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「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

「……な……」

 こちらの言い分など全く考慮されていない、一方的な命令口調。どうにか口を開こうとしたものの、半開きの唇から漏れるのはほとんどがかすれた息だけだった。

 ええと、もしかして。ううん、もしかしなくても。私の家は今、ものすごくヤバイ状況下に置かれているのかしら? 何よ、内密な調査って。父上に限って、不正なんて絶対にあり得ないから。そりゃ、余所と比べたら銭はたくさん儲けてるかも知れない。でもそれは、頭を使って身体を使って人を使って昼夜努力しているからよ。
  分かってる、絶対大丈夫だって頭では信じてる。だけど、こんな風に目の前で威圧的な態度を取られたらどうしたって動揺しちゃうでしょう? 別にこっちに後ろ暗いことがある訳じゃないのよ。だいたい、父上の商いのことなんて女子の私が詳しく知るはずもないわ。そういうのは男衆の領域だって言われてるもの。

「何だか、納得していない様子だね。僕の話はそんなに分かりにくかったかな?」

 相変わらず口元は優美に扇でお隠しになっているものの、下座にいる私を思いきり蔑んでいるのは明らか。すぐにでも忍び笑いが漏れ出でてきそうだ。

 招き入れられた庵の一室は、何気なさを装いつつも奥行きの深さを見せつけられるしつらえになっていた。茶室ほどの広さしかないし、用意された道具類もざっと見た感じはそう珍しくはないありきたりのものばかり。でも無造作に置かれただけに見えるそれらが互いに共鳴し合い、結果としてこの世にふたつとない素晴らしい空間を創り上げているのだ。
  低い位置を回っていく冬の陽が、畳に柔らかく陰影を付けていく。それすらも設計の段階で計算し尽くされた上で現れる美しさであることに間違いはない。多分、他の季節に訪れればまた違った趣を感じ取ることが出来るのだろう。

「……ええと、その……」

 言い返さなくちゃ、何か考えなくちゃとは思うけど、頭の中は情けないくらい真っ白。あまりの驚きに思考回路が全て吹っ飛んでしまった気分よ。
  兄上の馬鹿! 元はと言えば、こんな厄介なお使いを頼んだ暁高兄上が全部悪い。だってだって、ここで「はい」とお返事したら私は実家の皆を欺くことになってしまう。かといって「いいえ」と言ったら、大好きな兄上を裏切ることになるの? ああっ、もう! どうしたらいいのやら。

「普段からこのように、こそこそ隠れて嗅ぎ回っていらっしゃるのですか? 仮にも御領主様の一族の御方であれば、正面から堂々と臨めばいいじゃないですか。その方がずっと潔いですよ」

 そして。

 混乱状態の極みで思わず口をついて出てきたのは、自分でも「そこまで言うか」と突っ込んでしまいたくなる失言であった。だけど一度申し上げてしまった言葉を訂正することなんて出来ない。もう、なるようになれって感じで目前の男を睨み返した。ごめんなさい、兄上。これであなたの首が跡形もなく一気に飛んでしまうかも。
  でもでも、配慮に欠けた言葉ではあったにせよ、私は間違ったことを言った訳ではないと思う。皆から崇め奉られる身分にありながら、人の裏をかくような行動をするとは全くいただけないわ。領民に対する冒涜よ、はっきり言って。以前から当然のことのように行われていたのだとしたら、今までの崇高な印象も崩れ去ってしまう。そういうの、人でなしって言うのよ。

「―― 言いたいのはそれだけ?」

 私を包み込む気が、瞬時に氷点下まで落ち込んだ。必死で自分を奮い立たせようとしていた気力がもろくも崩れ去る。同じことなら大声で罵倒された方がどんなにましか知れない。もう口の中はからから、喉の奥まで干上がってきそう。

