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…12…

「玻璃の花籠・新章〜鴻羽」

 

 たったおひとりの女人様の存在で、こんなにも心がかき乱されることになるなんて。

 自分でも理解できない思考の変化に戸惑いながら、また幾日かが過ぎていった。一体どのような素性の御方なのか、それすらも訊ねることが出来ない。私がお客人のことを物陰から覗いていたことはご承知のはずなのに、若様の方からもそれについてのお話が出ることはなかった。

 そんな夕べのこと。

 

「お嬢様、……お嬢様っ、大変です……!」

 にわかに部屋の表が騒がしくなったと思ったら、次の瞬間に転がるような勢いで小絹が飛び込んできた。一体何事が起こったのかと驚く私に、娘は苦しい息を吐きながら続ける。

「さ、先ほどの、牛車の音をお聞きになりましたか? ひどく騒々しいご様子でしたが」

 そう言えば、少し前に庭表の方が騒がしかったような気がする。だけど物思いに耽っていた私にとって、あまり気に留めるような出来事でもなかった。館に急なお客様が到着したのかも知れないが、もしもこちらに関わりがあることならば前もって連絡が来るはずである。

「ええ、……でもそれがどうしたというの」

 私の反応がよほど信じられなかったのか。小絹はまずは自分を落ち着かせるためにと首を幾度か横に振り、それから気を取り直して口を開く。

「その……、奥方様が急にお出掛けになったそうで、今宵はそのままご実家の方にお泊まりになるそうです。何でも急なお呼び出しだそうで……詳しいことは居残りの方々も分からないとのことです」

 いつになく慌てて話し続ける小絹の様子にもただならぬものがうかがえる。つい数刻前にお部屋へと呼ばれたときにはそのような話はなかった。よほど急な知らせだったのだろう。まだ出先にいる長兄や父上にも連絡は届いていないに違いない。

「まあ、御子様方は館にお残しになりましたし、ご実家のどなたかに何か起こったとかそう言うことではないようです。このたびのことは御館様にも内密にと口止めをなさったそうですし」

 小絹の話を聞きながら、何か重要なことを取りこぼしているような気がしていた。だけど、今の混乱した頭ではそのことをゆっくりと考えることが出来ない。確かに引っかかる箇所がある、だがそれが分からない。

「何をなさっているのですか! これは……これはまたとない幸運にございますよ……!」

 しかし館で唯一私のことを気遣ってくれるこの娘は、真っ直ぐな眼差しで私を促した。

「どうかすぐにお支度なさって、お出掛け下さいませ! ええ、抜け道の案内は兄に頼みましょう。館の人間も減っておりますし、きっと上手くいきますよ。このような機会は二度と訪れないかも知れませんから……!」

 そのときの私には、すぐには小絹の言葉の意味が分からなかった。一体、どこに何をしに行けと言うのだろう。とても遠い場所でぼんやりとそんなことを考えていたのだ。

「わたしはこれから御台所に出向き、急ぎ膳を用意して貰います。ですから、お嬢様はそれまでに着替えを済ませて下さい。どうか、お願いいたします……!」

 ああそうかと気付いたときには、もう小絹の足音は渡りの向こうに遠ざかっていた。

 あの娘は―― 未だに若様と私の関係を誤解しているに違いない。詳しいことを話す訳にはいかないのでうやむやに過ごしていたが、それが災いしたのだろう。幼心の見る夢はとても純粋に、周囲から許されぬ秘めた恋物語を創り上げていた。

「もはやわたしや兄の力ではお嬢様をお助けすることが出来ません。どうか今宵、お嬢様のお口から庵の御方にお願いなさって下さい。それしかもう、道は残されていないと思います。おふたりでゆっくり時間を掛けてお知恵を出し合えば、必ずや良策が浮かびますでしょう……!」

