翌日。 恭しく朝の挨拶を終えた後に寝所の襖戸が開かれる。次の間からおずおずと姿を見せた小絹であったが、次の瞬間には朝露よりも清らかな羨望の目で私を見上げていた。 「……まあ! お嬢様は朝もお早いのですね!」 バラ色に頬を染める女の童の瞳に映っているのは、すでに身支度を終えてしっとりと佇んでいる私の姿。滑らかな髪が流れ落ちるのは、早春に相応しい萌葱の重ね。地色の上に純白の花びらがちらちらと舞っている愛らしい絵柄だ。少しばかり子供っぽいかなとも思うけど、とても気に入っている。 「いいえ、それほどでもないでしょう」 にわか仕込みの早起きではあるが、早速このように役に立つとは嬉しいことだ。だけど、ちょっと退屈だったかな。小絹の到着を待つ間に、毛筆の稽古も一通り終えてしまった。それでも時間が余ってしまって納戸の片付けを始めてしまったりして。あの場所は面倒で後から後から詰め込むばかりだったから、とんでもないことになっていたわ。 「そ、そうでした! 御台所に参りましたら、朝餉の膳はすでにこちらに届けられたとのこと。行き届かずに大変申し訳ございません、もうお食事はお済みですか?」 問いかけにはすぐに答えず、私はひれ伏した娘の姿を静かに見守った。さて、どうしたものだろう。まず先に何と言って切り出そうか。 「―― 夜中は、外に別の見張りの者がいるのね」 すっと血の気の引いた丸い頬を横目でちらりと見やる。あまりまじまじと見つめたら、睨み付けているように思われるかも知れない。それではかえって逆効果だ。 「はっ、……はい。やはり奥方様のご意向で。最近はこの辺りもひどく物騒でありますから、と」 そんなことだろうと思った、あの兄嫁が考えそうなことだ。向こうは上手に隠れているつもりだったのだろう、でも見慣れた庭がどこか違って見えるからすぐに分かっちゃうのね。 「そうであったの、先だってのお話が何もなかったから実のところとても不安だったの。だって知らない者が部屋表にいたら、誰だって驚くでしょう。でもそれも、義姉(あね)上様が私のことを思って下さってのことだったのね。本当に有り難いことだわ」 私の控えめな言葉に、小絹はとても同情したようだ。そしてこちらの心労をいくらかでも取り除きたいと思ったのだろう、こっそりと付け足す。 「それに……あの者はわたしの兄なんです。決してお嬢様に危害を加えるような真似はしません」 ゆっくりと頷いてみせると、彼女の硬い表情も幾分和らいだ。そう、これでいい。この子は結局のところ兄嫁に仕える立場なのだ。今は波風を立てない方が得策である。 「まあ、それはとても心強いことね」 昨日、小絹は言った。昼も夜も片時も離れず私の側にいると。でもさすがの兄嫁もまだまだ幼さの残る娘子にそのような大役を任せるのは不安だったのだろう。寝の刻近くなってから迎えの者が来て、短い会話の後に彼女を連れ帰った。 心を静かにくゆらせながら、私は次の出方をうかがった。こうしている間にも、どんどん時間は過ぎていく。何か行動を起こすのなら、少しでも早い刻限の方が良い。いつもだったら、もう庵まで到着している頃だわ。 「あのね、小絹」 やはりこの者以外に頼れる人間はいない、そう信じて全てを委ねるしかないのだ。膝の上で握りしめた手のひらにじっとりとかいた冷や汗。もしかしたら、私のこの判断で何もかもが台無しになるかも知れないのだ。 「あなたにお願いしたいことがあるの。……まずは、私の話を黙って聞いてくれるかしら?」
◆◆◆
慌てて出向くのもみっともないと思い、ゆっくりと時間を掛けて支度をする。しびれを切らして幾度も声を掛けてきた侍女は、以前はこの対で私に仕えていた者。だからといって遠慮する必要もないというのは違うと思うの、何よ偉そうに。 ―― やっぱりね、思っていた通りだわ。 兄嫁は「家長の妻」としての立場をはっきりしたものにしたいと思っているのだろう。ご自分の名前で館主の娘である私を呼び立てるなど礼儀知らずも甚だしいわ。少し前までの私だったら、腹立ち紛れにあれやこれやと理由を付けてお断りしていただろう。だってそうでしょ、間違ってるのはあっちなんだから。 でも、今の私は違うわ。有り難くもお誘いを頂いたのだからとゆったり構えることが出来る。相手の思惑を承知した上で大人な態度に出られるってすごいことよね。