「あのね、良く考えてご覧よ。もしもこちらがきちんとした手順を踏んだ上で調査に乗り出して行けば、標的になったと知った相手は慌てて証拠隠滅に掛かるだろう。時間と手間を掛けているうちに情報は必ず漏れていくものなのだよ、自分が不正をしたと分かっている奴らはむろん逃げ足だって早いんだ。それくらいのことも分からないなんて、呆れてものも言えないよ」

 言えないよ、って仰るわりには次々と言葉を重ねてくださっているけど。身を切るような冷たい声を響かせながら、その眼差しはこの上なく楽しそうに見える。何か言い返してご覧よ、って私を導いてるみたいに。

「ま、……まあ、そうかも知れませんが……」

 うーん、そう言う考え方もあったか。確かに腹の立つやり方ではあるけど、仰る理由も分からないではないな。きっと、何度も苦い経験をした上で編み出された方法なのかも。ああ、嫌だ。何で、こんなにすぐに言いくるめられているのよ、私。

「僕としても気の進まない仕事ではあるよ、でも兄上のご意向であればそれに従うしかあるまい。残念ながら、異を唱えられるような立場にないからね」

 自分は君よりもずっと思慮深いんだ、という言葉があとに続いているような気がする。どうしてこの人って、いちいちこちらが腹の立つような物言いしかしないんだろう。

「さ、左様でございますか。……しかし……」

 私に協力できることなんて、何もないわよ。考えてもごらんなさい、今まで家業のことには全く関わってなかったんだから。何か情報をくれと言われても、無理無理。今更父上やお仲間商人に立ち入ったことを訊ねたりすれば、それこそ不審に思われてたちどころにネズミのようにつまみ出されてしまうに決まってる。
  期待されたって、絶対に駄目だから。もちろん、今ここで見聞きしたことは暁高兄上の名誉にかけて秘密にしてあげる。だけど、私に出来るのはそこまでだから。

「今更、後戻りなんて出来るはずもないでしょう。僕の言っているのは命令だよ、領主の名代としてのね。君に判断を仰いでいる訳じゃないから」

 扇を開いたり閉じたり弄んでいるそのお手元からは、ただならぬ苛立ちが感じ取れる。きっと私がいつまでも快い返答をしないから、ご立腹なのだろう。

「じゃ、ともかく。一度君の部屋に戻って、昼餉の膳を持ってきてもらおうかな。たいした距離でもないし、それくらいのことは誰に教えられることでもないでしょう?」

「……は……?」

 何も言い返せる立場じゃないって言われてたのに、それでも聞き返しちゃったじゃない。それなのに、目の前の男はやっぱり涼しい表情のまま。信じられないことだけど、私の一挙一動をこの上なく楽しんでいるようにさえ見える。

「こっちは朝も早かったし、情けないほどに空き腹なんだよね。裏には炊事場もあるけど、飯炊きをするには材料の調達も必要だし煙が立てばここに隠れていることが分かってしまうから無理だ。幸い君の家からここまでは人目に付かない裏道を使えるし、食事の手配には丁度いいと思ったんだよね。あとは衣の手入れとか、掃除とか。僕が不自由なく過ごせるように取りはからってもらいたい」

 そこでひとつ咳払いをして、意味深な笑みをその眼差しに浮かべる。

「別に閨の相手まで頼むとは言わないよ。そっちの方では別段不自由を感じていないのでね。……ま、君がどうしてもと泣いて頼むなら考えてみないこともないけれど」

 にわかに自分の頬に赤みが差したのが、鏡に映して確かめるまでもなく分かった。そしてこれは「恥じらい」ではなくて「怒り」の感情から出たものであることに間違いない。く、口惜しい。何でここまで馬鹿にされなきゃならないの。何で私が断るはずないって決めつけているのだろう、そんな権利がコイツにあるわけないじゃない。

「あの、そのようなお話であれば、やはりきちんと教育された方を雇われた方が宜しいかと存じます。大変申し訳ございませんが、このお話はご辞退させていただきます」

 もう嫌だ、本当にたくさんよ。人のこと貶めて何が楽しいの。そりゃ、あんたにしてみればこのようなやりとりも「余興」のひとつなのでしょうよ。でもね、こっちは一刻だって早くこの場を去りたいの。二度と顔を合わせたくなかった男とひとつの部屋にいるなんてもうたくさん。

