私だって、救いようのない馬鹿じゃない。 だから今、自分が何をしでかしているかくらい、ちゃんと承知してる。分かっているはずなのに……、どうして再びこの小道を歩いているのだろう。 白くけむった気の中を足早に進む。後ろから誰かが追いかけてくるのではないか、不安のあまり幾度となく振り返って確かめたくなった。そんなことをしたら、かえって怪しまれるだけ。自分で自分の気持ちを抑えるのにもう必死だ。
「お嬢様、こちらをお使い下さい」 一体、どこから集めてきたのだろう。昨夜のうちに、小絹は控えめな色目の衣を一抱えほども準備してくれた。どれも何度水を通したのか分からないほどすすけていて、元はどのような色をしていたのか想像も付かないほどである。綺麗に手入れされてはいるものの、手の取る前からがざらっとした肌触りが予感された。 「御髪も出来るだけ目立たないようにまとめましょう。ええ、大丈夫。きっと上手くいきますよ」 年端もいかぬ小さな手で、たどたどしく支度を手伝ってくれるその姿に疑うべき色は見当たらなかった。だが、全面的に信用して良いものかはまだ分からない。この娘は兄嫁の息が掛かった者なのである。私を四六時中監視して、少しでも不審な点があればすぐに報告するように言われているはず。このように手助けしてくれる立場にはないのだ。 「……お嬢様?」 隠したくても隠しきれない疑惑の心が伝わってしまったのだろうか。小絹は私の髪を梳く手を止めて、そっと横からうかがっている様子だ。 「その……、わたしも正直とても恐ろしいです。奥方様のご命令に背いたとなれば、どんなお咎めがあるか知れません。でも、このままではあまりに気の毒です。お嬢様も……それから、庵の御方も」 さらに声を低くして、小絹は最後の言葉を付け足した。刹那、私の身体がすっと強ばる。心を鎮めるために、返答するのはしばらくののちになった。 「小絹、……あの御方にお会いしたの?」 あれだけ思慮深く慎重なお方が、そのような不用意な真似をするはずもない。頭ではそう分かっているのだが、どうしても確かめたかった。こちらが訊ねる言葉を言い終えぬうちに、小絹は迷いなく首を横に振る。それから年齢に似合わない大人びた表情で私に微笑みかけた。 「いいえ、わたしはお声を掛けていただいただけです。それから障子越しに……ちらと影だけ拝見いたしました」 その返事を聞いて、ホッと胸をなで下ろす。もしも若様のことが他の誰かの耳に入ったらとんでもないことになるだろう。せっかく暁高兄上が私を信用して託してくれたのに、それでは申し訳なさ過ぎる。 「ほんの二言三言ですが、お優しいお言葉を下さいました。控えめな、それでいて匂い立つような美しいお声で」 どこか遠くを見るような眼差しになって、小絹は赤らんだ自分の頬にそっと手を当てた。しかしその後、ふっと表情を曇らせる。 「でも……お嬢様のことをお伝えすると、とても悲しいお声になるんです。それを聞いていると、わたしの方まで胸が締め付けられる想いがします。……ですから、やはりお嬢様にお出掛けいただきたくて」 小絹には三度三度の膳を二日に渡って届けてもらった。危険なので文などは持たせていない。もしも無事に若様の手に届かずに行方知れずになってしまっては大変だ。だから、こちらの状況などあちらがご存じなはずもない。 ―― 震えるお声で「貴子に会いたい」と仰って……。 そんなはずないでしょ、と即答しそうになってしまった。あの御方のことだ、こちらの不義理に腹を立てていることは十分あり得ると思う。だが、小絹が言うようなお気持ちになるなんて到底考えられない。きっと幼い純粋な心が良心的に受け取ったまでのことだろう。 ……しかし。 じゃあお前はどうなのかお会いしたくないのかと聞かれたら、どんな風に私は答えるだろう。もちろんこの話に乗ってしまった一番大きな理由は与えられた課題を途中で投げ出すのが嫌だから。だが、……それだけではない。 あの庵での出来事は私にとってどこまでも非日常的で、このまま夢で終わったとしても少しもおかしくないと思う。つかの間とはいえご一緒させていただいたのは、この先にどんな長い人生が続いていこうとも再びお姿を拝見することはおろか正式なお名前を口にすることすら憚られる御方なのである。 再びお目にかかれるのは、本当に嬉しい。だけど、どうしよう。今の立場を考えれば、もうこれきりにしなくてはならないと思う。それをどうお伝えしたらいいものか。 現状をありのままに伝えるのが一番かとも思えるけど、そのようなことを申し上げたところで自分や実家の恥を晒すだけの結果になりそうだ。余計なことを聞かされた若様もお困りになるだろう。窮地を救って欲しいという気持ちはさらさらないが、そう考えていると誤解されても面倒だ。 若様は私が御領主様の御館で侍女として認められるように手助けしてくださると仰った。だけどそれは、私自身の態勢が整っていればと言う前提付きのこと。出仕できる立場にいない者を無理矢理連れ出すなんてありえないわ。