「あら、小絹はどうしました。ご一緒するようにと申しつけましたのに」 一通りの挨拶を終えた後におもてを上げると、上座になるその場所には鋭い眼差しの女狐が待ち構えていた。もしかして、昨日の私の態度に対する当てつけかしら。嫌だなあ、大人げない。 「はい。あの者には用足しを頼みましてあいにく出掛けております。本日は亡き我が母上の月命日に当たります故、祖父母の家までご挨拶に。事前にお許しを頂かないままでありましたが、宜しかったでしょうか?」 前もって用意してあった言葉を静かに伝える。ふふ、母上のお名前を出したのが効いたのでしょうね、すぐには返答が戻ってこない。 正妻の他に側女(そばめ)を幾人も囲うことは一家の主としてはそれほど珍しいことではないわ。でも我が父上のように、不幸にも妻に先立たれ後妻を迎えることになるといろいろ面倒なことになる。だって「本妻腹の子供」であってもそれぞれの母親が違うのよ。と言うことは支えてくれる実家もおのおのが異なると言うこと。これって、扱いが難しいわよね。 「ま、……まあ。それでは致し方ございませんね。ええ、もちろん宜しゅうございますわ。あの者は貴子様の意のままに扱って結構ですのよ。いちいちわたくしに申し立てするなどご面倒でしょうし」 私は扇に口元を隠したまま、人知れずほくそ笑んだ。良かった、いろいろ考えたけどこの言い訳が一番いいと思ったのよ。今頃、あの子は竹林の隠れ庵まで到着した頃かしら。使用人の重そうな装束を脱がせて軽装のものと取り替えたから、人目に付くこともないと思う。きっと上手くやってくれると信じているわ。今はあの子を信じるほかに道はない。
「実は……私、以前お世話になった方へ心ばかりの恩返しをさせていただいているの」 相手がどのような御方かは詳しく話していない。朝餉の膳の中から運びやすいものだけを小さな行李に移しておいた。それを風呂敷で包めば、ただの使い物にも見えるだろう。庵に着いたら表の縁でご挨拶を申し上げて荷を置いてくればよい。 「す、素晴らしいです! お嬢様はそのようなことまでなさっていたのですね。わたし、何も存じ上げなくて……ああ、恥ずかしゅうございますわ」 事実を告げることなんて絶対に出来ないから、恥ずかしいのはこっちのほうなんだけどね。まあいいや、勘違いでも何でもすんなり納得してもらうことが先決よ。 ああ、どうか全てが上手くいきますように……!
「小絹のことはもういいでしょう、それよりもね? 今日は貴子様にいろいろご覧に入れたいものがありまして。いちいち奥の対まで運んでいくのも大変ですし、失礼とは存じましたがこうしてお呼び立てをしてしまいましたわ。それに……あちらの対もそろそろ荷を整理していただきませんと」 聞けば、私が婚家へ輿入れした後はあの対を生まれたばかりの長兄夫婦の娘に使わせたいのだと言う。何てこと、場末で使いにくいからと人にあてがっておきながら今になってそんな風に言い出すなんて。 「手狭で使いにくい部屋ばかりではございますが、あれでなかなか良い材木を使って贅沢に建てられていますからね。娘の心身を育むには何よりの環境でしょう。やはり幼い頃より本物を見る目を養わなければなりませんよ」 開いた口がふさがらないって、こういうこと? 何よ、側に控えている侍女たちまでが兄嫁の意見に大きく頷いているなんて。一体、私を何と思っているの。このたびの縁談は、体のいいお払い箱ってことかしら。 それに、何なの? この部屋の下品なしつらえは。 亡き母上や暁高兄上と暮らした思い出の場所が、今では見る影もない有様。仰々しく金箔を施した見るからに安っぽいお道具ばかりが隙間もないほど置かれている。 「そうそう、前置きはこれくらいにしましょう。さあ、まずはこちらをご覧下さいませ。このたびは貴子様のためにと新しい衣装をいくつも作らせましたのよ。