 深々と一礼してから、きちんと面(おもて)も上げないままに膝頭でくるりと向きを変えた。出来るだけ離れていたくて障子戸のすぐ側に控えていたから、逃げるのも容易い。いいよもう、飢え死にでもなんでもしてちょうだい。そんなの、私の知ったことじゃないもの。

「出来るだけ早く頼むよ。君の家、食事だけは美味しかったものね」

 何で人の話を聞かないのよ、断るってはっきり言ったでしょう! カッとして振り向けば、彼は書面に目を落としたままだった。だから、今の私が鬼のような形相で睨み付けていることだって全然気付いてない。

「暁高がね、実家で一番信頼できるのは君だって言うんだ。彼は僕にいつも誠心誠意尽くしてくれているからね、この度はその言葉に従ってみようと思ったんだ」

 ぱらり。また頁を一枚めくる。その滑らかで長い指先に、午後の陽が一瞬止まった。

「……本当に、兄上からは何も聞いていない?」

 私が見つめているのはとうに気付いているはずなのに、彼はこちらの存在には全く構わずに自分の話を続ける。それでも私が押し黙ったままでいると、数枚分の静寂を守った後でゆっくりとこちらに向き直った。

「彼も厄介な性格だね。心内ではたいそう悩んでいるだろうに、可愛い妹の前ではその素振りも見せないのか。そうだね、誰かに荷を負わせることなど心優しい暁高に出来るはずもない。全ては自分の中で握りつぶそうとしているのだろう。ここに君を来させたのが、最後の頼みの綱だったのだろうね」

 ……?

 一瞬前まで張り詰めていた気持ちがふっと緩んだのは、面を上げた彼がこの上なく慈悲深い眼差しをしていたからであろう。

「暁高にはね、好いた女子がいるんだよ。もちろん相手もまんざらではなくてね、彼に深く想いを寄せている。だけど、……そう上手く運ぶ話でもないんだ」

 

 そのような話は全く初耳だった。もちろん暁高兄上は春を迎えると十七、いつお嫁様を迎えられてもおかしくない年齢になっている。父上や長兄が折に触れてその話を持ちだしていることも知っていた。でも、当のご本人はお務めにかかりきり。年に数回しか家に戻らない身では、話も進みようがなかったのだ。

 でも、上手く運ばないってどういうこと? 不安に駆られた私の視線を受けて、彼は静かに話し出す。

「その女子はね、あろうことか大山の村長の娘なんだ。あの土地は代々我が一族と密接な関係にある、彼女はもともと僕の元に上がることを望まれていたんだ。もちろん村長夫婦は今も諦めてはいないと思うよ、丁度年齢も釣り合うしね。そのことは、暁高だって承知している。だからこそ、強く出ることは出来ないのだと思う」

 不思議なことに、事実を告げる彼の言葉からは驕りのような響きが全く感じられなかった。だから私もその内容をとても素直に感じ取ることが出来たのだと思う。確かに目の前の男は人のことを小馬鹿にするろくでなしだ。でも、人並みに思いやりの心も持ち合わせていたらしい。

「そう、……だったのですか」

 話の大筋を汲み取って、私の胸内は兄上に対する同情の気持ちで水色に染まっていた。そうかあ、お相手が大山のお姫様じゃ逆立ちしたってかないっこない。政(まつりごと)に疎い私だって知っている、御領主様の治められる土地にはやはり絶対的な格付けがあってそれは何百年もの長い間しっかりと守られている。とくに豊潤で恵み多い大山の地を任された村長一族は御領主の一族に次ぐ家柄だった。
  本来であれば、今は跡目となられた御次男の方に縁づいてもおかしくない姫君だったはずだ。ただ、お二人の年齢が離れすぎていたためそれが叶わなかっただけで。自分たちよりも格下の家の娘にあるべき立場を譲ってしまったことを、彼らは今も口惜しく思っているのだろう。

