柔らかく気の流れる川沿いの裏通りには、昼下がりになった今もやはり人影は見当たらなかった。 ここしばらくは気軽に敷地外を歩き回ることもなくなったけど、元からこんな風だったかなと遠い記憶を辿ってみる。当時も煩わしい思いをせずに通れたような気がするから、やっぱりそうだったのかな。 ほとんど平坦な小道ではあるが、こうして不安定な膳を手にしていれば話が別だ。先ほどの倍以上の時間を掛けてようやく竹林まで辿り着いた頃には、肩や腕の筋肉が緊張のあまりぱんぱんに張っている。 それにしても。 まさか自分用の膳を館の外まで持ち出すことになるなんて思わなかった。普段から、部屋に籠もってひとりで食事を摂ることが多かったから良かったわ。そうじゃなかったら、侍女たちにあれこれ詮索されて大変なことになっていたもの。
「ご苦労」 庵の外階段をいくつか上がったところで、ようやく膳を下ろすことが出来た。出来るだけ上品に物音を立てないようにと心がけたつもりだったが、次の瞬間には障子戸が開く。高い場所から私を見下ろす涼しげな眼差しは、口にした心ばかりのねぎらいの言葉とは対照的に蔑みの色を秘めていた。 「一体どれだけの時間を掛けるのかと呆れたけれど、とりあえず一仕事やり遂げたことは誉めてやろう。ま、上がれよ。でもその前に山姥みたいに乱れた髪を少しは整えた方が良さそうだな」 毎度のことながら、その口元を扇でしっかり隠した上での忍び笑い。私は髪どころか手足の体毛一本一本まで逆立っていくのを衣の下にはっきりと感じていた。
◆◆◆ もったいぶった前置きのあと告げられた内容は、全くもって信じられないものだった。どれくらいかと聞かれたら、その一瞬前までは一目散に庵を飛び出したい気持ちでいた私が驚きのあまり腰が抜けて動けなくなってしまった程よ。 「父上の館で侍女になりたいんだろう? だったら、その願いを叶えてやろうかなと思って」 いくら冗談でも、状況や相手をきちんと考えてから口にしろと言いたくなった。だってね、昨夜あれだけ散々なことを言っておいて、今更何よ。ああ、分かってるわ。もしもちょっとでもこっちが本気になったら、すぐに手のひらを返してくるんでしょ? 人をおちょくって楽しむのもいい加減にしろよって奴ね。 「は……?」 一体何を言い出すんだ。駄目出しした同じ口が言うこと? だいたい、私が御領主様の御館の侍女になることと暁高兄上の叶わぬ恋とどこに接点があるというの。 「こっちの言いたいことが全く分かっていないみたいだね。じゃあ、仕方ないからはっきり言うけど……君のどう考えても無謀な夢としか思えない『玉の輿計画』がもしも現実のものになれば、暁高の処遇もかなり変わってくると思うんだ。だって、そうだろう? 実の妹が『館の花』で引く手あまたの高い教養を身につけている侍女となれば、大山の家の者たちも彼に対する評価を改めずにはいられないはずだ」 あんぐりと開けた口を隠すことも忘れた私に、男はここぞとばかりに会心の一打を飛ばしてくる。 「もちろん、君が一級品の侍女になるのは現地点では絶対に不可能だとは分かってるけどね」 ……やっぱり。そんなことだろうとは思ったわよ。 もっともらしい提案をしておいて、その直後に一気に奈落の底へと突き落とす。彼にとってはあくまでも「余興」でしかないことも、今の私にはとんでもない衝撃になった。 「わ、分かってるんだったら、期待を持たせるんじゃないわよっ……!」 ただですら、暁高兄上の話を聞いて胸を痛めているのよ。それなのに、こういう言い方はあんまりだと思う。ひどいひどい、コイツってやっぱりとんでもない人でなしだわ! 「あ、あんたなんてっ、あんたなんてっ! すぐにでも暁高兄上の恋人を妻に迎えて、忠実な家臣の胸をずたずたにすればいいんだわっ! 何さ、善人ぶって。腹の中は真っ黒なくせに、良く知ったような口がきけるものね。 ああ、口惜しい。そりゃ、今までは侍女や兄嫁に色々言われても、面倒で先送りしてた。けど、これからは違うもの。すぐには無理でも、いくらかの猶予を与えられれば見違えるようになれるわ。何て言ったって、死ぬ気で頑張っちゃう。今までが本気でなかっただけ、できない訳じゃなくてやらなかっただけだもの。 「ふうん……、でも一年後じゃ遅いんだ。あと二月三月で正式に婚儀が決まりそうだしなあ」 まだ言うか、この上にまだ人のことを踏みつけようとするのか。