄様! お帰りなさいませ!」

 驚きのあまり、思わず高い声を上げてしまったのも仕方ない。部屋を入ってすぐ、一番下座で私を待っていてくれたのは暁高(アキタカ)お兄様。同腹の母を持つ、とてもお優しい方だ。
  元服を機に縁あって御領主様の御館にお仕えすることになり、最近ではお忙しいのか年に幾度もお戻りにならない。折に触れて文などは送っているが、その返事も途切れがちになっている。新年の宴にも顔を見せてくれず、とても寂しく思っていた。

「ああ、嬉しい! いつお帰りになったの? お着きになったならすぐに、お知らせくださればいいのに。直接部屋まで訪ねてくれても良かったのよ」

 嫌だわ、兄上。こんな風に驚かせるなんて。そう思いつつも嬉しくて、ついついお行儀が崩れてしまう。

「こら、貴子。皆様の前で失礼だよ」

 優しいお声でたしなめられてハッとする。ああ、そうだった。今宵は特別なお客様をお迎えしているんだっけ。もうすっかり忘れていたわ。だって、襖を開けたとたんにお兄様がいらっしゃるんだもの。

「急なことだったので、連絡が出来なくて悪かった。でも仕方ないんだ、今夜はお務めでこちらに来ることになったんだから。正月明けだからと言って、まとまった休暇をいただいた訳ではないんだよ」

 ……え? それって、どういうこと?

 その言葉の意味が全く分からずにいる私に、兄上はさらに説明してくれる。でもその声は、周囲の賑やかさにかき消されるほどの小さなものだった。まるでわざと内緒話にしてるみたいに。

「今日は若様のお供でこちらに参ったんだ。ほらあちら、一番上座をごらん。……あ、そんなにじっと見ちゃ駄目だって、失礼だよ―― 」

 そうは言われても。

 もしもこの状況で、何事もなかったかのようにするりと視線をそらす方法があるなら教えて欲しい。だって一番奥の、さらにひときわ立派な敷物の上にお座りになる貴人は……もう想像を絶するくらいのお美しさだったのだから。
  お歳の頃は十五六、暁高お兄様と丁度同じくらいだろうか。艶やかな赤毛を後頭部の高い場所でひとくくりにして、褐色の肌と魅惑的な濃緑の瞳。ああ、もちろんその外見は西南の民に共通な至極当たり前のものよ。でも、すぐお側でうろたえつつお相手している父上や長兄とは全く違う品格が漂っている。
  さりげない野歩き仕様の装束も、およそ庶民の手には届かない素晴らしさ。色目も織りも一級品であることが、こんなに離れた場所からでも分かる。彼の背後には庭先でほころびかけたばかりの紅梅が活けられ、しなやかにその枝を伸ばしていた。だがその花のかぐわしさも、今は貴人の美しさを引き立てる一因にしかならない。
  立派な大人になった身の上で、殿方をじろじろと見つめるなんて良家の子女としてこの上なくはしたないこと。それはいつも教育係の侍女から耳にタコができるほど繰り返されている。だけど、やっぱり無理。見ちゃ駄目と思っても、そちらの方角ばかりが気になってしまう。

「ええと……その、『若様』と仰ると……」

 いつになくもったいぶった兄上の物言いに、ついつい聞き返してしまう。すると、彼は即座に自分の口元に指を当てた。その上で、私をもっとお寄りと手招きする。

「いけないよ、この場でご身分を明かすことは出来ないんだ。急なこととはいえ、我が家などにお招きして良い御方ではない。下々の者に知れたら、大変なことになってしまうからね」

 ―― あの御方は、御領主様のご子息・鴻羽(コウウ)様だよ。

 こっそりと耳元で囁かれた言葉が、わずかな間合いを置いて胸の奥に落ちてくる。丁度同じ頃、上座にいた貴人がこの上なく優雅な身のこなしで、席をお立ちになる。どうしてあそこまで完璧に隙のない動きが出来るのかしら。その指先の動きつま先の運び、わずかな微動までが鈴の音の如く辺りの気を揺らしていく。

 今まで「都帰りの」という肩書きを持つ官人には飽きるほどお目に掛かってきた。だけど、その者たちのいずれも彼の足下にすら及ばない。そうか、御領主様の御血筋と言うだけであんなにすごいんだ。じゃあ大臣様とか王族の方とかさらに上のご身分となったら、一体どんな風になっちゃうんだろう。

「おい、暁高」

 気付けば、私たちのすぐ背後に跡目の長兄が立っていた。何しろ目のくらむほどの貴人のお側にいるから、ただ人の彼なんて可哀想なくらい存在感がなくなっている。

「若様が、そろそろお休みになりたいと仰っている。私はすぐにお部屋の準備を確認してくるから、それまで表の間にてお相手を頼む」

 慌てて部屋を飛び出していくけど、かなり焦っているご様子。右手と右足が一緒に出ていること、多分お気づきじゃないと思う。

「貴子、お前も来なさい」

 暁高兄上に促されて、私も席を立つ。またとない機会の到来に自分でも浮き足立っているのが分かった。でも、ここでみっともない姿を晒してはおしまいよ。そう肝に銘じて、とりあえず足運びだけは間違えないように意識を集中した。

 

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