 兄上が心を奪われてしまった女子さまであれば、見た目がお美しいのは当然のこととしてその心映えも大変素晴らしい御方に違いない。ああ、おかわいそうな兄上。しかも張り合う相手が自分の主である御領主様のご子息では最初から勝敗は誰の目からも明らかだ。改めて問う必要もないほどに。
  私だったら、絶対に耐えきれないな。自分の最愛の人が他の人のものになってしまうのを間近で見せつけられるなんて。もちろん相手の方にとってもそれは深い苦しみになるはずだ。そのような大きな悲しみを背負って、兄上はそれでも主様のために必死でお務めをこなしていたのか。

「あのふたりはどちらともが自分の立場を分かりすぎている。僕も辛そうな彼らを見ているのはしのびないんだ。もちろん、彼女はとても愛らしい女子であると思う。でも、僕にとってはその感情が親愛の領域内に収まるものでしかないんだ。もちろん妻とするには全く不足ない相手であるから、両家の話がまとまればそれに従う他はないと考えているけどね。そうなれば、僕は必ず彼女を幸せにする自信がある」

 何だかもう、私までが深く沈み込んでしまうわ。そりゃ、私自身は今の自分の立場や実家に対して何の不満もない。そりゃ、身の程知らずに玉の輿に憧れる日もある。でも、……それは女子の身としてはそう難しい話ではないのね。
  近頃は都の竜王様を真似て生涯妻はひとりと決める方もいらっしゃるけど、まだまだ地方に下がれば、幾人もの側女を抱えることも当然だ。若く美しい身の上ならば、多少生まれが卑しくても思いがけない幸運を手に入れることが出来る。そう、あまりに多くを望まなければ、ね。
  ただ、それが殿方の立場となるとまるっきり勝手が違ってくる。男にとって自分より身分の高い女子を妻とすることは限りなく困難な話なのだ。もちろん跡目となる男兄弟のない家に婿養子となる手はある。それにしても、村長の一族が田舎暮らしの庶民を相手と考えるとは思えない。
  やはり暁高兄上は、御領主様の御館に出仕するべきではなかったのよ。いくら才があり是非にと所望されたとしても、何らかの理由を付けてお断りすることは可能だった。もしもこんな風に、道ならぬ恋をして苦しまれることが最初から分かっていたならば、私だって必死にお止めしたはずだわ。

 ふうっと大きな溜息が出てしまった。下のまつげにしっとりとしずくが吸い付いてしまったのを、衣の袖で慌てて隠す。今日は野歩きだし、扇なんてご大層なものは持ち合わせていない。恥ずかしいけど、こんな風にして自分の感情を押し殺すほかにないんだ。

 あーもう、本当に昨日からは災難続きだわ。しなくても良い気苦労をしてその上馬鹿にされまくって、ついでに知らないままで済ませられたかも知れない兄上の悲しみまで目の当たりにしてしまった。それもこれも、全ては目の前にいる生意気な男が原因なのよ。
  でも、これだけ気落ちしちゃうと今更張り合う気にもなれないわね。もういい、お暇すると言ったらお暇するの。そして部屋に戻って、今日は夜までふて寝だわ。叩き起こされそうになったら、仮病でも何でも使っちゃうわよ。

 

「あ、ちょっと待って」

 先ほどの気合いはどこへやら、肩を落としてすごすごと引き上げようとする背中を再び呼び止められる。でも二度と後ろを振り向く気はなかった。だって、口惜しくて情けなくて、もうどうしようもない気分なのよ。

「だから、ね。ここは暁高のことを共に応援する立場として、改めて君に提案があるんだ。必ず上手くいくとは言えないんだけど、何も出来ずに手をこまねいているよりはずっとマシだと思うんだよね」

 強い力に無理矢理引っ張られたような気がして、私は動きを止めていた。そう離れていない場所から、こちらを見つめている視線を感じる。だけど、すぐにそれを自分の目で確認するだけの勇気は持てないままだった。

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