穏やかな昼下がりの日差しが斜め後方から注ぎ込んでくる。縁から外壁に続く凹凸に合わせて不格好に折れ曲がった私の影、慌てていてまとめきれなかった後れ毛がみっともなくほつれているのが分かった。何でこの非常時に悠長に自分の影なんて確認しているのかしら? 「そ、その……」 あまりの驚きに未だに脳内回路がこんがらがったままの私は、余裕たっぷりな兄嫁の問いかけにはっきりとした口調で答えることが出来なかった。
―― どうしてこの人が、私の部屋にいるの?
普段から親しい間柄ならそれもあり得るだろうが、兄嫁と私の関係は言葉で説明するのがはばかられるほど微妙なものだ。前にこの対までお渡りになったのはいつだったのか、すぐには思い出せないくらい遠く記憶の彼方の出来事である。そのときにも数日前にはお知らせがあり、何とももったいぶったご訪問だった。 「義姉(あね)上様こそ、わざわざのお出まし如何なさいました? 何か、急用でもございましたか」 正妻腹の娘である私は、この館にあっては今や長兄に次ぐ地位にあるのだ。いくら兄嫁であっても、毅然とした態度で臨まなくてはならない。誰に教えられた覚えもないけれど、無意味に自分をへりくだることは亡き母上を冒涜するような気がしていた。 「いえ、取り立てて用事もございませんが。このように末妹君のご機嫌伺いをするのは家長の妻として当然の務めでしょう。ましてや母君を亡くしたあなた様にとって、わたくしは母代わり。何の遠慮がございましょうか?」 一応は礼儀をわきまえた物言いをしている様子だけど、その語尾にはいちいち私に対する当てこすりがはみ出している。 「それに、何やら妙な噂を小耳に挟みましてね。いえ、我が館の花とも宝とも評されるあなた様に限ってそのようなことはあり得ないことは分かっておりますけど」 いちいちこちらの反応を横目で伺いながら、やけにまどろっこしい口調で彼女は続ける。その口端の嫌らしいこと、ああこういうのを「下品」というのね。 「妙な噂……にございますか?」 私は慣れた手つきで懐から扇を取り出すと、それをごくごく自然な身のこなしで構えた。その姿をじっと見つめていた兄嫁の目の色がにわかに色づく。ふふん、そうでしょ、そうに決まってるでしょ? 扇の扱い方ひとつをとっても、そりゃあ大変なの。こんな風に何気なく装えるようになるまでどれくらい練習したことか。 「ええ、本当にとんでもない噂にございますわ。良家のご息女ともあろう御方が、昼夜を問わず供も連れずに野歩きを楽しんでいるなどと。もちろん、そんな話は意地の悪い者たちの作りごとに違いありませんわね」
……え?
今この瞬間にも、兄嫁の視線は降りしきる無数の矢の如く私に突き刺さって来る。だから、何があっても驚きをあらわにすることは出来ないのだ。もしもこんな風に自分の心の臓がねじれるほどの緊張が走っていたとしても。ここは深呼吸、深呼吸。全てに洗練されている女子は些細なことにみっともなく動揺してはならないのよ。 「まあ、驚きましたわ。私のことをそのように悪く言う者があるなんて、とても信じられません。事実無根とはまさにこのことですわ」 何、コイツ。 一体どれだけのネタを仕入れているというの? いきなりやって来たかと思ったら挨拶もそこそこに核心に触れるとなれば、かなり自信があるのでしょうね。そう確信して見つめる派手な化粧顔はますます性根悪い女狐のそれに似てくる。 この場はどうにかやり過ごそう。招かれざる客にはさっさと退散していただくしかない。 普段から一定の距離を保っていたからこそ、良い関係を守って来られたんじゃないの。ご自分からその砦を壊すなんてお考えにならないことね、兄嫁様。そりゃ、あなたにとって私は目の上のこぶよ。でも、もうしばらくのことなの。だって、私はこの上なく誉れ高い侍女として御領主様の御館に上がるのだから。そしたら、こんな風に直にお会いになることもなくなるでしょうよ。 どんな風に切り出そう。そう思って様子をうかがっていた私だったが、思いあぐねているうちに相手に先手を取られてしまった。 「それを聞いて安心しましたわ。さすが我が妹、十分に心得ていらっしゃる。この先も、身の回りのことには十分にご注意なさいませ。せっかくの良縁を取り逃がすことにならぬようにね―― 小絹(こぎぬ)?」 聞き捨てならない言葉を耳にした、と思った次の瞬間に表の障子戸がすっと開く。いつからその場所にいたのだろう、見覚えのない女の童(めのわらわ)が姿を見せた。 「あ、あのっ。義姉(あね)上様?」 突然の応酬にさすがに驚く私に、彼女は勝ち誇ったような笑みで振り向いた。 「この者は、わたくしの実家より連れてきた信用ある女子(おなご)です。ここの侍女たちは手ぬるくてあなた様のような御方には相応しくございませんわ。