 あまりの勢いに、何か返答しようとも浮かぶことがなかった。必死に私を助けようとしてくれる、小絹の気持ちは本当に有り難い。だが、そもそも若様と私は彼女が思っているような間柄ではないのだ。火のないところに煙を立てることは不可能である。

「わ、……分かったわ」

 あとからいくらでも言い訳は考えられるだろうと、その場は承知した振りをした。一体どうしたらここまで間違った思考に走ることが出来るのかは謎だが、それを問いただしている暇はない。

「ご健闘をお祈りしています」

 両の手をしっかりと握りしめて私を見つめる清らかな瞳に、私はただ頷くことしか出来なかった。

 

◆◆◆


「何だ、今日はやけにのんびりしているな」

 さすがの御方は些細な変化にもすぐにお気づきになる。空になった夕餉の膳を脇に置いたままゆっくりと衣の手入れなどを続ける私に、彼は呆れたお声で訊ねてきた。

「ええ、まあ……あの、こちらの始末はこれで宜しいでしょうか? 何かおかしなところはございませんか」

 主様の身につける全てを整えるのは、侍女の一番大切なお務めである。一通りのことはこなせるようになったつもりであったが、まだ不慣れなためにあちこちに手落ちが生じることもままあった。

「そうだな、だいたいは良いが……この薄物はいつも決まったものを揃えるのだからひとつにまとめておいた方がいい。確かに色の濃淡で並べた方が見た目がいいが、忙しい中では手早くこなすための工夫も必要だからな」

 どうしてこの御方は、何もかもをご存じなのだろう。勉学を始め雅な趣味ごとの大方に精通しているのは身分のある方として当然のこととは思うが、普段は使用人に任せきりになるはずの細々とした雑用まできめ細やかな知識をお持ちのように思われる。
  私のような庶民ですら世話をしてくれる者たちに全てやらせて、その内容にまで深く気を留めることはなかったのに。考えれば考えるほど、不思議な御方だと思う。

 その後、若様はまた文書に目を落としたが、ややあって何かを思いついたのか再びお顔を上げた。

「まだ戻るまでに間があるなら丁度良い、……今宵は新しい稽古をつけてやろう。いいか、まずは僕が言う通りに支度をしろ」

 

 あっという間に落ちた冬の陽に辺りはすでに薄暗く、若様のいらっしゃるその場所だけが燭台の炎に美しく浮かび上がっていた。表の細道から灯りが見えないようにと、明るさの残っているうちに木戸をたててある。もちろん川沿いにあって防寒も兼ねているのだが、やはり人目を忍んだ暮らしは窮屈なものだろうと思う。

「こちらで宜しいでしょうか?」

 言われるがままに準備したのは、とっくりに盃、それから少しばかりの肴。以前からその日最後に引き上げる前に支度を頼まれることがあったので迷うことなく出来た。こう言うのも「慣れ」なのだなとしみじみ思う。迷うことなく出来る仕事がひとつずつ増えていくのは素直に嬉しかった。

「ま、そんなところだろう。ただ皿の上はもう少し行儀良くした方がいいな、そこの瓶にある南天の枝を折って下に敷いてみろ。それだけで見違えるぞ」

 扇を口元に当て仰る姿もすっかり見慣れているものである。ただ普段とは違い燭台の輝きの中ではっきりとした陰影を付けた表情が現れると、たとえようのない妖しさまでが感じられた。

 ―― こんな風にして、いつもあまたの女人様を虜にしていらっしゃるんだわ。そうに決まってる。

 いちいちそんなことを気にしても仕方ないのに、分かっていてもなお考えずにはいられない。あの日から、私の心の中には卑しい想像が付きまとっている。若様がひとりでお出でになるその場所に始終どこぞの女人様のお姿が浮かび、そのたびに胸が引きつれるような鈍い痛みを覚えた。

