その晩はなかなか寝付くことが出来なかった。 無理に瞼を閉じてみても、その裏側には私を蔑む憎々しい男の眼差しが冷ややかにかつ鮮明に浮かび上がってくる。何あいつ、本当に最低だわ。そりゃ、泣く子も黙る御領主様のご子息。田舎暮らしの成り上がり一族とじゃ立場が違うもの、あのくらいの横柄な態度も十分許される範疇だってことは分かっている。 だけど、何でそれが私限定なの? 宴席での完璧な態度はもとより。あの後、襖を開けて奥へと案内した侍女にもお迎えに上がった長兄や暁高兄上にもその上なく紳士的な対応をしてたじゃない。もう、信じられない。
明けて翌朝。 まだ庭木に露の残る刻限にお客人が出立されると侍女が伝えに来たけれど、頭が痛いとか理由を付けてお見送りはしなかった。それがせめてもの抵抗であったことがあちらに伝わったかどうかは怪しいところ。まあ、十中八九は無理でしょうね。お陰で暁高兄上にお別れを言えなかったじゃないの、それも全部あいつのせいだわ。ほんと腹立たしいってばありゃしない。 とりあえず衣だけは準備されたものに改めたものの、何をする気も起こらない。暇を持て余すままに、敷きっぱなしのしとねの上をあっちへごろごろこっちへごろごろしていた。いつもなら大好きな絵巻物も今日に限っては紐解く気にならないわ。だって、雅な情景を見れば嫌でもあの男を思い出すのだもの。そのうちにとろとろと寝入ってしまっていたらしい。 「……貴子」 不意に名前を呼ばれてハッとする。寝不足で頭がぼんやりしていたこともあり、一体どちらから声がしたのかもすぐには確認できなかった。きょろきょろと辺りを見渡していると、裏手の障子戸にゆらり人影が写る。 「暁高……お兄様?」 いくら寝起きとはいっても、大好きな兄上のお声を聞き違えることはない。でも、どうして? わざわざ裏から回る必要なんてないのに。大臣様の姫君でもあるまいし、兄妹の間で遠慮などいらないわ。 「うん、開けていいかな?」 遠慮がちにそう訊ねられたときには、もう自分で障子戸を開けていた。控えめに刈り込まれた裏庭を背に佇んでいらっしゃったのはやはり暁高兄上。昨日とは別の、でも高貴な御館にお仕えする侍従に相応しい美しい織りの御衣装をまとっていた。何事かと目を見開く私に、少し困った笑みを返される。 「駄目だよ、相手をきちんと確かめることもなく不用意に戸を開けては。貴子は相変わらずだな」 そうは言われても、またしばらくはお目にかかれないと思っていたお兄様の声がしたのだから仕方ないわ。信じられない幸運に抱きつきそうになるのをかろうじて堪えているだけでも誉めてちょうだい。 「もうとっくに主様と共に御出立されたと聞きましたが。如何されました?」 もしかして、私が具合が悪いという話を信じてこっそり戻ってきてくださったのかしら。ああ、やはりお優しいお兄様。それなのに主様があんなひどい方で本当に残念だわ。嬉しくてさらに縁の先まで進み出ると、その膝先に布包みが置かれた。これは私へのお見舞いの品? わあ、そこまでしていただいて申し訳ないな。 「駄目だよ」 早速包みの結び目に手を掛けようとして、優しい声に制される。何よ、もったいぶることもないでしょ? ちょっとだけ恨みがましい視線を投げかけると、兄上は静かに首を横に振った。 「残念ながら、これはお前へのものじゃないんだ。実は、私はこれから急ぎ領主様の元に戻らねばならない用事が出来てね、自らの手で届けることが出来なくなってとても困っているんだよ。それで……貴子にお使いを頼めないかなと思って」 目の前の美しい包みが自分のものにならないことはとても残念だったけど、それにも増して兄上のお言葉が不可解だった。それを素直にお訊ねする。 「でも、……お届け物ならば館の誰かに申しつければ良いでしょう」 何故、真っ先にその方法を思いつかないのかと不思議でならなかった。