これからはこの者に全てのご用をお申し付け下さいませ。やれ、忙しいこと。急な縁談が決まって、わたくしは館の女主人として片付けなくてはならぬ仕事が山のよう。これからはこちらにもゆっくり渡ることが出来ないでしょうね」 仰々しく頭に手をやりながら、兄嫁は立ち上がる。そのまま部屋を飛び出していきそうな勢いでいるのを、私は慌てて呼び止めた。 「え、縁談にございますか? それは一体、どなた様の……」 もしもこちらの呼びかけに応じてくださらなかったときには、ずるずると伸びた重ねの裾を踏んづけていたかも知れない。しかしそこまでの大事には至らず、彼女は忍び笑いと共に足を止めた。振り向いたその眼差しは、座したままの私を射貫くが如く上から見下ろしている。 「あら、申し遅れました。でも、そのように確認なさる必要もございませんでしょう? この館で今や独り身で残っていらっしゃるのはおひとりだけ。御家にとってこの上ない良縁をとわたくしも長いことひとり奔走しておりましたが、ようやくその努力が実を結びましたわ。おめでとうございます、先方も御父上も乗り気でいらっしゃいますのよ」
それ以上のことを聞くことも、答えてもらうことも出来なかった。
◆◆◆ ちょっと待て、そんなの悪い冗談でしょう? だってね、仮にも私は正妻の娘なのよ。我が身の大事となる縁組みならば、まずは一家の主である父上から直々のお話があるのが当然。このように人づてに伝えられておしまい、なんてあり得ないの。 どうにか自分の気持ちを落ち着けようと試みるけれど、なかなか上手くいかない。先ほどの兄嫁の言葉に冗談めいたところは全くなかった。そうよね、あの女ならやりかねない。今までは様子見程度だと思っていたけど、水面下では自分にとってこの上なく目障りな私を排除する計画を着々と進めていたのだわ。 だけど、何でよりによって今。間が悪すぎるにも程があるわ、いい加減にしてよ。 「如何されましたか、お嬢様」 表の障子戸に映るおかっぱ頭がゆらりと動く。 「あー、ううん。あ、そうだ。あんたもちょっと休んできなさいよ。ええと、小絹って言ったかしら? この渡りをちょっと行ったところに侍女たちの居所があるの。丁度小腹も空いた頃じゃない? いいわよ、こっちはひとりで大丈夫だから」 そんな風にね、さり気なーく提案してみたのよ。何度も何度も飽きもせず。でも、そのたびにぴしゃりと切り替えされてしまう。 「いいえっ! わたしは大丈夫です。ここで昼も夜もお嬢様に大事がないようにお守りするのがお務め、食事などは他の方が運んでくださいます。わたしは奥方様のお申し付け通り、片時もこの場所を離れませんから……!」 とても七つ八つの幼い面差しから生まれる言葉とは思えない。その迫力に根負けして、気付けばもう夕方。そろそろ夕餉の膳が届く時刻になっていた。 子供相手に本気で喧嘩してもねえとか思っちゃう辺り、もしかして兄嫁の術中にはまっちゃってる? ああ、イライラするったら。 「ねえ、小絹。私は本当にいいのよ、あなたも楽にしてどこかで羽を伸ばして来なさいよ。何も告げ口したりしないから」 燭台を灯しに来た横顔に再び問いかけるが、無言で首を横に振られてしまう。あーやだ、信用ないんだなあ私って。まあ、仕方ないかな。この者はもともと兄嫁の息が掛かっているんだから。だけど、困った。 そして。
この私の窮地を他の誰が知っているとも期待できないわ。何しろこの部屋があるのは館でも一番奥まった対で、それこそ急用でもなければ訪れる者はまばらなのだ。身の回りの世話をしてくれる数名の侍女以外とは顔を合わせないまま数日を過ごすなんてそう珍しくない。 「小絹、ねえってば」 きつく一文字に閉じたままの口元。私、この子にとても嫌われているんじゃないかしら。本当に何を言っても駄目なの。どうにか父上に取り次いで欲しいと頼んでも、まずは兄嫁にお伺いしないといけないからというのよ? そんなのってないでしょ、娘が実の父と話をするのにどうして他人の許しが必要なのよ。 この子、そう言う話も知ってたりするのかな? いや、どうかなあ。兄嫁だって、こんな小さな子供に何もかも打ち明けることはあるまい。だけど、……もしかして。聞いてみる価値はあるかな。 「や、やめてください! 危ないですっ!」 やばい、そう言えば灯りをつけている最中だったんだっけ。少し袖を強く引きすぎたのだろうか、おぼつかない手元で必死に火をくべていた小さな背中が大きく傾く。その拍子に火の付かないままだった燭台が嫌な音を立てて倒れた。 刹那、その物音よりもずっと大きな悲鳴が上がる。 「いっ、いやあっ! ど、どうしようっ、叩かれる、叱られる……!!」 驚いて声の方向を見ると、彼女は身体をふたつに折って大きく震えていた。でも、まだ火は付いていなかったんだし、どこかが壊れた訳でもない。