―― やはりここは、事実だけを簡潔にお伝えするまでだろう。 庵の表に到着する頃、ようやく自分なりの考えがまとまった。 もう一度、大きく深呼吸をして気持ちを整える。うん、きっと大丈夫だ。 「おはようございます、朝餉の膳をお持ちしました」 深く頭を垂れると、湿った髪がしっとりと頬に掛かる。縁の上に置いた私の手の先で、すっと障子戸が開いた。こちらがその場所に触れようとした、まさにそのときである。 「今朝は時間通りだな」 頭上から降ってくる声に、すぐには姿勢を戻すことが出来ない。声のする角度から考えて、戸の影に隠れてお立ちになっているのだろう。ほんの数日前に聞いたばかりの響きがとても遠く懐かしいものに思えた。 「……」 身体が動かないどころか、声までを扱うことが出来なくなってしまったことに少し遅れてから気付く。私の周りでふわりふわりと揺れる朝靄。 「―― なかなかいい格好だ。初めからそんな風にしていれば良かったのに」 初めは何のことを言われているのかも分からなかった。そして追い打ちを掛けるような忍び笑い。畳の上を遠ざかっていく足音にハッと我に返る。 ああ、駄目じゃないっ! いつまで呆けているのよ、私は。 「すっ、すみません……! すぐに支度を致します」 丁寧に運んできた膳をまずは部屋の中に押し込み障子戸を閉め、その後に一度階段の下まで降りる。そうか、ご挨拶の前に身なりをきちんと整えなくちゃならなかったわ。下働きの姿じゃお部屋に上がることは出来ない。もう、遠回しに馬鹿にされちゃったじゃないの。 「失礼いたします」 もう一度ご挨拶のし直し、なんか間抜けだけど仕方ない。やっと解き放たれた髪が、私の動きに合わせて静かに流れた。 「今朝は特に温め直しをするものはございません、どうぞこのままお召し上がり下さいませ」 一呼吸置いてから顔を上げて、そしてようやく部屋奥の御方へと視線を向ける。あからさまにお顔を見ることはなかったけど、それでも彼の眼差しがはっきりと感じ取れた。だけどそれが言わんとすることを確認出来るほどではなく、ただただ落ち着かない心地がする。 話を切り出すなら今だろうか、でもそれではあまりに唐突と思われるかな。ああ、どうしよう。ちゃんと考えてきたはずなのに、いざとなると言葉が浮かばない。 「おっ、奥の間を片付けて参ります」 駄目だ、もう少し心を落ち着かせてからじゃないと。弱気な自分に腹を立てながら、私はそそくさと立ち上がると勝手知ったるその場所に逃げ込もうとした。いつもなら感じる躊躇いも、この際脇に追いやってしまう。 「貴子」 襖に手を掛けたところで、背後から声を掛けられる。 「枯れ木の下には紅梅が咲いていたのか。……ま、思いがけずに気の早い花見を楽しむのも悪くない」 今朝の私は鮮やかな花色の重ねをまとっていた。手持ちの衣の中でも特に品物が良くて、しかも私の肌色や髪の色にとても似合うもの。西南の民の鮮やかな赤髪やはっきりした目鼻立ちではなかなかこれでいいという一枚に辿り着かないと言われるが、この衣を手に入れたときは本当に嬉しかった。 刹那、胸の奥がちりっと痛む。どんなお顔をなさっているのか確かめたいと願いながら、ついに振り向くことは出来なかった。
その後、寝所の片付けを始めたものの気はそぞろ。 自分の意志とは関係なく、ただ手と足が勝手に動いているような感じだった。そうであっても気がつけば辺りがきちんと整っているのだから驚いてしまう。板間もすっきりと拭き上げついでに表の縁も片付けてしまおうと畳の間に戻ると、そこで再び呼び止められた。 「拭き掃除はあとでいい。今日は今まで書きためたものをまとめるのを手伝って欲しいのだが」 すでに積み重ねられた書はいくつもの山になり、眺めるだけでも途方もない量だった。確かにこれをひとりで綴じるのは大変だと思う。お助けしたい気持ちはやまやま。でも、私はその言葉に首を横に振るしかなかった。 