だって、そうでしょ? お届け物なんて、使用人の誰かに頼めば用が足りる。どうして私などに、それもこのように人目を避けてわざわざ託す必要があるのだろう。 「うん、普段ならばそれで良いのだけれどね。今回は少しばかり勝手が違うんだ、これは誰にでも頼める仕事じゃないのだよ」 奥歯に何かが挟まったような物言い、そこでもっと疑って掛からねばならなかったのだと思う。でも、他ならぬ暁高兄上のお言葉であれば従うほかにない。それに他の誰でもなくわざわざ私に託してくれるのよ、とても嬉しいことじゃない? 「承知いたしました。その……やはり供の者は連れない方が宜しいでしょうね?」 裳着を迎えてからと言うもの、周囲が何かと騒がしくなっていた。子供の頃は野歩きなど日常茶飯事だったのに、今では館の敷地から一歩でも外に出ようというものなら侍女が数名連れだって追いかけてくる。別にこんな田舎で物騒なことが起こるはずもないのに。今では事実上この館の女主人となった長兄の奥方などは、特に口やかましく私の行動にいちいち釘を刺して来るのだ。 「うん、くれぐれも気をつけて。でも貴子なら大丈夫だ、期待してるよ」
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立ち止まって、一息つく。脳天の遙か向こうに昼間の輝きがあり、私の足下に小さな影を作った。普段通りの格好で外に出たら、すぐに土地の者たちに見つかってしまう。それくらいは十分に心得ていたので、出来るだけ目立たない色目の衣をまとっていた。腰のところを幾重にも折り込んで裾を短くしたから、遠目には村娘にしか見えないだろう。普段はたらしたままにしている髪も、うなじの辺りで緩くまとめてある。
竹林に囲まれた小さな庵は、その昔どこかの高名な僧侶がひととき滞在するために建てられたものだと聞いている。無数の竹とその細い葉に守られた場所は昼間でも薄暗く、皆から気味悪がられていた。私も遠巻きに眺めたことはあるものの、中まで進むのは今日が初めてである。 「―― ごめんくださいませ」 ひんやりと時が止まったままの場所に、ひっそりと佇む茅葺きの庵。竹林の間の細道を抜けていくと、それは想像していたよりもずっと大きく立派な建物であった。大水が出ても大丈夫なように、かなり高床に造られている。支える柱も太く頑丈であった。ここに居着いたというどこぞの僧侶はとても財力のある御方だったのだろう。 どこが入り口なのかもすぐには分からず、私は建物の周囲を歩きながら幾度となく声を掛けた。どうしよう、もしかしたらお留守なのかしら? でも……大切なお届け物があると知っていながら出掛けたりしないだろう。必ずご本人に手渡しするようにと申しつかっているのだし。 「あの、……誰かいらっしゃいませんか?」 床が高く造られているために、縁も私の鼻先くらいの場所にある。このままでは必死の呼びかけも縁の下をむなしく通り過ぎていくだけではないだろうか。そう思って、備え付けの外階段を幾らか上がりその中程から今一度声を掛けた。南向きのその一角だけ、木戸が取り外されて障子が見えている。多分包みの受け取り主はこの場所におられるのだろうと判断した。 「あの―― ……」 その先の言葉を続けようと思ったときに、内側から微かな物音がした。その後、勢いよく障子戸が開く。 「やあ」 刹那。あまりの驚きに身体が大きく後ろに傾いた。良くそのまま足を滑らすことがなかったと、自分でも感心してしまうほどである。しばらくは次の声も出ず、呆然と立ちすくんでしまった。 「また会ったね、どうも君とは縁があるようだ」 薄い口端が意地悪く上向く。その角度まで計算し尽くされているように見えた。 「な、何故っ……! すでにこの地をお発ちになったものとばかり。家の者からもそう聞いておりましたが」 何で、コイツがこんな場所にいるの? いや、これは何かの間違いだから。絶対にあり得ない……! ふわり。 蝶の羽の翻る様で、貴人の手にした扇が空を切る。毒々しい心内を静かに覆い隠しながら、彼はどこまでも優美に微笑んだ。 「暁高から預かってきたものを早く渡してくれない? そんなところに突っ立ってないでお入りよ。それとも場末の習わしでは、兄上の主である僕を縁の縁まで呼び立てるのかな」
