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「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 好色で知られたご隠居殿から家督を継いだ今の御領主様は、御父上とは一転して西南の集落一の愛妻家と評されている。もちろんこの肩書きは、ある者にとっては「栄誉」でありある者にとっては「不名誉」なものになるのだけれど。
  少なくとも女子の身としてはただひとりの妻として一心に愛してくれる夫君は永遠の憧れよね。その奥方様も御領主の雷史様に勝るとも劣らないお美しい方だと聞いているから、並々ならぬご執心も当然のことかな。おふたりの間には六人の御子がいらっしゃる。ご子息が三人に、ご息女も三人。綺麗に産み分けが出来ちゃってる辺りもすごいなあと思う。ただ人にはとてもなせぬ技だわ。

 

「君が暁高自慢の妹君か。噂はかねがね聞いているよ」

 ―― わ、動いた……!

 ほんの半日前まで、雅な世界と言うのは閉ざされた絵巻物の中限定で展開するものとばかり思っていた。しっかりと我が目で確認した光景が、それでもまだ信じられない。もしかして私、とうとう錦絵の中に迷い込んでしまったのではないかしら。これって小菊の小言を無視し続けた罰だったりする?

 柔らかい微笑みを崩さぬままに、薄紅の口元がほんの少しだけ動く。まさか紅を差しているわけでもあるまいに、どうしてあれほどまでにお美しいお色なのかしら。女人にも見まがうほどに整った面差しだから、それが少しも違和感なく思える。肘置きにもたれかかって、しどけなく姿勢を崩す様も全く見苦しく見えないのは何故だろう。
  暁高兄上が現在お仕えする主・鴻羽様は上におふたりの兄上がおられる御三男、御領主様には五番目の御子様になる。下にはもうおひとり妹君がいらっしゃるとか。とてもご立派な御方だと話には聞いていたけれど、まさかこれほどとは。
  特別のお客様だけをお通しする奥の間に続くこの部屋は、簡素な造りながらそこここに趣向が施された奥行き深い仕上がりになっている父自慢の逸品だ。柱の木目も節も緻密な計算の上で組み合わされたものばかり。それなのに輝く貴人を前にしては背後のしつらえなど全く霞んでしまっている。

「ま……あ、それは。お恥ずかしいばかりにございます」

 お行儀良く口元は扇で隠して、私はどこまでも奥ゆかしい女人を演じる。でも実際のところはそれ以上の言葉が全く思い浮かばないだけなのね。もっと気のきいた返答をしなければとは思うものの、頭は真っ白。口の中も乾ききっている。

「どうしたのでしょう。普段はうるさいくらい元気なのですが、やはり若様を前にしていささか気後れしている様子です。我が妹にもこのようなしおらしい一面があったとは……」

 やだ、兄上ってばいい加減にして。人の恥を晒すなんて性格悪すぎだわ。その上大袈裟に声を立ててお笑いになることないじゃない、主様もたいそうお困りのご様子よ。

「いや、驚くのも無理はないよ。このように前触れもなく訪れるのは大変失礼なことだからね。館の皆にも迷惑を掛けてすまなかった」

 貴人は兄上の言葉を真に受けるどころか、やんわりと諫めてくれる。へええ、やはり上に立つ方ってどこか違うわ。本当にすごいなあ。

 それからしばらくはおふたりで明日の予定などを話されていたので、私は黙ったままその成り行きを見守っていた。いつおいとまを申し上げたらいいのか、その頃合いをうかがいながら。殿方の携わる政(まつりごと)について、女子があれこれ意見するのははしたないことだもの。それに……難しい言葉が多すぎて実際のところよく分からないし。

 うーん、でもまだ信じられないな。これはただ昼餉の後のうたた寝が長引いているだけじゃないかしら。だって、ありっこないよ。兄上の話に相づちを打たれるその動きひとつにも優雅な舞いを見ているようでいちいち胸がときめいてしまうわ。絵巻物や物語に書かれている「たとえ」はあながち嘘じゃなかったのね。
  先ほどの宴の席で遠目にお姿を拝見したときには、少しでもお近づきになれたら嬉しいなとか軽々しいことを考えていた。だけど、私だって自分の身の程くらいちゃんとわきまえてる。満足な受け答えも出来ない有様ではそんなの夢のまた夢だってすでに悟ってる。前もって心づもりがあればまだ良かったけど、何しろいきなり過ぎるもの。

