申しつけられた雑用をすべてこなして戻ると、届けられたいくつかの行李は部屋の隅に何段にも重ねて置かれていた。 「これで当座の生活はどうにかなりそうだな」 自分は口を動かすだけで身体は肘置きに預けたまま。涼しい顔の貴人は頬にこぼれた後れ毛をもったいぶった手つきでかき上げた。 「じゃ、片付いたらこっちに来て。まずは片っ端から腕試しと行こう」
その後に続いた惨事を考えれば、今までの肉体労働など苦労のうちに入っていなかったと思われる。 ひとたび筆を持てば元の字が見えなくなるほどに赤字で修正を入れられ、踊りの稽古を始める前にまずは立ち姿から事細かに注意されてしまう。そんなはずはない、今までに手習いを付けてくれた師はそれなりの評価をしてくれたはずだ。緊張のあまり、普段は難なくこなすことの出来る簡単な計算でも躓く始末。どうにか自分を奮い立たせようとしても、どんどん自信がなくなっていく。 とにかく一瞬たりとも気を抜く間がない。神経を研ぎ澄まし細心の注意を持って臨んでも、自ら名乗り出て師となった男は遠慮ない物言いで応戦してくる。 「駄目、やり直し。こんなじゃ御館に上がったその日のうちに仕事を干されるよ?」 拭きあとが白く浮き上がった手すりを指先で辿って、男は涼しげな目元のままでそう告げる。 「侍女の日常はその一瞬一瞬が真剣勝負だ。抱えきれないほどの教養を持った女人であっても大変なことを、君はこなそうとしているのだからね。その心意気だけには敬意を払いたいものだ。でも……そんなに余裕なく目をつり上げていては、玉の輿なんて到底望めそうにないね」 何か一言言い返したい、どうにかして応戦したいと思ってもなかなか上手くいかない。結局は及第点がもらえるまで何度も何度も同じ作業を繰り返し、頭も身体もへとへとになってしまう。まだ始めたばかりだよ? もしも万が一に領主様の御館にお仕えすることが出来たなら、こんな生活が何年も続いていくのだわ。本当に私に耐えられるのだろうか。まあ、その前に「厳しい審査」とやらをかいくぐれるかどうかも謎だけど。 ―― 見込みなんて、最初から全くないのかも知れないなあ。 竹林の庵にいるときには忙しすぎて余計なことを考えられない。でも、ようやく一日の全てを終えて自室に戻る頃になれば、一気に疑念が湧き上がってくるのだ。かの貴人にとっては単なる暇つぶしのつもりなのだろう。本人からも幾度となくそのようにほのめかされている。何も知らずにがむしゃらに頑張っている馬鹿な娘を、腹底であざ笑っているのではないだろうか。 だけど、私は。万に一つの望みでも、今は暁高兄上のために必死になるしかないんだ。 真冬の天を染める輝きは、冷え冷えと大地を見下ろしている。私たち庶民はいつでも地べたに這いつくばって生きていくしかない。与えられた以上の幸せを望むのが、そもそもの間違いなのだろうか。 口惜しさのあまりにこみ上げてくるもの。疲れ果てた口元からこぼれたのは、乾いた笑いだけであった。
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その日。昼餉の膳に掛けていた覆い布をそっと外したときに、たとえようのない達成感が胸に湧き上がってきた。今回は汁もこぼれていないし、炊き合わせの煮物も盛られたままの姿をしっかりと留めている。「たったそれだけのことで?」と笑われそうな気もするけど、私にとってはすごい進歩だもの。 「君に提案があるんだ」 この上なく胡散臭い、そして思わせぶりな台詞を耳にしてから早三日。その間に私が習得した最たるものと言えば、どんな暴言にも動じずに黙々と与えられた課題をこなす強靱な精神力を保つ術のような気がする。 「お待たせいたしました」 うんうん、いいわ。慎み深く控えめな声が上手に出たじゃないの。常に落ち着いて冷静に、余裕を持った立ち振る舞いで臨むこと―― 口で言うほど簡単ではないと思うけど、短期間でここまで心得ることが出来れば偉いわよ。 「失礼いたします」 そして膳を脇に置いたままで膝をつき、ゆっくりと障子戸を開ける。だがしかし。深々と下げた頭を静かに上げたとき、最初に目に入ったのはふてぶてしい貴人の姿ではなかった。それどころか、これでは部屋に一歩足を踏み入れることも不可能ではないか。 