ほら、このお色など本当に良くお似合い。是非、鏡の前であててみて下さいな」 もったいぶって取り出される衣たちにも唖然としてしまう。何、それ。まさかそんな下品なものを私に身につけさせようって言うんじゃないでしょうね? ああ、嫌だ。「馬子にも衣装」と言うけれど、その逆に衣装で品格が下がるってことも十分あり得る。そりゃ、以前から兄嫁の美的感覚には首をひねることが多かった。だけど、まさかそれを自分に押しつけられることになるなんて。 「あ、あの―― 」 このままだと完全に兄嫁のペースになってしまう。どうにかしなくてはと慌てて口を開いた丁度そのとき、奥の間へ続く襖戸が開いた。 「おや、貴子ではないか。楽しそうな話し声がすると思ったが、だいぶ盛り上がっている様子だな」 違います、長兄様。アンタの目は節穴ですか? 負のオーラが吹き荒れるこの部屋のどこが盛り上がってるっていうのよ。何か言葉を返そうと頭をひねっていたら、それより早く義姉が遠慮も知らずに割り込んでくる。 「ええ、左様に。見ての通りにございます」 どう考えても不自然でしょ? それなのに長兄ときたら、にこにこと頷くばかり。 「私も話に加わりたいところだが、あいにく今日は父上と一緒に遠方まで買い付けに行くことに決まっているんだ。時間がないのでこれで失礼するよ。このたびの縁談はとにかく貴子が乗り気でいるそうだしな、先方のことは私よりも奥の方が承知しているから良く聞きなさい。いろいろ教えていただくのだよ」 表からは出立を告げる声がする。本当に出掛ける刻限が迫っているらしい。でも……ちょっと待って! 何よ、今の話は。聞き捨てならないわっ! 「お、お待ち下さいませっ! あの兄上様っ、私が乗り気って……」 思わず身を乗り出そうとしたのだけれど、どういうわけか身体が固定されて動けない。ぎょっとして振り向くと、何と義姉上が私の重ねをしっかりと押さえ込んでいるではないか。 「何、照れることなどない。あちらは河行商の同業者としては新顔だが、かなり手広く頑張っているようだしね。両家の結びつきは必ずや将来のためになるだろう。それをいち早く見抜くとは貴子には先見の明があると言うことだね」 人格の変わってしまったような高笑いまでなさって、一体どうしてしまったのかしら? 呆然とするばかりの私の背後から、兄嫁の勝ち誇った声が聞こえた。 「本当にその通りですわ、山辻の勢いは今や留まることを知りませんもの。ふたつの家が手を組めば、御家の安泰は間違いございません。貴子様からお申し出があったときは驚きましたが、誠に素晴らしいお話で今はわたくしも心より喜んでおります」 周囲の侍女たちもそうだそうだと褒めそやす。 まさかそんな、絶対に違う。私が狙っていたのは誰もが憧れ敬う玉の輿よ、どうして同業者の、それもどこの馬の骨とも分からぬ家に嫁がなくちゃならないの。それにそれに、何故言い出しっぺが私になってるのよっ! 変よ変っ、絶対に変……! 「―― 貴子様」 こちらの話など全く聞こうとしない長兄はさっさと出掛けてしまい、残された私は途方に暮れるばかり。そして、私の名を呼ぶのは。このたびの全てを牛耳っているとしか思えない横暴な女主人の声。 「宜しかったですわね、皆様もそれはそれはお喜びになって。いつまでも奥の対で日の目を見ないあなた様のことを父上様も我が背の君もとても案じておりましたの。ええ……これで全てが上手くいきますわ」 この家には、もはや私の味方などひとりもいない。それどころか、知らぬ間に皆からこんな風に厄介者扱いされていたなんて。唯一の望みの暁高兄上も、すぐには助けを求めることが出来ない遠い場所にいらっしゃる。
―― 違う、絶対に違う。こんな展開、私は少しも望んでいないわ。
いつの頃からか、何かが少しずつ歪み始めていた。それに少しも気付かなかった私の方が愚かだったのだろう。どこかに好転の道はあるのか、このまま流されるままなのか。 それだけは、紛れもない。
◆◆◆