 ご挨拶を申し上げただけで、もう胸がいっぱい。ここは下手に気負って恥をかくよりも、大人しく遠巻きに眺めていよう。これぞ「眼福」って奴だわ。うーん、至福のひとときね。

「ほら貴子、そんな隅にいてどうする。いつまでも若様の盃を空にしていてはいけないよ」

 それなのに。たったひとりの妹の切なる祈りも知らず、兄上はさらに非情なことを仰る。え? ちょっと待って。ひとことご挨拶を申し上げたらそれでおしまいでなかったの? 無理よ、無理。こうしてお客様と一番離れた下座に控えているだけで、身体の震えが止まらないというのに。

「ほう……それは結構なもてなしだね。じゃあお願いしようかな?」

 やだ、冗談じゃない。若様までそのように仰らないで。

  正直なとこ言わせてもらうとね、酔っぱらいのお世話なんて面倒だもの、今までの宴席だってのらりくらりとかわしてまともに相手をしたことないの。そろそろ本腰を入れてお作法も覚えなくちゃとは思ってたけど、あれこれ言い訳して先送りにしてた。
  それにね、父上がお招きするお客様は皆私がかしこまってご挨拶申し上げるだけで「なんとお可愛らしい」と両手放しに褒めそやしてくださる。その上にお酌なんて強要する方はいなかったもの。もちろんこちらから進んでお側に上がりたい方ならそうして差し上げたでしょうけど、残念ながらそこまで心が動くことはなかったのよね。

 いままで怠けていた自分を今更後悔したって始まらない。せっかくの機会ではあるけれど、とても残念ではあるけれど、ぶっつけ本番はいくら何でも無理よ。あまりに相手が悪すぎる。

「早くこちらへ、……私はあちらの様子をうかがってくるからね。あとを頼むよ」

 お話が一段落したのだろう。兄上はそれだけ言い終えると、ご自分だけ裏手からさっさと退出されようとする。駄目駄目、そんなの絶対に止めて。涙目になって無言の訴えをするも、全く取り合ってはくれない。

「あのっ、……あにう―― 」

 最後までお名前を呼ぶことも出来なかった。

 

 何なの、このいきなりの展開。

 ああ、私ってこれからどうなっちゃうの……? お願い、誰かすぐにここに来て。私を助けてちょうだい……! にじり寄った鼻先でぴったりと閉ざされた襖。その向こうから聞こえてくるのは、今なお続く宴のさざめき。そこにいる皆が私の窮地に気付いてくれるはずもない。
  いくら何でも無謀よ、何の心得もない私が未だかつてお目に掛かったことのない高貴な御方のお相手が滞りなく出来る訳ないわ。兄上だって、ひどい。ちょっと考えたら分かりそうなものを。長いこと離れて暮らしていたから、私のこと買いかぶっているのかな。でもでも、身内びいきをこんなときに出さなくていいから……!

「ふふ」

 ―― と。

 どこからか忍び笑いのような声が聞こえてきた。そんなはずはない、一度は自分の空耳と信じそうになったけれど、同じ方向から今度は扇をぱたんと閉じる音がする。

「……え?」

 違う、何かの間違いだ。そうは思ったものの、ついつい後ろを振り返る。ああ、無駄に重ねすぎた衣が邪魔で自由に身体を動かすのも難しい。

「どうしたの、先ほどの暁高の言葉が聞こえなかった? もしかしてこの家はお客に手酌をさせるのが流儀なのかな。田舎のしきたりって、変わってるね」 

 ぴりっと尖った声が、頬をかすめていく。いいえ、違うわ。このような物言いをする御方はこの部屋にはいないはず。だって、兄上が退出された今ここにいるのは……。

「……」

 慣れない装いに動きを邪魔されながら、ようやくきっちり向き直ることが出来た。普段の二倍も三倍も豪勢に並べられた燭台、いささか大袈裟すぎる飴色の輝きの向こうで台座に姿勢を崩す御方。だけど……そのお姿は、つい今し方まで拝見していたものとは確かにどこか違っていた。

「僕の顔に何か付いてる? 嫌だなあ、そんなあからさまな視線を向けられたらこっちが恥ずかしいよ」

 そうしてまた、わざとらしく口元を扇で隠すとクククッと笑いを噛みしめてる。その……もしかして。ううんもしかしなくても私、馬鹿にされてるの?