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何で私がこんなことまでしなくてはならないのか分からない。でもあれこれ指図されると、どうしても従わなくてはいけないような心地になるのだ。そのことが、さらに己の自尊心を逆なでする。湯を沸かすためにいろりに鉄瓶を乗せるとき、手元が恐ろしく震えていたのもそのせいだと思う。 ああ嫌だ、こんな再会を望んでなんていなかったわよ。 とっくに里を出て、本来のお住まいである御領主様の御館へと戻られたのだとばかり思っていた。だから安心しきっていたのよ、普通にしていたら一生涯二度とお目に掛からなくて良い御方だもの。後ろ足で砂を掛けて逃げ出さなかっただけでも偉いと誉めて欲しいわ。 「他の皆様は、どちらに行かれたのですか?」 もちろん、私の問いかけに対する説明なんて全くない。最初からそんな必要ないって思っているみたいだわ、ああ腹が立つ。 近頃では珍しい野歩きをしてきた私の苦労も知らず、人のことを顎で使う貴人はゆったりとした物腰で手元に届いた包みを改めている。花色の風呂敷の中から現れたのは想像した通り小振りな文箱であった。ちらと横目で見れば、それがかなり高価なものであることはすぐに分かる。漆塗りの艶やかな黒地の上に色とりどりの花々が描かれ、芳しい匂いが今にも漂ってきそうだ。 どれくらいの時間が経過したのだろう。かしこまって座っていたら、だんだん足が痺れてきた。だけどここでみっともなく姿勢を崩すわけにもいかないでしょう? もう、必死で我慢するしかない。 「あのさ」 その眼差しは書物に落とされたまま、目の前の男が短く問いかける。完璧に近い鼻筋からすっきりと無駄な肉のない顎に続く横顔。長くて綺麗なまつげが瞬きをするたびにふわりと揺れる。微かな唇の動きを感じ取った刹那、自分がずーっとその姿に釘付けになっていたことを知った。 「鉄瓶、煮立ってるみたいだけど」 わ、本当だ! すでに重い蓋も蒸気で持ち上がるほどになっている。しなやかな曲線が描かれた注ぎ口の先から、今にも湯が溢れ出しそうだ。このままでいたら、火鉢の炭に落ちて部屋中が煙りだらけになっちゃうわ。 慌てて身を乗り出しかけて、ハッとしてもう一度座り直す。駄目よ、ここでみっともない姿を見せたら。また思慮の浅い女子だと笑われてしまう。そうよ、そう。鉄瓶の持ち手は今かなり熱くなってるもの、何か添えるものがなかったら火傷しちゃうわ。 「どうぞ」 両手を添えて差し出した湯飲み。小振りだけどどっしりした造りで、何とも言えない趣がある。灰青の優美な地にさりげなく描かれた桜の花びらが、新春を過ぎたばかりの時節に相応しい。 しばらくは低い姿勢を保っていたけれど、それにも限界が来る。相手の反応が全くないことを訝しく思いながらゆっくりと頭を上げていくと、やがてこちらを横目で見ている視線とぶつかった。 「ありがとう」 一応そう言ってくれたけど、あの扇に隠された口元は絶対に笑ってるわ。本当、何がそんなに可笑しいのだろう。訳分からないわ、コイツ。柔らかい冬の陽が障子越しに彼の上に落ちて、燃えるような赤毛も褐色の肌もそれはそれは美しい。口惜しいけど、認めるわよ。ええ、認めればいいんでしょう。 