夜明けと共に目が覚める。以前の私だったら絶対にあり得ないような生活が、徐々に身体に馴染もうとしていた。 理由は深く考えるまでもない。 でもねー、今の私は違うのよ。だって、あれだけこき使われたら、もうへとへと。ようやく部屋に忍び帰る頃には何をする気力も残っていない。着替えもそこそこにしとねに倒れ込んで、その後の記憶が途切れる。化粧を落としてない肌がどうにかもちこたえているのは、やはり若さのたまものね。まあ決して誉められた行為ではないから、どうにはしなくてはとは考えているけど。 そんな感じで。 ああ、それにしても清々しい一日の始まりに相応しい静けさだわ。 私の居住まいは、館の中でも奥まったあまり目立たない場所にある。家主の三番目の妻であった母上が亡くなってから程なくして長兄が妻を迎え、それを機に事実上の世代交代が行われた。家長が使うと決まっている一角を兄夫婦に明け渡した父上に従って、私までがこんなに隅の方に追いやられたって訳。 ま、こんな状況にあるからこそ、気ままな暮らしを続けていけるというもの。有り難いと思わなくてはならないわよね。昨年生まれたばかりの兄嫁の娘よりも私の方が世話役の使用人が少ないことなんて、全然不満に思ってないんだから。何か出来の良い侍女ばかりが引き抜きにあっている気もするけど、そんなのどうでもいいわよ。 ―― あー、お腹すいたな。 すでに身支度を整えて、障子戸のそばで控えていた。ひんやりとした真冬の朝、さらさらと凍えた気が表を流れていくのが見える。昨夜はかなり冷え込んだもんな、早朝の野歩きは足下を取られてかなり大変そうだわ。 ふと忍び込んできた気に、肩が大きく震える。刹那、しっとりと香油を馴染ませた髪が艶やかに舞い上がった。
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一通りの朝の挨拶を済ませて部屋に上がると、男は相変わらず不機嫌だった。しっかりとこちらを振り返ることすら億劫なのかしら、ちらっと一瞬だけ向けられた眼差しがいつも通りに私を蔑んでいる。 「大変申し訳ございません」 あれこれと言い訳したところでどうにもならないことはすでに分かっている。だから言いたいことは全て飲み込んで、膳を整え始めた。まずは粥の入った土鍋を温め直すために火鉢の上に置く。実はこれがかなりの強敵だったのよね、いつもよりも膳がずっと重く感じたもの。寒空の下で少しでも食事が覚めないようにとの心遣いだとは分かるけど、長い距離を運ぶことは全然考慮されてないわ。 「何だ、その顔は」 注意深く覗かれている気配もなかったのに、容赦ない言葉が頬を叩いてくる。 「障子戸を開ける前に心の姿勢を正せといつも言っているだろう? 隠しているつもりでも、内面は必ず表情や立ち振る舞いに現れる。朝っぱらから使用人のふて腐れた顔を見て喜ぶ主がどこにいるか、そんな風にしているとあっという間に雇い主からつまみ出されるぞ」 彼の口から出るのは、百のうちの九十九までが私に対する非難の言葉だ。全くもう、どこまで語彙が豊かなのかと首をかしげてしまうくらい、後から後から苦言を投げかけられる。その凄さと言ったら、いちいち落ち込んでいたらやりきれないほどだ。状況に合わせて変化する言葉が素晴らしく的を射ているのも憎たらしい。 「はい、以後気をつけます」 かろうじて取り繕った作り笑いを素早く頬に貼り付け、私はさっさと次の仕事に移ることにした。まだ野歩きの動悸も収まっていないのに、非難の応酬に耐えるだけの気力はない。ここは別の場所に退散するのが得策だ。それくらいのことは、今までの毎日で学習している。 霜で凍り付いた表は、陽が高くなるまで箒を立てることが出来ない。外回りの縁や手すりについても同様で拭いたあとがすぐに凍り付いてしまう。だから、早朝の最初の仕事は奥の部屋を片付けることから始まる。 殿方の寝所。 初めにここを片付けろと言われたときにはかなりの抵抗があった。よくもまあ、恥ずかしげもなくうら若き乙女にそのような仕事を言いつけられるものだわ。まあ、奴としては私はただの使用人だから、何も考えていないのだろうけどね。 今日は穏やかな日和になりそうだ、お召し物に気を当てようかな。そう思って行李を改めていると、表の部屋から呼び声がする。 「そろそろ鍋が煮立つぞ。吹きこぼれるとあとの始末が面倒だから、手を止めて早く来い」 ……はいはい、分かってますってば。
大人しく言いなりになっているのは最初のうちだけ。
朝餉の膳が片付く頃には、私の限界が来る。ここは我慢比べだ、もうちょっと頑張らなければと思うのに、どうしても上手くいかない。広げた扇の下で、奴がその瞬間を待って「しめた」と笑っているような気がしてなお腹が立つ。 「今日も続きをやるぞ、まずは手慣らしに一通り弾いてみろ」 外仕事を終えて戻れば、次に手習いのあれこれが待っている。その内容も飽きるまもなく品代わりするのだから、息つく暇もないほどだ。 「はい、よろしくお願いいたします」 琴の稽古をつけられているのは、最初に弾いたあの曲だ。私自身はそれがどんな内容であるのか全く知らなかったが、記憶の底に残っていた調べは春の宴にたびたび用いられるものであるという。私としてはどの旋律が花咲き乱れる季節を表現しているのか見当が付かないけどね、まあ今のところはつっかえずに最後まで辿り着くことが先決だわ。 「ちょっと待て」 途中で手を止められるのはいつものこと。ちなみに奴の視線はこの瞬間に私の手元など見ていない。その目は今も分厚い帳簿に向けられていた。一体どういうツテを使っているのか、私がこの部屋を訪れるたびに新しい資料が増えていく。