「いっ……いえっ! 申し訳ございませんっ!」

 はじかれるように立ち上がり、一気に上座に進み出る。うわ、どうしよう。作法がなってないとばれてしまったかしら? ううん、でもまだ大丈夫。そ、そうよ、お酌でしょ? 分かったわよ、よく分からないけどとにかくやりゃあいいんでしょう……!

「ど、どうぞ」

 慌てて目に付いたとっくりを手にして、差し出された盃の方へと口を傾ける。両手を添えて、安定させて。うんうん、確かこんな感じだったよな。
  どうにかかたちになって、ホッと胸をなで下ろす。よしよし、これで第一関門突破だわ。そう思ったのもつかの間。

 ……あれ?

 どうしてなかなかお酒が出てこないのかしら。確かに中身の入っている手応えを感じるのに、これってどういうこと……!?

 水平になるまで持ち上げて、それでも駄目だから底の方をさらに上に傾けて……とうとう注ぎ口を下に真っ逆さまにしたところで、目の前の盃がふっと消えた。慌ててその後を追うと、遙か向こう部屋の中央の辺りに転がっている。若様の手から投げ捨てられたのだと言うことはすぐに分かった。

「何やってるの? 全く付き合ってられないな」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、彼は私の手から乱暴にとっくりを取り上げる。

「君、本当にやる気あるの? あーあ、だから嫌だったんだよ。勘違い成金ご自慢の田舎御殿に方違えなんて冗談じゃない。呆れてものも言えないってこのことだね、今からでも他をさがそうかなあ。その辺の安宿の方がよっほど気のきいたもてなしをしてくれるんじゃない?」

 ちらっと、斜に構えたまま向けられる蔑みの視線。刹那、自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。でも、言い返せない。悪いのは私だもの。
  けど、一体どうなっちゃってるの? 宴の席や兄上の前では申し分のない御方だったのに、ふたりきりになった途端にここまで豹変するなんて。

「暁高はどこ? すぐに呼んできてよ。酒の相手も出来ないへっぴり腰にでも、それくらいは出来るよね?」

 ―― まずい、それだけは駄目っ! 良い手だても思いつかぬまま、私は血相を変えて面(おもて)を上げていた。

「おっ、お待ちくださいませっ! お怒りはごもっともですが、どうかこの場は穏便にお納めいただけませんか? そのっ、私に出来ることだったら何でも致します。ですから―― 」

 な、何よこの人。たかがお酌ひとつ失敗しただけで、ここまで言うことないじゃない。やだ、この先どうなっちゃうの? 下手したら、本当に暁高兄上が御領主様の御館を追い出されちゃったり。いいえ、それだけじゃなくて。河行商をする権利まで取り上げられたりしたら大変よ。

 正直なところ腹立ち半分ではあったけど、必死に畳に額を押しつけていた。こんなに頭を下げるのは生まれて初めて。だけどもう、ここは拝み倒すしかないもの。御領主様のご子息っていったら、ただ人の私にとっては雲の上の御方。どうあがいたって太刀打ちできる相手ではないわ。

 ―― ぱたん。

 ひれ伏した頭上で、再び扇が閉じた。

「馬鹿」

 その言葉と共に、後頭部を思い切り叩かれた。もちろんしなやかな扇が相手だからそれほど痛みもないけど、かなり派手な音がしたのだけは確かね。

「君って、本当に使えないね。暁高の話だと、行儀見習いに父上の館への出仕を願い出ているんだって? やめとけ、やめとけ。お父上や暁高がいい笑いものになるだけだぞ」

 ……。

 そこまで話が伝わっていたのか。口惜しい、だけど言い返せない。面(おもて)も上げられないままで、隠しきれない怒りが指先を震わせる。その先端に、何か固いものが触れた。

「ほら、よく見ろ」

 促されるままに顔を上げる。鼻先に近づけられたのは先ほどの不思議なとっくり。

「君ね、最初にこれくらい確認しろよ。それとも何? 僕があまりに素晴らしくて、舞い上がっちゃったのかな。まあ無理もないね、ひなびた田舎で一生を終える身ではこんな機会二度とないだろうし」

 なっ、……何っ、これ―― !?