だからこそ、異常とも思える怯え方にこっちの方が驚いてしまった。 「もう、嫌ねえ。……小絹、小絹ってば」 呼びかけながら、私は自分の手で燭台を元通りに立てた。別にそんなことは使用人の仕事なのだから放っておけばいいかなとも思うけど、何しろ暇だし。それに……この子がやるより私がやった方がよっぽど手際がいいわよ。 「ほら、叩いたりしないから顔を上げなさい。ちょっとここ、蝋燭立ての部分を見てみて。こんな風に蝋が垂れて山盛りになっていたら、上手くいかなくて当然よ。まずは綺麗に掃除して、それから新しいのを立てなくちゃ。こんな風にへらでこびりついた部分をひっかき出すの、すごく簡単でしょう?」 やっとこっちに向き直った小絹の頬が涙で濡れている。 何かやりにくいなあ、この子って気丈そうに見えたけど実はいっぱいいっぱいでやっていたのね? よく考えたら健気よねえ、あんな兄嫁の下に仕えていたんだし。
その後、私と小絹は一緒にひとつひとつの燭台を灯していった。 「まずは真っ直ぐに揃えてね、それから見返しのところまで折るの。そう、とても上手」 なんか信じられない、自分がこんな風に指導する立場になるなんて。当たり前のことをすごいと言われて、どうしてそんな風に出来るのですかと羨望の眼差しを向けられたらたまらないわよ。 「わたし、驚きました」 どれくらいを過ごしてからだろう。他愛のない世間話を続けているうちに、小絹がぽつりと呟いた。 外はすっかりと夜のとばりに包まれている。小さくて、よく注意していなかったら聞き逃してしまっていたかも知れない一言。私の衣を扱う指先が止まった。 「奥の対のお嬢様はそれはそれは変わり者で、皆から甘やかされていることをいいことに好き放題なさっている方だと聞いていました。でも、実際お会いしてみると全く違います。それにとてもお綺麗な方、わたし今までにあなたのようなお美しい方にお目に掛かったことはございません。しかもお姿に似つかわしい優雅な立ち振る舞いで……」 え、……もしかして。私のこと、誉められていたりする? そりゃあね、母上似のこの器量は様々な言葉で賞賛し続けられてきたわ。だけど、何というかそういう決まり文句って薄っぺらいのよね? ああ口先だけでものを言っているんだなあとか冷めた気持ちで聞いていたわ。 「あ、……ありがとう。でもこれくらいは当然のことよ、あなただってすぐに出来るようになるわ」 慌てて扇で口元を隠しながら、ようやくそれだけ返事した。別に謙遜した訳じゃないの、ホントのホントにそう思うわ。だって私だって、数日前までは作法のひとつも知らない駄目娘だったのよ。今だってとても誉められたものじゃないことは分かってる。でも、少しでも努力したから、だからこそ与えられる評価が嬉しいの。 そう思ったら、胸の奥がじんとして自然に笑みがこぼれた。この子が兄嫁の手の者だと言うことは分かっているわ。だけど、ふたりで一緒にいる間に和やかな時間を過ごすことに何の躊躇いがあるというの。 「夕餉が済んだら、少し琴の稽古をしたいの。そのときはあなたも支度を手伝ってね」 もう、今夜の逃亡は無理と諦めるしかないわ。私は自分の発した言葉のあとに、ぐっと腹をくくった。 そりゃ、若様のことは気に掛かる。きちんと通うって約束したのに、突然姿を見せなくなったりしたらお怒りになるかしら? それともようやく面倒な肩の荷が下りたってホッとなさっているかしら? まあ……でも。とりあえず、昼餉の膳は二人分の量があったし、一食ぐらいはどうにかしていただこう。 今日はこれ以上、小絹に辛い思いをさせたくはない。そして、出会ったばかりの小絹の他には私が信頼を寄せられる使用人が思いつかないのだ。本当に今まで何をしていたのだろう、面倒なことから目を背けて生きてきた私が、自分自身と正面から向き合えるはずもなかったのに。
部屋の隅に置かれたまま、つま弾くことすら久しくなかった琴。ぞっとするほど埃が積もっていた。 ずいぶん可哀想なことをしてしまったなと思う。苦労しながら弦を張り直し、ひとつふたつと弾いてみる。特上の品には遠く及ばないまでも、どうやら一通りの演奏は出来そうだ。 今宵は私の手元を鋭く見守る眼差しはない。だけど、この音が河沿いの細道を辿って竹林の庵まで届くようにと奏でよう。今の私にはひとことの言葉を届けることも出来ない、もしかしたら永遠にその機会は訪れないかも知れない。……駄目、そんなことを考えたら。
その夜、私は初めて知った。 古から人々に愛され続けた幾多の楽曲はただ奏でるものではない、その音色に確かな想いを乗せて誰かに届けるためにあるのだと言うことを。
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