それって、もう取り返しがつかないってことでしょ? 今更何をやっても手遅れってことでしょ? だったら、……だったら、もういいじゃない。この上に傷口を開かないでよ。 ごめん、兄上。元を正せばやっぱり私が悪かったと思う。もっと周囲の助言を良く聞いて、素晴らしい貴婦人になれるように地道な努力をするべきだった。面倒だからって先延ばしにしていたために、大切な兄上の窮地も救えないなんて。こんなに情けないことってないわ。 畳の上、ぎゅっと握りしめた拳が震える。でも、泣いちゃ駄目。ここで涙を見せたら負けだ。絶対やだ、こんな男の前で自分の非力を嘆くなんて……! 「―― だからね。ここは一月、ううん半月でどうにかしようと思ってさ」 ……? 表情を整えることも忘れて顔を上げれば、そこには勝ち誇った眼差しがあった。 「君は何ひとつ身についていない状態だけど、その分変な癖もついていないってことになるしね。目も当てられないほど田舎くさくて野暮ったい外見だって、それなりの化粧と装束を用意すればどうにかなるだろう。ま、素材は悪くないんだ。あいにく掘り出したばかりで泥だらけの原石だっただけで」 だから男の身の回りの世話は当然ながら私の仕事なのだと、結局は話が振り出しに戻ったかたちとなった。何だか、上手いこと言いくるめられただけみたい。ようするに命令通りに動く相手が欲しかっただけじゃないかしら。 「こういう言い方をするのは申し訳ないけどね。君の家じゃ、優秀なその道の達人を頼むのも難しいだろう。いくら大金を積んだところで、ああいう教養人はなびかない。彼らはあぶく銭よりも名声を好むからね」 手塩に掛けて育てるならば、末は身分のある家の奥方に収まるような相手を選ぶ―― まあ、そんなところだろうな。浅ましくもいやらしいなあと思うけど、こればっかりは仕方ない。 「その点、僕ならば師として最適だ。自慢するのも何だけど、大抵のことは人並み以上にこなせる自信があるしね。父の館だけではなく、都や西南の大臣家での様子も良く分かっている。一級品とそうでないものの違いもはっきりと心得ているよ。ただ……君が弱音を吐かずにちゃんと付いてこられればの話だけど」 そして彼は。さらに衝撃の事実をいとも簡単に口にする。 「侍女の仕事もピンからキリまである。その中で手っ取り早く大役を仰せつかって幸運を手にするには、やはりご隠居殿の住まう本館に仕えるしかないな。でもひとつ問題があってね、あそこで仕事にありつくには厳しい審査を通過しなければならない。何しろ選者にはご隠居殿の奥方である僕の祖母自らがお出ましになる、あの御方のお噂くらいは君だって聞いたことがあるだろう?」
◆◆◆ 「うーん、これじゃあ十点満点で五点、それじゃあちょっと可哀想だから最高におまけして六点ってところか。何でこんなに汁が飛び散るのかな? 膳というものは地面に対して常に水平に持つものだよ」 そんなこと言ったって、ものすごく大変だったのよ。そう言いたくて上目遣いに睨むと、彼はそれをさらりとかわす。 「父の館の敷地は驚くほど広大でね、端から端までは半刻以上掛かるとか言われている。家族の居室の中には膳を整える御台所からはかなり離れた場所にあるものも少なくないから、そのようなところに仕えた侍女は毎食ごとに長い距離を往復することになる。慣れてくれば二段三段と重ねることも当たり前、見た目の優雅さとは対照的に侍女の仕事は全てが重労働で力仕事なんだ」 そこまで言うと、彼は一度閉じた扇で、縁の向こうの水場を示した。 「じゃあ、次は拭き仕事をしてもらおうかな? 長い間人の手が入っていなかったらしくて、そこら中が埃だらけなんだ。とりあえず部屋の中は片付けてくれた様子だけど、外回りまでは手が回らなかったらしい。僕はこれから食事だから、まずは表の縁から頼むよ。水桶はそこ。納屋に使い古しの手ぬぐいが入っているから、それを使ってくれ。ああ、すすいだあとは念入りに絞ってから拭くんだよ」 一息つく暇も与えずに、こき使うつもりなのだろうか。正直なところ、罵声のひとつも吐きたいところだがかろうじて押し留まる。ああ、私って偉い。 「何だ、全然艶が出ていないぞ。力を込めて磨いてないだろう、板間って言うのはただなでつけるだけじゃ駄目だ。―― ほら」 言うが早いが、彼は私の手から手ぬぐいを取り上げると身をかがめ、生乾きの部分をもう一度拭き清めた。