「嫌になっちゃうよなあ、当たり前の冗談も通じないんだから。君ってよっぽど甘やかされて育ったでしょう? 僕は父上や兄上の名代で領地の方々に出掛けているけど、ここよりもっと山奥の村娘だって君よりはずっと気が利いてるよ」 

 とっくりの口、きゅっと狭くなった部分に隙間なく詰め物がされている。多分、ご自分の懐紙を使ったのだろう。これじゃあいくら頑張っても中身が出てこないのは当然だわ。でもいつの間に? ……何のために? あまりの仕打ちに堪えきれない憤りが表情に表れてしまったのだろう、目の前の貴人の眉がぴくりと動く。

「あのね、こんなの上流階級の酒の席では当たり前に行われていることだよ。出仕したての侍女だって、それくらい当然知ってる。あーあ、暁高の妹ならもうちょっとはマシな女子が出てくると思ったのに」

 どうしてここまで辱められないといけないの? ひどい、ひどすぎる。そりゃ、作法も何も分かってなかったこっちにも落ち度があるでしょうよ。でもまだ何も習ってない段階なんだから仕方ないわ。

「……兄を、呼んで参ります」

 口惜しい、口惜しい。だけど、今は応酬できる何も持ち合わせていない。やっぱり、上流階級なんて底意地の悪い奴らばっかりなのね。上っ面一枚を飾ったって、腹の中真っ黒じゃない。
  私だってね、精一杯励んで一通りの教養を身につければ、そちらにお仕えしている侍女にも引けを取らないおもてなしが出来るわ。そうよ、今は無理でもいつか必ず。

 怒りにまかせて口を開かなかった自分を誉めてあげたい。もうどうにでもなれよ、こんな奴に嫌われたって痛くもかゆくもない。ううん、最初から願い下げよ。同じ気を吸っているだけで具合悪くなりそう。さようなら、もう二度とお目に掛かることもないでしょう。

「ふうん、逃げるの」

 襖に手を掛けたとき、背後から冷ややかな声が追いかけてきた。

「言い返す言葉のひとつも思い浮かばないってこと? 君って自尊心の欠片も持ち合わせてないのかな。それに今出て行ったらこの先どうなるのか想像付かない? 身内の将来も思いやれないようじゃおしまいだね」

 そして漏れる忍び笑い。もう、最高に蔑まれている。しかもそれをわざわざ知らしめるように、はっきりとした態度で示してくるんだ。
  出来ることなら、これ以上馬鹿にするんじゃないって怒鳴ってやりたかったわよ。でも、それが無理なことくらい分かるでしょ? 彼と私じゃもともとの身分が全然違う。それにちょっとやそっとやり返したところで、数倍返しされるのが関の山よ。おっとりした外見に似合わず、とんでもなく底意地悪そうだし。

 必死に引き結んだ口元、あまり強く唇を噛みしめたら少し血の味がする。下顎ががくがくして落ち着かない。それでもどうにかもう一度向き直って、性悪男を見上げた。

「ようやく自分の置かれた立場に気付いたかな?」

 何でこんなに悠然と構えているのかしら。この男にとっては、人を馬鹿にして貶めるのも「余興」のひとつだってこと? そうよね、領主という立場は世襲制。末代まで変わらない揺るぎない身の上だからこそ、ここまで非道になれるんだわ。
  でもこの先どうしろと言うの? 出て行けって言ったり、今出て行ったらおしまいだって言ったり……訳分からない。

「……おや」

 刹那、彼は何かに気付いたようだ。今の今までふんぞり返っていた姿勢を神業の速さで立て直し、元通りの雅な姿に戻る。

「一時休戦というところか。せっかく盛り上がってきたのに残念だな」

 男は手にした扇をぱらりと開いて口元を隠す。それと同時に、次の間への襖戸が静かに開いた。

 

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