「なっ……、なっ、何ですかっ!? これはっ!!」 良かった、あと半歩前に出ていたら鼻先を思い切りぶつけるところだったわ。思わずのけぞった拍子に、袖の先が膳に引っかかる。派手にひっくり返ることはなかったものの、元通りに掛け直しておいた布の下で確かに不気味な音が聞こえた。 「何って、見れば分かるでしょう? それとも、もしかして。君は琴を知らないとか言い出すんじゃないだろうね」 私と部屋奥にいる彼との間には、大人が寝そべったほどの長さの物体が横たわっている。薄紫の上品な絹で全体が包まれてはいるが、それが男の言う通りの品であるということはひと目見れば分かる。そうよ、分かるわよ。だから私の言いたいのはそんなことじゃなくて。 「いっ、入り口に置いておいたらたいそう邪魔ですよね? 見たところかなり高価な品だと思われますが、このように無造作に扱っては台無しですよ」 だからどけてよ、と暗に告げたつもりであった。それとも何? この先には私を入れたくないって無言の意思表示なの? それとも予期せぬ出来事にどう対応するか審査してるの? お届け物があるなんて、聞いてないわ。 「うん、だから君に片付けてもらおうと思って今まで待ってたんだ。あいにく僕は生まれてからずっと筆よりも重いものを持ったことがなくてね。いきなり慣れない力仕事をして、腕の骨でも折ったら大変だろう……?」 もちろんのこと、その先にはくっくっと忍び笑いを付け加える。当の本人は肘置きに身体を預けたまま。しばらくの間はくつろいで過ごされていた様子で、衣もしどけなく着崩れていた。まあ、それも見るに堪えないような光景ではないけどね。ううん、それどころか目のやり場に困るほど艶めかしいわよっ。 「まーっ、その通りでございましょうね……っ!」 こっちは跳び蹴りでもして、あんたの顎の骨を砕いてやりたい心地だわよっ! もうっ、人のことを馬鹿にして、馬鹿にしてっ! なーにお高くとまってるんだかっ。 ……そうは思いつつも、結局は横たわるブツをよっこらしょと持ち上げて部屋の隅まで移動する。へえ、大きさほどは重くないわ。幅があるから確かに持ちにくくはあるけどね。だけど、何? ただでさえ狭い部屋なのに、こんなの置いた日にはますます身動きが取れなくなるじゃない。一応、一番邪魔にならないところまで動かしたけど、今度はこの先の寝所に行けなくなったわよ。これ以上は知らないですからね。 ようやく一仕事を終えて振り向くとつい先ほどに「筆よりも重いものを持ったこともない」ことを自慢した男は、いつの間にか部屋の入り口まで移動している。そしてたった今、私が運んできた膳の覆い布をめくり上げたときの嬉しそうな顔……! 「とにかくは、これを見苦しくない程度に整えて運んでおくれ」 不幸なことに、今度は扇に隠されることなくその口端がはっきりと確認できてしまった。
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「それ、弦はきちんと張ってあるんだ。どんな音色がするのか確かめたいから何か弾いてみてよ、手慣らし程度にさ」 ぎょっとして顔を上げたら、好奇の色が浮かんだ瞳にぶつかる。それまでも「もしかしたら」という予感は確かにあった。だけど、どうにかしてやり過ごすことが出来るかなと期待もしていたのね。うーん、甘かったか。 「えっ、……でも」 こちらの腕前を確かめようとしていることは明らかだった。今まで思いつくままに上流階級の女子が習得する様々な事柄を試している。そのほとんどにおいて、悲惨きわまりない結果が出たのは言うまでもない。 ……そうなのよね、それがはっきり分かっているからこそ勇気が出ない。だって、その……困ったな。 「どうしたの、まさか初めてと言う訳じゃないでしょう? 見事な品ではあるけれど、何も遠慮することなどないよ。君ほどの馬鹿力でもそう簡単には壊れたりしないだろうしね」 ああ、何でこの人ってこういう言い方ばかりするのだろう。本当は全て分かっているくせに、私が箸にも棒にもかからない腕前であることくらい。それなのに、……まだこの上に生き恥を晒せというの? 「……」 ヤバいなー、これだけはどうにか理由をつけて避けたいと思っていたのに。 正直、前に弦に触れたのがいつなのかも思い出せない。