軟禁三日目。 障子戸の向こうの控えめな声にふと我に返ると、辺りはいつの間にか夕暮れの朱に染まっていた。そうか、いつもの使いに行ってもらってたんだっけ。今は夕餉の膳を届けて戻ったところね。 「ええ、ご苦労様。大丈夫よ、ちゃんとここにいるわ」 これが自分の声なのかと疑ってしまうほど覇気がない。まあ、そうだろうなあ。あのときから、私にとって何もかもが無気力なものに感じられていた。 ごめん、暁高兄上。私は兄上のために必死で頑張るつもりだったんだよ。それなのに……もう何も出来なくなっちゃった。若様にも二度とお目に掛かることはないだろうな。すごく残念、せめてひとこと今までのお礼を申し上げることが叶えばいいのに。 このたびの婚礼のことについても、詳しいことは未だ何ひとつ聞かされていない。他の誰よりも私自身が乗り気であるはずのこの話が私の知らない場所で進められているなんて絶対におかしいわ。それなのに館の誰もそのことについて疑いを持たないのだもの。 「そろそろ灯りをつけましょう。……まあ、またお食事に手を付けていらっしゃらないのですね?」 身の回りの世話をしてくれるのは、相変わらず小絹ひとり。他の侍女たちは使いに訪れる以外はこの対に足を踏み入れることはない。唯一の例外と言えば御台所の者たちで、彼らはこちらが指示した刻限に変わらずひとり分には多すぎる膳を届けてくれる。夜の御庭番はいつも小絹の兄だ。 「ごめんなさい、何だか食欲が湧かなくて。もし良かったら、代わりにあなたが食べてちょうだい」 小絹とその兄は、同じ頃に兄嫁の実家へ働きに出た。父親はすでに亡く、残された母も病弱で月々の薬代だけで大変らしい。そのいくらかを奉公先に工面してもらっているとのこと。何だかそんな話を聞いてしまうと、無理なお願いなど絶対に出来ないって思っちゃうよね。周囲に言われるがままにしていれば、日々の暮らしに苦労することもない私は本当に恵まれているわ。そう思わなくちゃならない。 「……お嬢様……」 まだまだあどけなさの残る面立ちではあるが、小絹はとても賢い娘だ。自分自身が大変な身の上なのに、こちらのことまで気遣ってくれるのだもの。この子には幸せになって欲しいなと思う。ううん、私などが願わなくてもきっと大丈夫。いらない心配は掛けたくないから、元気にならなくちゃ。 「さあ、辺りを片付けたら今夜は何をしましょうか? ……そうそう、また絵巻物を眺めましょうよ」 探るような眼差しを振り切って、私は静かに微笑んだ。この子といつまで一緒にいられるだろう。その日が来るまで、ふたりで楽しい時間が過ごせればいいな。
綺麗に磨かれた板間の上に、私は一番のお気に入りの王朝絵巻を広げていった。 ほんのり金色の灯りに照らし出されるのは、四季折々の花が咲き乱れる夢の御殿。でもどうしたことだろう、そこに描かれた人影たちが今では生気の抜けた亡霊のように見える。 「ごめんなさい、ちょっと待って……!」 知らずこぼれたしずくを大切な絵の上に落とさぬように袂でぬぐう。その後、俯いて泣き顔を隠した。 やっぱり口惜しい、一度でいいから私も夢の世界の住人になりたかったな。だけど、もう遅い。道は全て閉ざされた。これがいつか言われた「身の程をわきまえる」ってことなのだろうか。 「……あの」 どのくらい時間が経っただろう。信じられないほど低いその響きに、最初は誰の声か分からないほどであった。でも、この部屋にいるのはふたりだけ。私の他には小絹しかいない。 「お嬢様、お加減が悪いのでしたら明日からは本館の奥へはお出でにならない方が宜しいのではないでしょうか? わたしからそのことを奥方様へとお伝えします。ですから、……お嬢様は」 そこまで言い掛けたところで彼女は辺りをうかがい、肩先でふっつりと揃えられた朱色の髪が舞い上がる。静けさを確かめて向き直った小絹は、こちらへと膝を進めるとおもむろに私の両の手を握りしめた。 「こちらはわたしに任せて、あの庵にお出掛け下さい」 あかぎれのたくさん出来た小さな手には信じられないほどの力がこもっていた。小絹は私としっかり目を合わせて、大きく頷く。 それ以上の言葉はいらなかった。
|