「それで良い、完璧とは言えないがまずまずの仕上がりだ」

 言われた通りに手を加えると、若様はほんの少しだけ口元をほころばせた。しかしそれは私の仕事を誉めてくれたと言うよりは、ご自身の思いつきを誇っているように見える。
  まあいいわ、これでまたひとつ知識が増えた。品数が少ないときは盛り方で工夫すればよいのだわ。

「じゃ、盆は一度そこに置いて。奥の襖を開けてご覧、お前に見せておきたいものがある」

 次から次へと注文が飛び出すのもいつものこと。もうすっかり慣れっこになっている。盆を下に立ち上がると、数歩進んで再び座り襖戸に手を掛けた。
  そこまでの動きも修行のひとつ、常に背筋を伸ばして乱れなく歩かなくてはならない。前屈みになりすぎれば髪が前に多く流れ、それだけ見苦しく思えるのだ。立つときも座するときも無意識に髪に手をやらない。ご主人様の御衣装やお道具に触れる手が汚らわしいものに見えてはならないのだ。

「……?」

 一度軽く引き、指が楽に入る隙間が出来たらそこに手を当てて音を立てぬように開いていく。その動作に集中していた手が、ある場所に来てぱたりと止まった。

「あの、……これは一体?」

 どうしたことだろう、昼の膳を持ち帰る前までにはこのようなものはなかったはずだ。申し訳程度の燭台が置かれた向こう、部屋奥に忽然と現れた衣紋掛けに艶やかな衣装が掛かっている。
  見ればすぐに分かる女物で、白と茜の大胆な色遣いで全体が見事に染め上がられていた。しかもその上には銀で縁取りされた羽が無数に飛び交っている。大きなものも小さなものもあり、離れて眺めていると柔らかな羽毛の一枚一枚が今にも浮かび上がって来そうだ。 

「そろそろ父の館に上がる支度も調えなくてはと思っていたんだ。何しろお祖母様は相当な目利きでいらっしゃるからね、適当に揃えたものでお目通りすれば御気分を害してすぐにつまみ出されてしまうよ。口添えをした僕までが恥をかくことになるのはごめんだからな」

 しばし息をすることも忘れていた。
  一体どうして、このような衣が存在するのだろう。これだけの距離があっても身体の震えが止まらない。近頃では輿入れの支度と称して晴れ着に触れる機会も増えていた。あの品々であっても裕福な実家が揃えるもので、たいそう値が張るものだと聞いている。しかし……ここにある一枚はそれらとは全く格が違った。

「どうした? せっかくだから羽織ってみればいい。きちんと着こなすことが出来なければ、館務めは出来ないぞ。今から慣れておかなければ間に合わないだろう」

 駄目よ、駄目。もしもどこかに引っかけたりしたらどうするの。間違って汚してしまうようなことがあっては困るわ。若様は慌てて首を横に振る私を不思議そうに眺めている。大喜びですぐさま手にするとでもお思いになったのだろうか。そんな恐ろしいこと、出来るはずもないのに。

 ―― 若様は、今でも私を侍女候補として御館に上げてくださるおつもりなんだわ。

 確かに最初の約束ではそうであった。でも、あのときは訳が分からぬままに暁高兄上の窮地を伝えられ、引くに引けないままに承諾してしまったまでである。だが現実として、その望みがあるのだろうか。この半月は今までの人生でかつてないほど必死に手習いに打ち込み、人の二倍も三倍も努力してきた。しかしそうであっても、まだ完成にはほど遠い現状だと思う。
  目も眩むような豪奢な装束に身を包み、完璧な立ち振る舞いで見る者を魅了する淑女に生まれ変わることが自分にも出来ると思っていたなんて、私は何と愚かだったのだろう。

「やはり姉上にお任せして正解だったな。あの御方はたいそうな趣味人だ、しかもお祖母様のお好みを良くご存じでいらっしゃる。短い時間でここまでの品を揃えてくださるとは、恐れ入ったよ。でも、わざわざ自ら出向いて届けてくださるとは思わなかったなあ……」

 くすくすと思い出し笑いをなさるご様子に、思わず振り返る。少し重くなった夜の気が、流れる髪に絡みついた。

「姉上、様……?」

 一体、何のお話をなさっているのだろう。耳慣れないお言葉にぼんやりとした私の輪郭を、彼の視線は興味深そうに辿っていく。

「そう、この前お目に掛かったでしょう? ああ、君は物陰から隠れて覗いていただけだったっけね」

 ……え、それでは?