どんなに頑張ったところで、彼を満足させるほどの音色を奏でることは出来ないだろう。でも、目の前の貴人は容赦ない眼差しを私の指先に向けてくる。 ええい、一か八かよ。 琴爪をはめて、一の弦から順に弾いてみた。だけど、部屋に響くのはおよそ楽器の音色とは思えないひどく鈍いもの。次第に高まっていく情けなさと滑稽さが相まって、いつの間にか手が止まらなくなった。かなりの騒音になっているはずなのに、お咎めの言葉もないしね。いいんでしょ、どうでも。怖くて確認できないけど、そのお顔はかなり青ざめていると思うわ。 ……あれ? どれくらいの間、同じことを繰り返していたのだろう。指先がある一音に巡り会って、私の中で何かが弾けた。自分の意志とは関係なく、二度三度と同じ色を響かせる。確かに覚えのある音色、懐かしさの中に私は我を忘れていく。続けて指が勝手に動き、短い旋律が生まれた。そしてまた、そこに新しい音を重ねていく。そのあとは、自分でも無我夢中だった。
「―― もう、それくらいでいいよ」 その言葉にハッと我に返ったのは、それからどれくらいしてからだろうか。一瞬前まで全ての意識を手放していた私は大きく肩で息をしながら、浮遊した自分の心を必死で取り戻そうとしていた。私、今まで一体何をしていたの? 全然思い出せないよ。頭の中が混乱して、眉間の辺りに強い痛みを覚える。だけど、とてもすがすがしい気分だわ。 ようやく全てを整えて顔を上げると、目の前の男は今までとは確かに違う表情を浮かべていた。 「驚いたな、……荒削りだけどちゃんと曲になっている。難しい旋律も危なげなく弾ききっていたし。指の使い方も滅茶苦茶なのに、これって一体どういうこと……?」 そう訊ねられても、何とも答えようがない。むしろ聞きたいのはこっちの方だ、今までひどく毛嫌いしてほとんど弾いたこともないはずなのに。 「……それは……」 障子越しに注ぎ込む柔らかな冬の陽に照らされて、美しく浮かび上がる銀色の弦。そこに広がっていく残像に、軽い目眩を覚えた。そうだ、前にも確かにこんなことがあったっけ。誰もいない部屋、こっそり入り込んだ幼い私。……そして。 「とても小さな頃、年の離れた姉が稽古を付けてもらっているのが羨ましくてひと目を盗んで真似をしていました。でも、ある日それが見つかってひどく叱られて―― 」 ああ、そうか。そうだったんだ。 姉とは言ってもあちらは側女腹。物心も付かない頃の私にはあまり分からなかったが、それなりの確執があったのだと思う。いつもはうわべだけで優しくしてくれていた姉が、その日は人が変わったように恐ろしかったことを覚えている。慌てて母の部屋に戻って、理由も告げずにただ泣きじゃくった。 「ふうん」 遠い昔の恐ろしい記憶を思い起こして青ざめる私とは裏腹に、男は軽い調子で頷く。彼は開いていた扇を流れるような手つきで閉じた。 「きちんと師について稽古した訳じゃないんだ、きっと勝手に耳が旋律を覚えてしまっていたのだろうね。でも、これは思いがけない収穫だな」 未だに恐怖の張り付いたままの輪郭、震えるその頬を男の視線が辿っていく。もちろんその眼差しに、憐れみや慈愛など全く感じられないけれど。 「君も捨てたものじゃないってことかな、とりあえず暁高の妹なんだし」 彼は肘置きに預けていた姿勢を正し、さらりと立ち上がった。そして数歩歩いて私の側まで来ると、右手で端に寄るようにと促す。 「一から教えるよりは少しは楽かな。じゃあ、今度は僕が弾いてみるからよく見ているんだよ。何かを習得するためには『真似る』ことが一番だからね、音色も指使いもとにかく注意深く確認してしっかり覚えるんだ」 何事にも人並み以上に秀でていると豪語する言葉に間違いはなかった。暁高兄上の主であるその男の奏でる音色は今まで私が耳にしたどの音よりも素晴らしく、深く心に染みていく。その凄さと言ったら、曲が終わった後もしばらくは自分を取り戻すことが出来ないほどであった。 「うーん、久方ぶりであるし腕がなまったかな?」
そう言って振り返った眼差しは、今まで私が拝見したどれよりも優しい色をしていた気がする。少なくとも私にはそう思えた。
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