「すみません、今日は早く戻らなくてはならないので……」 それまでの躊躇いが嘘のようにするすると言葉が出た。ああ、そうか。今こそが話を切り出すときなのだと思う。しかし私の次の言葉を、若様の眼差しが遮った。 「時間がない?」 ぴくんと眉が跳ね上がる。それだけで周囲の気の色までが違って見えるのには驚いた。だが表情の変化はそこまで。 「何故、それを早く言わない。ならば手習いを先にしよう、まだいくらかの暇はあるだろう」 有無を言わせぬ強い口調に押し切られた。 断り切れないままに琴を出し、二度三度と通しで弾いていく。その後いくつかの部分を重点的に繰り返し、最後はもう一度初めから通して。一息つく間もないほどの集中であったが、多くのものを手に入れた実感が指先に残った。
「戻るなら、これを持っていけ」 元の通りに髪をまとめ、上の衣を羽織ろうとしたときだった。手渡されたのは、艶やかな墨文字をしたためた一枚。よくよく確認すれば若様のお手蹟(て)と分かるものの、ぱっと見では女子のものとしか思えない。 「お前の家にも硯や筆くらいはあるだろう。せいぜい励むことだな、こればかりは繰り返し精進するしかないのだから」 ひとことお礼を申し上げようと顔を上げたとき、彼はもう自分の仕事に向かっていた。私がこの場所にいることなんて、すっかり忘れてしまったかのように平然としている。 頂いたものを懐にしまい、私は静かに立ち上がった。
◆◆◆
一刻ほどで舞い戻った私を、小絹は驚きと躊躇いの表情で迎え入れた。その慌てぶりからいっても、もうしばらくは留守を預かる覚悟であったのだろう。外歩きの足を洗うのもそこそこに奥の寝所へと押し込まれる。こんな姿でいるところを誰かに見られたら大変だというのか。そうしている間も、始終周囲を確かめている。 「いえ、そのようにもいかないでしょう」 どうにか安全な場所まで辿り着くと、私はようやく重い口を開いた。まだ動悸がする、何事もなく平穏に過ごしていると信じながらも戻り道はついつい早足になってしまったようである。 お茶の支度をしますと小絹が部屋を出て行くと、私は急に重いものを背負った気分になって肘置きに身体を預けた。久しぶりの野歩きに身体が参ったというのもあるが、それだけが理由ではない。 結局。庵の貴人に何ひとつお伝えすることは出来なかった。これでは何のために意を決して出掛けたのか分からないではないか。 「でも宜しゅうございました、先様もさぞお喜びになったことでしょう」 茶の盆を手に戻ってくる足取りにも喜びが溢れていた。でもその一方には、この者のことをまだ信用しきれない私がいる。どんなにその心を浅ましいと呪いながらも、疑念をぬぐい去ることが出来ないのだ。声には出さずに笑みで応えると、娘はますます嬉しそうな顔になる。 ―― 本当のことなど、言えるはずがないじゃないの。 まるで、私が姿を見せなかった数日間のことなどお忘れになってしまったかのように振る舞うお姿に拍子抜けして、あとは流されるままに過ごしてしまった。 けど、その辺りを指摘したら―― きっと、とんでもない言葉や態度で馬鹿にされるんだろうな。ああ、想像もしたくない。 小絹が何をもって間違った認識をしてしまったのかは分からないが、その情報を心の片隅だけでも信じかけていた自分が恥ずかしい。まあ、……いきなり手を取られて「お前に会いたかった」などと言われたら、それこそ気が狂ったかと思っちゃうだろうけど。ま、あの御方に限って、そんなことはあり得ないわね。
「小絹」 湯飲みが空になったところで、私は姿勢を正す。ただうだうだ悩んでいるばかりじゃ始まらない、そう自分に言い聞かせて。 「硯と紙を用意してくれるかしら? まだ昼の膳が届くまでには間があるから」
籠の鳥であるという事実は今も変わらない、だけどそれを嘆いているばかりでは駄目だ。 琴は音が響くからまずいだろうが、書の稽古であれば大丈夫。彼もそのことを分かっていたのだろうか。 懐からそれを出して開けば、たった今したためたかのような美しい筆文字が表れる。字は人を表すと言うが、ならばこの一枚からも大切なことをうかがい知ることが出来るのだろうか。
考えれば考えるほど、それぞれの謎は深まっていく。限られた時間しか残されていない私は、気付けばすっかり迷子になっていた。
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