そうしたら、どうしたことだろう。先ほどまでとは比べものにならないほどの艶やかな表面に変わっているではないか。 「たかが拭き掃除と侮るな、真剣にやれ」 えー、同じ手ぬぐいで拭いてこんなに違うの? ここは外回りの縁だから、どんなにこすったって変わらないのは当然だと思っていた。でも奴の拭いた部分だけが、米ぬかをすり込んだようにぴかぴか。特別の技を使ったようには見えなかったのにな。 彼女たちは今、主である私が汗水垂らして働いているとも知らず、のんびりとくつろいでいるに違いない。居所と呼ばれる場所にはいつも年若い侍女たちが集まっていて、せんべいを片手に暇つぶしのおしゃべりに興じている。必死に働こうなんて見上げた根性の使用人は我が家には存在しないのかも。大した働きをしなくてもたんと給金がもらえるんだから、こんなにおいしいことはないだろうな。 全部終わる頃にはもう夕暮れ。その頃には私の手足は関節がぎしぎしと音を立てるほど疲れ切ってた。 「ご苦労、これでまあ人が住める状態になったかな。じゃあ、そろそろ夕餉の膳を運んできてもらおうか」 情け容赦のない声に、思わずその場に崩れ落ちそうになった。でも、かろうじて踏みとどまり手桶や手ぬぐいを片付ける。今日三度目となる往復は、自分の意志からかけ離れた操り人形の如き心地だった。
◆◆◆ そうは思っていたけれど、さすがに驚いた。だって、一夜明けて朝餉の膳を届けに行くと、かの貴人は昨日私がお届けした包みをそのまま返して寄越すのだから。 「書庫の入ってすぐの右側の棚、上から二番目に置くそうだ。午後には週に一度の点検があるらしいから、急ぎ戻して置いて欲しい。何、午前中はあまり人の来ない場所だから大丈夫だそうだよ。それに君なら、館をうろついていたところで怪しまれることもないだろうからね」 でも、これは大切な証拠になるものなのに。兄上だって、全てを承知の上で持ち出したはずよ。いいのかしら、戻しちゃって。 「心配いらないよ、夜のうちに全部写してしまったから。ほら、この通り」 文机の傍らの箱には、長い半紙が屏風畳みに折りたたまれて入っている。それをぱらりと開いて見せられれば、帳簿の内容が全て写し取られていた。しかも、原本の字よりも遙かに美しいお手蹟(て)で。 「あと、戻りながら文使いにこれを渡しておくれ。もしも君あてに暁高から何か届いていたら、それは僕宛のものだから忘れずに持ってきて欲しい」 どこに出しても恥ずかしくない立派な侍女に仕立ててくれると言われたけれど、申しつけられる内容はむしろ新入りの下男のそれのような気がする。まあ、それでも今のところは我慢するしかないかな。仕事の内容のひとつひとつはさほど難しいものではない。ただ簡単な作業であるからこそ、かえって分からなくなってしまうのだ。昨日から私は身体だけじゃなくて脳細胞も酷使し続けている。 夜の荒れで落ち葉の散った庭を掃き終え、縁の周りの拭き掃除を手すりも含めて一通り終えた頃にはほとんど空になった膳が戻ってきた。 「君の食事は大丈夫なの?」 ようやっと訊ねてくれたので、曖昧に頷く。まあね、小腹が空いたときのためにとか言ってにぎりめしをいくつか作ってもらえばそれで大丈夫。こんなに働いているのに、だらだら過ごしていた頃よりもお腹がすかないの。今まではきっと満腹になったことにも気付かずに惰性で食べ続けていたんだろうなあ。 昨日や今日で何かが飛躍的に変化するとは思えない。だけど、今の私には時間がないのだ。必死になったところで目標に手が届く保証はないけど、このまま何もせずに敗者と決めつけられるのも嫌だし。まあ……最終決定をなさるのがご隠居殿の奥方様じゃどうあがいたところで絶対に勝機はなさそう。絶望的な立場で頑張ってる私って、この上なく健気だと思うわ。 「それじゃ、先ほどの用事を急ぎ済ませて欲しい。昼頃にいくつかの荷が届くからそれまでには必ず戻るように。……あ、それから。昼餉の膳からは少し多めに盛りつけてもらえばいい、そうすればふたりで分けられるからね」 珍しく人間扱いしてくれるから、何だかとても不思議な気分になる。でもその次の一言が余分だった。 「ま、それだけ肉付きが良ければ、しばらく食事を控えたところで心配することもなさそうだけど」
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