夜もかなり遅い時間まで机に向かっている様子で、それは毎朝手入れする燭台のいくつかを見れば分かる。 「今のところ、三の音がひとつ抜けていたぞ。最初からやり直せ」 そう言い終えて、また頁を一枚めくる。 「はーい、分かりました」 私の色あわせがイマイチだったことは、奴も絶対に気付いているはず。それでもちゃんと準備したそのままで着替えてくれたんだなと思うと、ちょっと嬉しい。次からはもっと気をつけよう、そう心に誓う。 侍女のお務めはその種類も内容も数え切れないほどで、短い期間で全てを網羅することは不可能だ。 それにしても。 暁高兄上のために、少しでも高い教養を身につけたいと思う。でも……果たして私に出来るのだろうか、間に合うのだろうか。 「おい」 再び声が飛んできて、手を止める。顔を上げると仕事が一区切り付いたのだろう、こちらに向き直った男と目があった。 「きちんと意識を集中してやれ。素人のくせに、心ここにあらずでどうする」 慌てて手元を確かめる。やだなあ、何でそんな細かいことまで分かっちゃうのよ。何を考えて弾いているかなんて、他人に確かめられることじゃないのに。いつもそう、こっちはそれなりに上手く出来てると思ってるのに、気が利かないだの余裕が感じられないだの言いたい放題。 まあねー、奴は奴なりに私をこき下ろすことで鬱憤晴らしをしているのだろう。身動きが取れないほどの激務に身を投じていれば、どこかに息抜きは必要になってくる。かといって、私をその標的にされちゃたまらないけどね。
「……さて、今日はこれくらいにしておくか」 二度三度と曲を最後まで通し、その後はいくつかの箇所を集中的に繰り返す。滑らかな流れるような旋律が多く、それを一息で途切れることなく弾ききらないとならないから気が抜けない。初めのうちこそは様々な雑念が頭をよぎるけど、そのうちに余計なことは何も考えられなくなる。 「貴子」 背後から声がして、どきりとする。狭い庵の中でどこにいても気配や視線を感じるのはいつものことだけど、この人って本当に音もなく移動するのよね。びっくりしちゃうわ。 「ちょっと手を見せてみろ」 そう言われたから、どうぞと両手を広げて前に突き出す。すぐには言葉が返って来なかったから、甲と手のひらと交互にひっくり返してみた。 「……やっぱりな」 したり顔で頷くけど、こっちには何のことかさっぱり分からない。きょとんとしたままその姿を見守っていると、やがて彼は袂から小さな塗りの入れ物を取り出した。 「何ですか、これ」 黒塗りの漆の上に色とりどりの花びらが描かれている美しいそれを不思議な気分で見つめていた。紅……にしてはちょっと大きいかな。だけどただの小物入れにしては小さすぎる。 「女子の美しさの全ては手元に表れるものだと言われる。まあ……その他全てが完璧であることは当然のこととしてな。気付いたときにきちんと手入れしておけ」
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「え、……ええと。兄から文が届いていたのですが、うっかり部屋に忘れてきてしまって。まだ中を確かめておりませんから、若様に宛てたものかどうかは分からないのですが……」 家人に悟られないようにとの考慮から、暁高兄上は若様宛の文も表書きは私個人宛のそれと変わらないように記している。今日は他の用事もあったから、つい後回しにしてしまった。 「すぐに取りに行って参ります。先に召し上がっていてください」 一度部屋内に上がってしまうと、出掛けるのが面倒になってしまう。だから草履を脱がないままで縁に膝をついて膳を部屋に押し込むと、そのまま向き直った。午前中に隅々まで掃き清めた庭が明るい日差しにきらめいている。同じ仕事を繰り返すことに何の意味があるのかと最初の頃は考えていた。でも、今は違う。こんな風に何もがすっきりしていると、気持ちが晴れ晴れする。 「そこまで急がなくてもいいのに。取りに戻るのは食事を済ませた後で構わないよ」 珍しく優しい言葉を掛けられて、首を横に振る。いつもは「馬鹿」とか「間抜け」とかそればっかだもの、何だか新鮮だ。 「いえ、急ぎの用事だといけませんから。すぐに戻ります」 大した距離じゃない、早足で往復すればそれほどの時間を掛けずに済むだろう。仕事を先延ばしでいると、どんどん億劫になってくる。気付いたときにすぐに片付けておいた方がいい。 そのときは本当に、すぐに戻るつもりだったんだ。 兄上からの文と、それから里帰りした姉君から差し入れられた珍しい干菓子。そんなものは彼には目新しくも何もないとは思うけど、どうせならご一緒にと思ったんだ。少しは驚いてくれるかな、そんなこともないかな。
川沿いの細道を急ぎ、敷地の裏側に回る。 石垣の間にある階段を上がるのはちょっと骨が折れるけど、出来るだけ人目に付かないようにするためにはこの場所を通るのが一番だ。思い思いに枝を伸ばした庭木の間をすり抜ければ、私の部屋がある対はもうすぐ。 足を洗うのもそこそこに縁に上がり、障子戸に手を掛ける。 大きく一度深呼吸して、思い切って障子を開ける。暗がりになった部屋奥、誰もいないはずのその場所でゆらりと人影が動いた。 「あら、貴子様。どちらに行かれていたのかしら、皆でずいぶん探しましたのよ?」 嫌らしいほどに色づいた口元がゆっくりと動く。 贅の限りを尽くした装束を重そうに引きずりながら顔を見せた兄嫁は、野歩きの姿のままの私を壇上からまっすぐに見下ろしていた。
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