その後、再び沈黙が流れる。幾らかの時を過ごした後で、口を開いたのは私の方だった。 「あの」 そこまで言い掛けて、正座した足を後ろで上下に軽く動かしてみた。痺れもだいぶなくなっていてホッとする。だって、立ち上がった途端に力が入らなくて転んだりしたら、また笑われてしまうもの。 「では、私はそろそろ……」 すでにお役目は済んだのだ。家人に何も告げずこっそりと抜け出してきた身であるし、早いところお暇(いとま)をした方がいいと思う。そう言う気持ちをぼそぼそと濁した部分に込めたつもりであったが、きちんと分かってくださっただろうか。はっきり申し上げたいのはやまやまであるけれど、女子があまりあけすけに物言いをするのは下品なことだと常日頃言われているし。 「もうすぐ区切りが付くから、自分の分の茶でもいれて飲んでいて。少しくらい待てるでしょう?」 駄目だ、全く伝わっていない。絶望的な気分に陥りながらも、いつの間にか言われるままに茶道具を手にしていた。匂い立つ豊潤な香り、最高に心が動くもののそれ以上の気持ちで一瞬でも早くこの場を去りたい。 一応湯飲みは手に取ったものの、それを口元まで運んで味わうことは出来なかった。じりじりと地を這う気分で待つことしばらく、ようやく彼が書物から顔を上げる。 「さて、と」 その眼差しが自分に向けられると感じた瞬間、ささっと視線を青畳の上に移していた。静寂の湖の如く美しい濃緑の瞳、西南の民に囲まれて暮らす毎日の中で見慣れているはずの色なのに特別のものに思える。見てくれは確かに申し分ない、口惜しいけどそれは認めるわ。でも……それは残念ながらうわべだけのもの。ついつい魅せられて馬鹿を見るのだけはご遠慮したい。 そんな私の心内を知ってか知らずか、貴人はまろやかな溜息を落とした。 「暁高には感謝しなくてはならないな、短時間でここまでのものを集めるのはさぞ難儀なことだったであろう。お陰で無駄な手間が省けた、やはり僕が見込んだだけのことはある男だ」 あ、兄上のことが誉められている。いくら憎らしい相手の口から出た言葉でも、その賞賛は素直に嬉しかった。口元がちょっとだけほころんでしまったけど、これだけ俯いていれば知られずに済むだろう。 「そして、結果的に僕はしばらくこの地に滞在することになってしまった。その旨、今から父宛に書状をしたためるから文使いに渡してくれるかな? もちろん差し出し元が僕であることを悟られないようにね」 ……? 話の内容が全く分からない。 思わず、禁を破って面(おもて)を上げてしまった。すぐ目の前に、嘲る笑みがあることを知りながら。そしてやはり、男の目には私を挑発するような色が浮かんでいた。 「跡目である兄からこの地を詳しく調べるようにと言われてね。数年来に渡り河行商についての悪い噂が絶えない、一度はっきりとさせた方が良いとのお達しなんだ。だけど、暁高は偉いよな。数ある河商人の中でももっとも手広い商いをしている自分の実家が疑惑の中心に置かれていることは承知の上で、門外不出の帳簿を渡してくれるのだから。下手をしたら自分の身も危なくなると言うのにね」 さっと顔から血の気が引いていく、それが自分でもはっきり分かった。 「こういう調査は内密に進めなくてはならないことぐらい分かるよね? あいにく急なことで、身の回りのことをしてくれる者たちもすぐには来られない。当座は君にも協力してもらうことになるから、そのつもりで。まさか君だって、大好きな兄上を裏切るようなことは出来ないはずだよね」
刹那、ふたりの間にはっきりとした境界線が引かれていく。こちらの返事など聞く必要もないと思っているのだろう、上座に佇む勝ち誇った笑みがそれを示していた。
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