「あ、あのっ! もしや、この間の御方は……若様の姉上様なのですか!?」

 御領主様にはこちらにおられる若様を含めて六人の御子様がいらっしゃる。そのうち、若様の下に末の姫君がおひとり。上に兄上様と姉上様がおふたりずつ……。上の姫君は型にはまらない、少しばかり風変わりな方だという話だ。それでは今ひとりの方、数年前に臣下とはいえたいそう格式のある家にお嫁に行かれたという中の姫君。今は集落境の警護を任せられた夫君に従って、ここよりさらに西の地にお住まいになっているとか。

「それくらい分かってたんじゃないの? 何も訊ねてこないから、そうなのかと思っていたけど」

 うわ、そ、そうだったのか! そうかあ、そう考えれば納得がいくわ。今の御領主様の御母上・本館の女人様一番のお気に入りであったというその御方ならば、あれだけの風格を持っていて当然だ。お顔が拝見できなかったのが残念だけれど、お母様似のたいそうお美しい方だと聞いている。

「は、はあ……」

 ああ、良かった。いえ、そんなの別に私が喜んだりするようなことじゃないんだけど……でも、そうか。姉姫様だったのか……!

「貴子?」

 若様の呼ぶ声にハッと我に返る。あら嫌だ、私ってば一体どんな顔をしているのかしら。だってどうして、今まで沈んでいた気持ちが全部吹き飛んでとても晴れやかな気分なんだもの。それでも頬の辺りにちりちりと視線を感じると、少しだけ正気が戻ってきた。

「そう言えば、お前の方も先日からどこか違っていたな。何か僕に隠していることがあるんじゃないのかい?」

 ……え。

 鮮やかに切り替えされて、思わず固まってしまう。だって、今の今までお気づきになっている素振りもなかったじゃない。そりゃ、多少は挙動不審なところはあったでしょうよ。だけど、そのようなことにいちいちお心を煩わせる御方じゃないし。

「いっ、いえっ! そのようなことは、全くもって!」

 己の中にある雑念までを一気に振り切る勢いで、大きく首を横に振る。今私が置かれている窮地を素直に打ち明けたらどうなるかしらという考えが一瞬だけ頭をかすめたけれど、すぐに思い直した。
  こんな風に気遣って下さる機会は二度と訪れないかも知れない。でも……やはり駄目だわ。こうして無理に手習いを付けてもらっているだけでも申し訳ないのに、これ以上何を望むというの。今の若様はその手に余るほどの難題を抱えていらっしゃるのだ、私ごときの問題などに割いている時間はないのよ。
  あんなに美しい衣まで用意していただいて、本当に光栄だと思う。でも若様がここまで私のために心を砕いて下さるのは、暁高兄上の並々ならぬ忠義に応えるため。何も私自身への想いがあるわけじゃないのよ。それを忘れちゃ駄目。
「どうか今宵、お嬢様のお口から―― 」と小絹に言われた。でもそんなことが許されるはずがないことくらい私自身が一番良く知ってるわ。

「そうか、ならば良いが」

 微かに首をかしげる仕草で、未だに私の言葉を訝しんでいらっしゃるのが分かる。だけどこれ以上は踏み込む必要がないと判断されたのだろう、ゆるりと姿勢を変えて私を手招きする。

「ほら、ぼんやりしている暇はないぞ。早くここに来て酌をしろ、この間は散々だったが今度は間違いがないようにやってくれよ?」

 

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